利根の松原
「利根の松原」は現在の西北部にある敷島公園である。朔太郎はここを好んで散策した。当時は松が自然のままであったようだが、現在は整備され、野鳥も多く見られ、松林の北部にはバラ園が設けられ市民の憩いの場になっている。
利根の松原 日曜日の晝 わが愉快なる 芽はまだ萌えざれども 少年の情緒は赤く木の間を 友等みな異性のあたたかき腕をおもへるなり。 ああこの追憶の古き林にきて ひとり蒼天の高きに眺め入らんとす いづこぞ憂愁ににたるものきて ひそかにわれの背中を觸れゆく日かな。 いま風景は秋晩くすでに枯れたり われは燒石を口にあてて しきりにこの熱する |
「郷土望景詩の後に」 小出松林 小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓にあり。我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、橅、の類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここに敷かれ、直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。 |
利根の松原の詩碑
詩碑は、前橋子ども公園 文学の小道に1975年11月設置された。 |
利根の松原の詩碑(原文の6~9行のみ) ああこの追憶の古き林にきて
ひとり蒼天の高きに眺め入らんとす
いづこぞ憂愁ににたるものきて
ひそかにわれの背中を觸れゆく日かな。
前橋市北曲輪町69番地にあった生家のうち、土蔵は1974(昭和49)年に敷島公園ばら園内に移築され展示施設として翌年4月1日に一般公開されました。その後、書斎・離れ座敷も一か所に集め、書斎を1978(昭和53)年に、離れ座敷を1979(昭和54)年にそれぞれ同地へと移築し、1980(昭和55)年5月11日より記念館として一般公開していましたが、これらの建物を前橋文学館と広瀬川を挟んだ河畔緑地へと移築復元し、2017(平成29)年4月8日から、新たに公開しました。(前橋市ホームページから引用)
朔太郎記念館全景。
左から、書斎、離れ座敷、土蔵(遺愛品、生涯と業績の展示)朔太郎生家の配置図。生家は現在は碑文が残されているだけである 書斎 この建物は、朔太郎がまだ独身時代の大正三年(二十九才)から同八年まで、書斎兼音楽室として愛用した建物を移築したものです。
当時市内曲輪町(現千代田町二丁目)の生家内裏手の土造塀付設の物置を、改造したもので、カーテン、椅子、卓子などの装飾、調度は洋風の極めてハイカラなものであり、すべて朔太郎の考案選定によることが、当時の日記に記されています。
「月に吠える」の全作品と、「新しき欲情」「青猫」などの作品の多くはこの頃に作られたものであり、北原白秋、室生犀星などもこの書斎に通されました。
朔太郎はまた、この小部屋をゴンドラクラブと愛称して、マンドリンやギターの演奏、作曲にふけり、又マンドリンの教授に当たり、ゴンドラ洋楽会(後の上毛マンドリン倶楽部)をも組織しました。
かように若い頃の朔太郎が、詩人として、音楽家として、情熱をこめた居室で、その遺跡として最も記念すべきものです。建物所有者のご寄附により、昭和五十三年十一月ここに移築復元しました。
(前橋市教育委員会による)生家離れ座敷 この建物はもと市内千代田町二丁目一番十七号(もと北曲輪町六十九番地)の離れ座敷であった。明治二十五年頃父密蔵氏がこれを建て、大正八年まで朔太郎が生家に住んでいたこと、北原白秋・若山牧水・室生犀星など、朔太郎の詩友の多くが来遊した座敷で、生家建物のうち最も記念的な部分として広く朔太郎愛読者に親しまれてきたものである。前橋市が朔太郎の実妹津久井幸子さんから寄附を受け、昭和五十四年十二月ここに移し、文学遺跡として保存することにしたものである。
(前橋市教育委員会による)
朔太郎生家跡
生家跡には碑文があるのみ。都会の片隅にひっそりと佇んでいる 生家跡由来。2006年6月設置
メニュー