萩原恭次郎
碑文 後方は群馬大橋 碑文前の遊歩道。恭次郎が住んだ石倉はこの近くにある
汝は 山河と 共に生くべし
汝の名は 山岳に 刻むべし
流水に 画くべし
萩原恭次郎(1899-1938)は、当時の勢多郡南橘村日輪寺(現在の前橋市日輪寺町)の農家の次男として生まれ12歳まで過ごした。石倉に住む叔母の養子となり、前橋中学を卒業した。その後、坪井繁治、岡本潤などを知り前衛芸術運動の旗手として活躍し、雑誌「赤と黒」を創刊。大正11年詩集「死刑宣告」を出版した。「死刑宣告」は写真版などを多くとり入れたり活字の大きさを変えたりし、詩の行も上下左右から始まるといった斬新な手法を取り入れ、近代詩に変革をもたらしたと高く評価されている。
その後、アナーキズムに傾倒し、「黒旗は進む」を創刊したが1号で終わり、石倉に帰ってその活動を続けた。1932(昭和七)年「クロポトキンを中心とした芸術の研究」を創刊し、第1号に農民詩の傑作といわれている「もうろくずきん」を発表。その後、高橋元吉の勧めで煥乎堂書店に勤めたが1938(昭和13)年、溶血性貧血のため39歳で没した。
碑文は昭和13年の作。書は友人高橋元吉のものである。昭和34年4月に建立された。昭和34年は恭次郎没後20年である。同姓の朔太郎とは親戚関係にないが、朔太郎を兄と慕っていた。
恭次郎の実家周辺で当時は養蚕が盛んであった。次の作品は、養蚕にとって致命的になるかも知れない遅霜を案じて、都会に住む恭次郎が故郷を案じて書いたものである。桑が霜にやられて採れないと、お蚕が全滅になる。それは生活が成り立たなくなることを意味する深刻な事態である。遠く離れた自分には心配することしかできない歯がゆさや無力感が感じられる。身は遠くにいても気持ちは故郷にあったのだろう。恭次郎の作品には貧しく喘ぐ農民、労働者の辛さ悲しさが描かれ、働く者への温かな思いが伝えられてくる。
新聞を買ひに毎夜 俺は熟睡できないでゐる
こんな夜は霜が下りやしないか
俺は本を読んでゐても
胸の底がヤキヤキ焼ける・・・・・
俺の目には果てしなき桑原が
ただ闇黒の底に浮かぶ
桑の木がスイスイ光ってゐる!
そいつが残らず霜にやられて
朝日が出ると真っ黒になってしもう
兄弟は桑畑にしゃがんでゐる!
朝になると俺は新聞の霜の記事をさがす
故郷の新聞を我慢できなくて買ひに出掛ける
兄弟は 今頃 例の調子で
桑畑を心配しながら見廻っている頃だらう
(萩原恭次郎全集第1巻より引用)
朔太郎 「純情小曲集」の萩原恭次郎による跋
『 萩原朔太郎! 少年時からの懷かしさで、今では兄のやうに思へる。氏と語る時には、常に寡默な輕い憂鬱さを知る。秀でた人のもつ善良の味だ。私は實にその偏奇な高潔さが好きだ。卓を挾んで拳鬪家のやうに語り合ふ事は、極めて尠い。が、語る!
怒り、淋しい頽廢の怒り、閃く、自棄的な時、どこにも快活な、何物へも得意さと云ふものが現はれない日、病的な程堪へ難い日がある。また晴天の日、松林を走るやうな愉快な疳の高い日の氏は、腸の蟲まで笑ひこける、押へつけられないやうな氣がする。其程、輕快な警句が躍り上る。
然し、一體に重い影の中に、氏の姿はある。
四月、自分が見すぼらしい下宿の二階を間借りしてゐる氏を訪ねて、今度の「郷土望景詩集」の原稿を拜見した時、その多くが餘りにも、激越的な忍耐強い人のよくする怒りが、綴られてゐるのに驚いた。其時、氏と散歩して來た、非感覺的な櫻の花が咲きみだれてゐた前橋公園や、かつて「雲雀の巣」に歌はれた堤防附近や、その他抒情的風景の多くが、氏にとつて内心の惡舌を吐きかける所となつてゐるのに驚いたのであつた。内心の惡舌は即ち内心の泣訴である。「友よ、君が生活を匿して、その魂を示せ!」ヰ"クトル・ユウゴウの言葉そのものが、その中にひそんでゐる。
氏が、郷土に於ける生活は、さなきだに因習的な莫迦らしい制度や、臆面もない抑壓的なものが、自然と外から内へまで、のさばり込んだらしい。それへの怒り! 即ち生活的の苦 は、藝術的の怒 りとなつて現はれたのだ。自分はこの堪へ難いやうな作品を見た時に、藝術的であると云ふ言葉をもつて、之等の詩に對する事を排けなくてはならぬと思つた。何故なれば、餘りにも、藝術のもつムード以外の生活的悲鳴が、之等を領してゐたからである。
「月に吠える」や「青猫」によつて氏を洞見してゐた讀者は、如何にこの詩集によつて驚異するであらう。以上の詩集によつて知らるる氏は、強い厭生思想者であり、神祕的な詩人である。この眼をつぶつた、齒を食ひしばつた怒りを知らない。この現實的な苦悶を知らない。
最近の氏には、今までにない内攻する苦悶が見える。田舍に住む事以外に、多樣の堪へ難い行き詰りがあるらしい。殊に何物かの甚だしい行き詰りがあるらしい。この詩集はそれへの一つの暗示であるやうに思ふ。
ともあれ、この詩集に於いては、孤獨に生きねばゐられなかつた氏が、孤獨に生きる事の苦しさを告白した、悲痛なる一種の記録である。今、自分が氏に就いて語らうとするのは早計である。けれ共、氏に就いて語らうとする者は、この詩集を繙いて、如何に如實なる氏を知る事が出來るであらう。生活者としての氏を識る者は、藝術家としての氏を敬する以上に、惱ましいまでの親和を感ずるであらう。
尠くもこの詩集によつて、氏に一轉化の來たされんとしつつあるは、誤らない事實だ。昨日の高踏的詩風に、この現實的なバツクの浸潤を加へる事によつて、氏の藝術境は一層の深刻を加へる事であらう。私は此等の詩に接して、更に更に何等のあます所なく、どんなに愉快な喜びの念にうたれるか知れない。と共に、苦蓬酒のやうな生活の中に、隱忍的の苦を送つてゐられる氏を、強い感激的な念にうたれざるを得ない。以上を跋文の形として、日頃の喜びと、懷しさを、更に更に高く捧げたく思ふ私である事は、世の多くの讀者とまたすこしも變らないのである。
大正十三年初秋
萩原恭次郎』
明るい麦穂
麦穂あかるき 畑中に
はや さとくも心は うるほみきたる
手を上げ 何をよばんとするや
茨の花は 水にながれ
はるかの 野辺に汽車はしり
そのかげ ちさく 消えてゆく
前橋子ども公園 文学の小道に1975年11月設置
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