幼い頃の記憶


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幼き頃の記憶
2005/08/08

1 戦争に関わる記憶 
2 家のまわりで
3 季節の中で
4 食べ物
5 小学校
6 不思議な記憶
7 遊び
1 戦争に関わる記憶 
誕生日の新聞
   私の手元に自分の誕生日の新聞が残されている。どんなことが当時あったかいくつかを抜き書きしてみる。私が2歳の8月に終戦の玉音放送が流れた。新聞は朝日新聞東京本社版で、横書きは右から左に書かれている。第一面の主な記事は次のようなものだった。
地方制改正關係法案けふ上程
(再開第三日を迎へる三十日の議會は貴衆両院ともに早くも各特別委員会を全面的に開いて決戰に備うべき各重要議案に対する具体的檢討の態勢をとゝへることとなった、すなはち貴院においてはすでに前日から開かれてゐる恩給法中改正法案委員會のほか七委員會を設置、衆院においても增税案以下二十八議案に対して四委員會が開かれ、また一方豫算總会においては政府當局より大戰下における外交關係の実相につき詳細な説明を聼取する予定である、しかしこの日の本会議においては前日の日程より引き継がれた地方制度改正案關係法案をはじめとする十五法案が上程されるが、特に、市制、町村制、府廳制の改正法案および農業團体法案についてはいづれも決戰下における國民組織と關連してゐるだけに議會側の深く關心を寄せるところとなり、前者に対しては四名、後者に対しては二名の質問者が通告されてをり、これに対する政府の答弁こそこの日の議會における論議の焦点として最も注目に値するものであろう、今やいよゝ緊迫化を示しつつある世界戰局の新事態は直ちをもつてわが国内体制の結集成否に强くつながってゐる現実は、政府當局の説明を通じて議會にますゝ深刻に感得されつゝあり、政府また官民一体の体制確立を異常なる緊急感をもって切迫しつゝあることは二十九日の議會における政府の答弁が率直かつ看取されるのであるが、今後の本會議ならびに各委員會を通じて國民總力結集のため政府ならびに議會双方のおける一段の努力の傾注が期待される)

  他の見出しは
財政に不安なし インフレの防止に萬全 蔵相言明
帝都行政を一元強化 内相、都政案の趣旨説明
ナチス執政けふ十周年 決戰へ隆々の國力 新興の気魄、世界新秩序へ邁進(ヒットラー總統の写真つき)。→ 右画像
  小見出しは、「悲境から断固奮起、矢継ぎ早に再軍備、東西呼應聖戦へ挺身、國内態勢揺るぎなし」である。
運航統制さらに強化」
「鬼畜の世界征服慾 馬脚露した米英會談」
「ルーズヴェルト ブラジル訪問 大統領と會談」

などである。

小さい記事として「首相一日は登院」がある。記事は次のようなものである。
(東條首相は二十八日の議会再開日において病躯を押して登院貴衆両院でそれゞ約一時間にわたり一般施政演説をなし、このため疲勞の結果、同日夜は微熱があったが、二十九日は午前午後とも平熱、去る十六日夜以来の微熱も全快したやうで、三十、三十一の両日十分休養をとりいよゝ一日の貴衆両院本會議ならびに豫算総会に出席、議会側質問に答弁に當たるものとみられる」

広告には、
「軍神加藤少將 小國民版、杉田玄白の生涯、加賀の千代女 (小學館)」、
「青少年の教護と錬成、青年と教養(教育科學社)」、
「南方共榮團物語(櫻花社新刊)」、
「青銅の基督(長與善郎)、通盛の妻(田山花袋) 名作歴史文學」、
「旋盤の第一歩 寫真で見る旋盤作業の實際(玄光社)
」などがある。

「軍神加藤少將・・・」 の解説には
生きては無敵陸鷹至宝、死しては空の軍神として一億同胞の敬慕を一身に集める加藤少將傳の小國民決定版!國民学校中級以上」とある。

前日の記事には、パーマネント追放で資生堂美容部が廃業とあった。
(新聞記事の中に読点はあるが句点がつけられてないことは興味深い)

叔父が帰還した日
  私の最も幼い記憶は5歳頃だったから、戦争そのものの恐怖や辛さの記憶は残ってない。しかし、終戦直後の慌ただしさや復興についての記憶が残っているので、戦争の匂いを残したいくつかのことについて記しておきたい。
   舞鶴経由で大陸から引き上げる人々に関する尋ね人の放送がハイケンスのセレナードの音楽に乗って放送されていた。私の母親は父親が(つまり私の祖父)が職業軍人で、娘時代を満州で過ごしていたので、状況が少し変わっていたら私も中国残留孤児だったかもしれないという思いはずっと残っている。最近は高齢化して中国残留孤児の身元調査もほとんどニュースにならなくなってきたが、私の年齢が残留孤児の最年少であるから人ごとと思えない。身元が判明しても家族に会えない事情の人を思うと涙なしにはいられない。
  京都に住んでいた叔父が満州から本土に帰還することができ、母親(つまり私の祖母)の元にでなく、姉である私の母を頼って来前したのは昭和20年代の前半だった。叔父は満州の戦地で暴発した鉄砲によって人差し指を失った。その怪我が生々しいまま帰還した。6人兄弟の長姉として幼い弟妹の面倒をみた後嫁いだ姉を頼りにしていたためだったらしいが、京都に残した兄弟に安住の場所がなかったことも一因だったのだろう。
  戦地から一度も訪れたことのない前橋にやっとの思いでやってきたが、前橋駅から歩いて家を探していた叔父は、姉宅近くまで来ると、聞き覚えのある大きな女性の声を聞きつけたという。母の声であった。母がそれほど大声で話す人物だとは思わないが、叔父にはその声が聞き取れたのだった。「お姉さんの大きな声が聞こえたので、家がわかったのです」という話しはその後、語りぐさになっていた。戦闘帽姿で、カーキ色の背嚢など必要最小限の荷物を持ってやっとの思いで無事に帰還できたその晩は、互いの無事を喜んで夜明かしで話し込んだという。叔父は指の怪我があったため、傷痍軍人として終生軍人恩給を配され、年に2度の国内鉄道の無料パスを手にすることができ、無事に帰還できたことを心から喜んでいたが、一方で戦地で命を失った多くの戦友が家族を残して、たった一枚の戦死の通知の紙切れで終わらなければならなかったことに心を痛めていた。
  京都に戻ってからの叔父は、家族を守るための戦いの生活が始まっていた。すぐに母親と弟、妹の住居を確保するために奔走しなければならなかった。多くの人が家を失っている中ですぐに住居を得るための順を待っていては、家族が雨露をしのぐことができなかった。役所に満州からの帰還であることや家族の困窮を訴えたことから、やっと府営住宅が宛われることになった。その後、幸いにして専門を生かせる仕事に就く幸運に恵まれ、子、孫に囲まれて幸せな最期を送ることができたが、死の直前、潰瘍による胃穿孔にもかかわらず痛みをこらえ続け、医師から、こんな我慢強い人はいない、と言われたという。遺影の前で、戦地での痛みを思えば耐えられる痛みだったのかと、満州での辛さ、厳しさに思いを馳せないわけにいかなかった。
   叔父が私の母の病気見舞いで久しぶりに来前した折りに「おかあさんを大切にしなさい」と言ってくれたことをときどき思い出している。人の痛みの分かる温かい人だった。

物価
  几帳面だった母親は長い間丹念に家計簿をつけていた。残っている最古の記録は、私の誕生日の日で、陣痛がはじまって出産に至るまでの様子が詳細に書かれていた。家計簿はメモ代わりになっていて、生活のいろいろなことが、ときに乱れた字で書き込まれていたことがあった。家計簿の最後の記録は母が病気で入院する直前の日までであった。記録の一つとして家計簿の一部を引用してみる。
昭和25年11月

  米配給(*1) 761円、牛肉100匁 100円、パン 25円、さんま 20円、納豆・歯磨き粉 24円10銭、石けん2個 36円、はがき 10円、白菜 35円、醤油1升 90円、クレヨン 31円、納豆 17円80銭、さつま揚げ 25円、手ぬぐい2本 80円、風呂 5円、新聞代 70円、父小遣い 100円、塩 40円
昭和25年12月
  ボール 80円、人参 20円、あめ 10円、メンコ 5円、ほうき 230円、みかん 30円、ズルチン(*2) 50円、薪 37円、電球 45円、松飾り 90円、紙芝居 24円、子供小遣い 12円、きなこ 40円、油揚げ 10円
昭和26年1月
  とり餌(*3) 140円、里芋 10円、練炭14個 150円、だるま 80円、靴 2800円、米配給 464円、長女給食代・PTA会費 147円、ちり紙 20円、長男下駄 60円、のり2帖 70円、うどん 59円
昭和27年1月
  子供小遣い 200円、洋服仕立て代 530円、風呂12円、煙草40円、うどん 40円、電灯代 203円、もち米 300円、納豆 12円、風呂12円、まき 128円、木炭 290円、長女算数テスト 35円、長男本 165円、毛糸2オンス 230円、ビスケット30円、長男算数国語テスト 50円、とり餌 250円、家賃460円
昭和28年3月
  米14キロ 952円、小豆5合 80円、酒屋 380円、次男帽子 160円、洋服 800円、ワイシャツ 700円、ネクタイ 480円、パン 120円、風呂 29円、はんぺん 26円、酢 5円
昭和29年4月
  面白ブック、少女サロン 215円、菓子 50円、婦人会費 300円、卵 100円、コロッケ 45円、電気代 275円、支那そば 30円、油揚げ 12円、電球10円、エス狂犬病注射 100円
昭和30年1月
  松飾り 10円、風呂 42円、電気代 323円、豆腐 15円、佃煮 50円、コロッケ 60円、婦人会費 300円、練炭 200円、卵50円、でんぶ 50円
昭和35年1月
  茶 200円、井戸直し(*4) 220円、靴修繕 450円、下駄 170円、マフラー 600円、フィルム 120円、豆腐 15円、風呂 58円、ブツ(*5) 50円、姪結婚祝い 2000円、畳3帖返し 400円、便所くみ取り(*6) 400円
昭和36年1月
  なべ 580円、米 4300円、燃料代 1210円、味噌 100円、定期券 2000円、牛乳 400円、ジャンパー 4000円、ワイシャツ 1000円、りんご 28円、のり 65円
昭和38年7月
  塩 20円、ウィンナー 50円、パン 35円、米 3781円、卵 110円、さしみ 100円、次男床屋 200円、電気代 573円、町内会費 60円、新聞代 450円、卵 75円、アイスクリーム 50円
昭和39年8月
  牛乳 520円、すいか150円、マジックインキ 50円、テレビ代 660円、バス代 20円、開襟シャツ 550円、電気洗濯機 14900円、ゆかた 650円、次男月謝 2000円、貯金 1000円、水道代 192円、町内会費60円
昭和40年5月
  水道代158円、新聞代 450円、米 1658円、牛乳 570円、酒屋 1000円、電気代 491円、薬代 425円、保険 625円、貯金 2600円、次男へ仕送り 7000円

(*1) 米代が大きな割合を占めるが、配給制度があり、昭和30年代中頃までは米穀通帳が必要であり、これが身分証明用としても使われた。
(*2) 砂糖の代用品として(砂糖の甘さの250倍)使われていたが、合成甘味料のチクロと同様に有毒性が疑われ現在は使用されてない。サッカリンはチューイングガムだけに使用されていて、水溶液はショ糖の約500倍の甘さ。
(*3) 家で鶏を飼っていた。卵が貴重なタンパク源だった。鶏を狙ってヘビが小屋に入り込み、追い立てられたヘビが家の中に逃げ込んで大騒動になったことがあった。
(*4) ポンプ式で弁を定期的に交換する必要があった。
(*5) まぐろのぶつ切り。繊維質の部分が多くて食べにくかったが、とろろ芋と混ぜて食べることが多かった。
(*6) 知り合いの農家から来てもらっていた。農家では肥料としてしていた。
防空壕と焼夷弾
   前橋の利根川の川岸には長い間、当時を思わせる防空壕の残骸があり、子供達の格好の遊び場になっていた。今もその残骸が残っている。私には防空壕に避難した記憶は残ってないが、昭和20年8月5日のB29による前橋空襲では当時の前橋市の約8割が3日間燃え続け焦土と化した。利根河原の防空壕がいっぱいになり、敵に聞こえるから子供を泣かせるなと叫んで軍刀をかざす人もいたという。利根河原に避難した人が多かったが、市内には多くの死傷者が出た。阿鼻叫喚の中、生死の淵に立たされた人々が住むところを失い、家族を捜し回っている姿があちこちに見られた。
  子供の身を守ってくれた親や近所の人々に感謝である。私が知っている防空壕の中は、露が滴ってきて湿っぽい、居心地の悪い場所であったが、空襲の時はたくさんの防空壕に入りきれずに命を絶った人が多かった。

   物心ついてから、これが戦争の遺品と思わされたのが焼夷弾の残骸であった。直径10センチほどの六角形の金属を加工して灰皿として使われていた。もう一つは直径が20センチ以上もあった鉄製の真ん中に小さな穴が開けられたずっしりと重い輪であった。こんな塊が落ちてくるのでは堪らない。こういうもので人を殺す目的で敵に投げつけるのが戦争なのだ。自分の家族は守るが、他国の家族を殺すのが戦争なのだ。焼夷弾は、中に油脂を満たしておき、落下と共に発火させ周辺を火の海にしようとするものであるという。前橋でも焼夷弾が地面に何本も刺さって、夜が昼のようになり、多数が火傷で死傷した。

戦争体験を聞く
   戦地から帰還した先生が授業そっちのけで戦争体験を話す人が少なからずいた。
   その話は2つに分けられた。一つは自分が勇猛果敢だったことをおもしろ半分に話す人。もう一つは大変さ、悲惨さ、軍隊の不条理さを話す人である。第一の分類の話をする先生もさすがに自分が何人敵を殺したかなどと話す人はいなかった。所詮子供相手の話だから、飛んできた弾で味方の兵隊の尻に火がついたとか、蛇やイモリを食べてうまかったなどという他愛のないものだった。
   戦争体験こそ話さなかったが、兵隊さんの使っていた鞄をいつも持っていて、国民服らしき同じ服装の小学校の担任の先生は二眼のカメラを教室に持ち込んで生徒の写真をよく撮り、それを生徒に売りつけていた。買わないとまずい雰囲気もあって大抵は、いい記念だからといって買っていた。正確に言うと買わされていた。この人はいつも紙幣を数えるときに指先を舐めて数え間違えがないように余念がなかったが、その姿がいかにも守銭奴という雰囲気を醸し出していた。彼もきっと当時は貧しかったのに違いない。
   第二の分類の話をする先生は真剣で話に力がこもっていた。中学の先生にも戦地での経験者が何人かいた。その中で国語の先生は、海軍にいて戦艦が撃沈され、何日も木ぎれにしがみついて漂流の後に救い出された。撃沈された戦艦から火柱が立ち、投げ出された兵隊があちこちで力尽きて沈んでいったという。この先生は自分の戦地体験を短歌集として出版した。そうした先生の話からは、「戦争はいけないこと、悲惨なこと」ということが伝わってきて、授業の内容よりそうした話の方が記憶に残っている。
   私たちの年代はこのように直接戦争を経験した先生から戦争について聞かされてきて、同級生の中にも父親を戦争で失った者もいて、戦争はやってはいけないことと教えられてきたが、現在は教えられてないか、単なる歴史の知識として記憶しているだけの場合がほとんどだろう。私が教員として機会を捉えてそうしたことについて話してきたつもりだったが、実体験の有無は決定的である。ただ、修学旅行を通して長崎の被爆体験談を、生きた教材として聞かせてきたのはせめてもの努力であった。以前は被爆体験の講話を聞かせることや反戦に関わる話が、政治的だから触れてはならない事だなどとしていたから驚きである。

進駐軍
   利根橋を渡った石倉方面から、進駐軍の隊列が刑務所前を北上し県庁近くにあった進駐軍の建物に向かっていくのを何度も見た。たぶん高崎の連隊から来たのだろう。幌をかけたトラック、ジープ、大砲をつけた車、いずれもねずみ色の素っ気ないものであった。トラックの中には体格のいい兵隊が白人も黒人も乗っていた。あるとき、紅雲町の長昌寺のすぐ近くを走っているトラックの中で二人の兵隊が殴り合いの喧嘩をし、一方が片手で柱につかまり、あやうく落ちそうになっているのを目撃した。
   たいがいの場合車列が来たことを察知した子供が、「アメ公が来たぞ!」と叫んでまわり、子供達は道路脇に立って「ギブミー、チョコレート!」と大声で叫んだ。トラックからいくつものキャラメルやチョコレートが投げつけられた。投げられた菓子の類に書かれていたのは、当然ながらすべて横文字であった。小学生の上級生や中学生が大きな戦果を上げ、かぶりついた。何人かの少年は「アメ公なんかに施しはうけネェ」と叫んだことがあった。私も、それもそうだと思って拾いに行ったことはなかった。

   進駐軍の建物は現在の県庁の東、群馬会館の南側、市役所の辺りにあった。当時の県庁は現在の昭和庁舎の建物だった。県庁から東に桐生方面に通じる道の左右は薄汚れた木造の建物が連なっていた。「進駐軍に行くと夜になると、何かやってる」と聞き、何人かの少年とともに日が暮れてから見に行った。紅雲町の自宅から歩いて10分もしない距離だった。進駐軍の建物が遠くに見える距離になると煌々と明かりがつき眩しいほどだった。中からジャズらしき音楽が聞こえていた。そこは日本しかしアメリカだった。

傷痍軍人・兵隊さんの帰還
   前橋市内の商店街に買い物に行くことを、「街に行く」と言っていた。当時は現在と違って人が溢れるほど賑わっていた。近郷(これを在=ざいと言った。田舎の人を在ごっぺと茶化したこともあった)から街に行くのにおめかしをして出かけたものだったようだ。中央アーケード街を南側から入ると、文房具店の東側の馬場川沿いに今は大きなデパートに変身した商店が、道にこぼれんばかりの商品を並べて商いしていた。下着の類が多かったのか、母はあそこは安くていい、と買い物をしていた。アーケード街の左右には、呉服屋、玩具店、陶器屋などが軒を並べ、北の大きな四つ角に麻屋デパートがあった。
  当時の片原饅頭店から来た道とぶつかる位置に、人々が行き交う中に白衣に身を包んで戦闘帽を被ってアコーディオンで軍歌を奏で、松葉杖を支えにした何人かの傷痍軍人がきまって立っていた。彼らの前には小さな箱が置かれていた。彼らの前に置かれた器の中に通行人が義捐金として小銭を投げ込んでいた。アコーディオンの音はずっと続いていたが、幼い私はなぜ彼らが、なぜ痛々しい姿でそこにいたのか理解することはできなかった。
  前橋駅に兵隊さんが帰還してくるから迎えに行こう、と話があり子供たちが連れ立って出かけた。沢山の人が前橋駅で兵隊さんを出迎えた。家族らしい人との再会の場面があった。兵隊さんは一人だけだった。戦闘帽、カーキ色の鞄、背嚢を身につけ迎えの人に挨拶をした後、彼の自宅まで凱旋歩行が続いた。歩いて10分程の道のりを人々が兵隊さんの後に続いて、県女(前橋女子校)近くの自宅前に来ると、「ご帰還、万歳!」と叫んで兵隊さんが最敬礼をして家に入っていった。やせ細り髭面だった兵隊さんは、その後洋裁店を営んでいたと聞いた。これが身近かにいた本物の兵隊さんに会った最初で最後の対面であった。県内で復員できた兵隊さんの数はおよそ67000人だったという。

2 家のまわりで
引っ越し
   前橋に転居していた間借り先から近くの2建長屋に引っ越すことになり、これで安心して便所を使うことができると安心したものだった。転居の前日、近所に住む自転車屋のおばさんが突然顔を見せ、「この家は鬼門だからお祓いしないと大変だよ」と告げてきた。この言葉に親は動揺したようだった。やっと見つけた新居に喜んでいた気持ちが吹き飛んでしまったようだった。
  鬼門とは、北東の方角を表鬼門と称し、南西を裏鬼門というのだそうで、中国の故事に起因があるという。表鬼門は艮(丑寅うしとら)の方角といわれて、ウシの角とトラの模様のフンドシが鬼をイメージさせ、昔話の「桃太郎」で、鬼退治のお供をしたのはサル(申)・トリ(酉)・イヌ(戌)が北東の反対の方角である南西に近い方角を差すことから、北東の丑寅を反対側の動物を連れて退治に行ったと書物に書かれている。
   確かに転居は北東から南西の方角であった。子供心にそんなの迷信だから、親がどうこうすることなどないと思っていたが、いくらもしない日が経ってから神主の身なりの人物がやってきた。彼は方位磁石を持ち、「たしかに鬼門ですね」と念を押した後、お祓いの儀式をして帰った。我が家に仏壇はなかったが神棚はあった。仏壇がないのは父が分家だったからだったためで、その代わりに祖母の大きな写真が一番目立つところに掲げられていた。親が神仏を熱心に崇拝していたとは思えなかったが、神棚は両親が最後まで住んでいた家に設けられていて、初市で手に入れただるまが飾ってあった。鬼門に対して漠然とした不安を感じ、家族の息災のためとの思いからのお祓いだったのだろうが、不思議な思いが残っている。

両親の住む家を離れてから、現在に至るまで20回以上も転居を重ねたが、その後一度も鬼門を思い出すことはなかった。

薪割り
 私が幼い頃の燃料は薪、練炭、炭だった。薪は煮炊きのために、練炭、炭は冬場の暖房に使われた。練炭火鉢は、立てつけの悪い家にはあまり暖かさをもたらしてくれないが、唯一の暖房器具だった。
  近所の燃料店で直径が5センチほどの薪の束を自転車に乗せて買ってきた。これをかまどで使うためには燃えやすくするために鉈で細かく割らないと使い物にならない。これは子供の仕事だったが、一度だけ薪割りの仕事中に誤って左手人差し指を鉈が直撃して痛い思いをした。その傷は今も立派に子供の時の仕事の勲章として残っている。割った後の薪は乾燥を助けるために、数本ずつをまとめて交互に積み上げて雨露をしのぐ場所に置かれた。
  母が腰痛で寝込んだ時期があった。元気が自慢の母だったが、ときどき襲われる腰痛と眼病には悩まされていたようだった。日曜日の朝、弟と一緒に何度もご飯を炊いたことがあった。前日から、明日の朝早起きしてご飯を炊いて母を驚かしてやろうと相談がまとまっていた。5時頃、弟とともに布団からそっと抜けだし、かまどに火を入れた。焚きつけの始めは桧葉、杉などのよく乾燥した枯葉に新聞紙からの火を移すのである。いきなり薪にマッチの火をつけるなどという愚かなことが通用しないことは当時の少年達の常識だった。うまく燃えないと息苦しかったし目が痛くなってぼろぼろと涙が出た。これを「煙がエブイ(=けむい)」と言っていた。家族5人だったから、たぶん5合程度の米麦がクツクツいい始めるまで、はじめチョロチョロなかパッパで炊きあげた。最後は釜の中でプツプツと音がしはじめると火を落として蒸らしてできあがり。釜の底にこびりついている「おこげ」に醤油をかけて食べるとうまかった。「母ちゃんがおどろくぞ」とわくわくしながら、再び気づかれないように布団に戻って一寝入りした。
  7時過ぎに母が起き、朝食の仕事を始めた。家の外にあったかまどの前から大きな声が聞こえてきた。「まあ、ご飯が炊けているよ。誰が・・・・」。弟といっしょに、してやったりの顔をして声を殺して笑い合い、満たされた気分の一日が始まっていた。母を少しでも手助けしたいと思ってのことだったが、この話をその後思い出すたびに、2歳年上の姉がなぜ早起きしなかったのか不思議であった。どうやったらうまくご飯が炊けるかという工夫は子供心に習得していったようである。
 私が育った幼少時代にはどこの家庭でも子供の仕事が溢れていた。ふとんの上げ下ろし、買い物、部屋、庭の掃除、雑巾がけ、子守り、飯炊き、洗濯・風呂の水くみ、・・・ などである。子供は労働力としてあてにされていたが、同時に子供の居場所があった。物理的に部屋は狭かったが、気持ちの上での居場所は広かった。十分な暖房器具はなくても気持ちは暖かかったのかもしれない。子供部屋などなかったから、親は子供の気持ちや健康の変化にすぐに気づいたし、多くの子供は親が困窮している様子をずっと見てきたから、一日も早く親を経済的に楽にしてやりたいと思っていた。親に叩かれても恨みに思うことなどなかった。

エス  
  小学校2年生の頃だった。同級生の家で子犬がたくさん生まれて引き取り手がいないかとの問いかけに、すぐに返事をして親に事後承諾して貰って雑種の犬を飼いはじめた。名前はエス。私のアルファベット名の頭文字をとってつけた。生まれたての頃は餌を食べているか寝ているかのどちらかだった。ペチャペチャとミルクを飲んでいる様は可愛いとしか言いようがなかった。あまりのかわいさに作文したところ、小学校の文集に「エス」という表題の文が載せられた。
  餌は一日2回、はじめは脱脂粉乳が、その後は家族の残りご飯があてがわれた。小さいうちは紙で作った箱に布を敷いた小屋ですんだが、入りきれなくなってから程なく、鉋、鋸を使って立派な犬小屋を作った。犬小屋が英語でkennel=ケンネル=犬寝る、である事を知って、その名を実感した。
  毎日の散歩は特に冬は大変だったが、陽気のいいときは利根河原に連れて行って思い切り走らせた。雄犬だったがおとなしく可愛い犬だった。エスは約10年後の秋になりかかったある日、お腹が大きくなってきて突然動きが鈍くなった。どうも様子がおかしいと思い近くの犬猫病院でみてもらったところ、蚊に刺されたことが原因でフィラリアにかかって手遅れと診断された。もっと早く看てやっていたら、なんでもっとかわいがってやれなかったのかと後悔した。ほどなくして、哀願するように私を見つめて息絶えてしまった。この犬は、自分の成長をずっと見続けてきてくれた、家族の一員としてのやさしい犬だったと思うと涙がとめどなく流れた。
  家の裏の空き地に墓を作って葬ったが、今はその空き地に大きな建物が建って面影はなくなってしまった。エスのあの私を見つめた目を思い出すと未だ心が痛む思いである。

TV を見に行く  
 力道山が大相撲で関脇を最後にプロレスに転身したのは昭和26年。その後プロレスに転身した東富士が優勝したときのオープンカーを運転したこともあるという。昭和38年に39歳で刺殺され伝説の人物になっているが、存命ならもう80歳を越えている。
  テレビは昭和28年に発売されたが、大学初任給の2年分という高価で庶民の手に入るものではなかった。戦後のうちひしがれた日本人を勇気づけてくれた、空手チョップで雲つくような外人を打ち負かした英雄を一目見ようと、街頭テレビに引き寄せられていった中に私もいた。昭和29年前後、NHK前橋放送局(現在の群馬大橋の東)に群衆が押し寄せた。大相撲のときも同様に街頭テレビに釘付けになっていたが、プロレスには外人を撃破してくれるという点での期待は並はずれた愉快さがあった。プロレスの技術では現在の方が遙かに進化しているのだろうが、シャープ兄弟、ルーテーズ、カールゴッチなどに散々いたぶられた後に、起死回生の空手チョップが敵をあっという間に粉砕してくれる快さは、「正義は最後に勝つ」という、鞍馬天狗にも通じる庶民に分かりやすすぎるほどの勧善懲悪を目の当たりにすると、生活の貧しさの原因を打ち負かしてくれたような爽快感に満ちていた。
  あまりの群衆の数がいたので家でのんびりテレビをみるようなわけにはいかなかった。人と人の間から辛うじて見えるテレビの映像と見えなくなっても大きなどよめきから、力道山が勝っていることを知ることができた。当時は白黒テレビだったから、流血があってもそれほどの刺激はなかったが、後に流血のプロレスを観ながら興奮しすぎて心臓麻痺で命を失った人もいたそうである。
  プロレスのあった翌日、子供達の会話はその話題で一杯であった。技を真似て危険だからやめなさいとのお達しが出たことも屡々だった。プロレスと大相撲の大きな違いは、反則にある。大相撲は反則があればそれで勝敗は決まりだが、プロレスではスリーカウントまでの反則は何度やっても負けにならないことだ。反則しても限度内なら反則した側が勝つことだってあるということは、いきなり真珠湾攻撃して結果的に日本が敗戦になったが、あわよくばとプロレスを観ながら思った大人がいたかどうか不明である。体格の小さな日本人だって勝てることもあるぞ、と思わせてくれた力道山の活躍が当時の多くの日本人を勇気づけてくれたことは間違いなさそうである。その後力道山のように外国に立ち向かう勇気を与えてくれた人物がほとんど見あたらないのは残念なことである。

前橋刑務所
  萩原朔太郎の詩に「監獄裏の林」がある前橋刑務所は私が幼い頃住んでいた自宅に近い場所にあった。赤煉瓦が延々と続く、不気味な建物という印象だったが、その後音楽慰問で何度か鉄格子の入ったバスで入ったときは明るくて清潔という印象だった。所内で物品販売もされ、何度か行ったことがあるが家具をはじめなかなかの腕前の作品が展示されていた。
   昭和20年代の中頃だったろうか。県庁の東に検察庁や裁判所があり、そこから刑務所に向かって刑務官と思われる制服を着た人物が、竹か籐で作られた、藁で包まれた水戸ナットウのような覆いを上半身に被せられ、手錠紐をつけられた服務者とおぼしき人物を率いて歩いて行ったことが脳裏に残っている。きっと微刑の人だったのだろと思うが、外部から彼らを奪還するには隙だらけだったように感じていた。刑務所から北に向かう姿を見たことはないが、北から刑務所に向かってゆっくり歩いていいる姿を何度も見ていた。まるで時代劇に出てくる流人の引き回しような景色であった。

   ある日友達と自宅近くで遊んでいたとき、突然刑務所のサイレンが連続して何度も鳴り続けはじめた。不気味な響きであった。何かあったな、と思ったがサイレンの音はその後も続き、不安が募った。しばらくしてバタバタという複数の人物の走る音が近づいてきた。雨模様で地面がぬかっていたのでその足音の近づき方が異様な大きさで伝わってきた。足音が更に自分たちの方向に向かってきて不安を感じて家の中から覗くと、ひとりの男を複数の刑務官が追ってきた。監獄からの脱走だった。ばたばた足音を立てて走り去ったが、追われた人物は息を切らして走り去ったが、刑務官は声を立てずもの凄い勢いで走り去った。家の裏にある墓場に逃げ込んだ後、物音はしなくなった。
   逃走した人物が捉えられたことをその後に知ったが、追う者と追われる者の迫力が目の前で展開された興奮は暫く続いた。その後逃走劇があったと聞いたことはなかった。

群馬大橋  
 昭和28年(1953)開通。平成5年度より着手し、平成11年2月、5車線になった。拡幅する前の群馬大橋は2車線の古めかしい利根橋と違って、近代的なアーチ型の橋だったが、なにせ車線が狭かった。2車線でありながらバスやトラックが隣を走っていると普通乗用車でも並んで走ることに危険を感じるほどだった。群馬大橋から南側を眺めると広い川幅の先に利根橋、国鉄用の跨線橋が見え、遠くには秩父連山がなだらかに連なっている姿を見せた。気のせいか利根橋より川面までずっと遠かったように感じていた。
  群馬大橋が作られる前には近くに有料の、粗末な板を張った危なっかしい吊り橋があったそうだが、私にその記憶はない。

  橋の石倉側の南に、萩原恭次郎の詩碑がある。昭和34年4月高橋元吉の書によって作られた。
    『汝は 山河と 共に生くべし
     汝の名は 山岳に 刻むべし
     流水に 画(えが)くべし』

迂闊にも、自宅からそう遠くない場所にあるこの詩碑があることを知ったのは大分後になってからであった。除幕式の様子は伊藤信吉氏の書物に詳しく記されている。
利根橋
 利根橋に関する記録は、
「明治18年(1885)、利根川に木と鉄を併用した「木鉄混淆(こんこう)橋」が架けられたが、やがてこれが老朽化し、明治28年(1895)に木製部分の掛け替え工事が行われたものの、翌29年に洪水のため壊れたため、堅牢な橋の建設を計画し、明治34年(1901)に完成したのが、県内最初の全鉄製の橋となった「旧利根橋」。鋼材はアメリカ・カーネギー社から輸入、五年余の歳月と、莫大な費用をつぎ込んで建設されたこの橋は、利根川の東西を結ぶ大動脈として昭和38年(1963)に現在の橋と掛け替えられるまで、実に60年以上にわたり活躍していた。当時としては類を見ない鉄橋として、近代前橋の誇りで、馬のレリーフは、掛け替え工事の際取り外され、昭和49年(1974)に前橋市立図書館が建設された折、近代前橋の遺産として、図書館に飾られた。」
とある。

  私が幼かった頃の利根橋は甚だ危なっかしい橋だった。台風の時に利根橋を渡ることが危険に感じるほど増水し、石倉側の崖が次々に音を立てて崩れさって行く姿を見た。ときどき、「川流れが出た」と聞きつけると子供達が利根橋に駆けつけると、確かに真っ白に見える人が橋脚に引っかかっていた。上流で入水自殺したのか事故死なのか、何度もそんな光景を目にした。洪水の時はこの橋の下をタンスなどの家具や牛馬が流れ着いていた。
  進駐軍のトラックの隊列が通った橋なのに、歩いていくと足下に利根川が見えた。木材がどういう具合に組み込まれているかはっきり分かるような作りで、小さな子供の足がとられそうなほどだった。また欄干がところどころ壊れていて、これもかなり危なかった。子供のことだから欄干に片手を乗せて歩くこともあったが、けば立った木にときどき棘を刺されたものだった。桃井小学校には石倉から通ってきている子供もいたから、彼らはこうした危険と毎日接していたのだろう。現在だったら保護者がすぐに学校だの役所に捻り込んで、安全対策を訴えるところだろうがそういう話を聞いたことはなかった。危険であることが分かれば子供ながらに注意していける力を持っているものだ。
  利根橋の東側に「丸太」という名の商店があるが、その脇に交番が橋に接するように立っていた。その交番の前と利根橋の西に信号があり、片側通行だったことがあった。現在のように安心して自動車とともに渡れるようになったのは昭和38年のことだ。

中央病院
  紅雲町にある中央病院は今でこそ高層の立派なビルになって地域医療に多大な貢献をしているが、私が子供の時代である昭和20年代後半は平屋建て木造で小規模な病院だった記憶がある。中央病院の入り口には前橋中学跡の碑があり、その昔現在の前橋高校があった。萩原朔太郎が前橋中学校に通った頃は二子山遺跡で、「中学の校庭」という詩を残している。
  私の住んでいた家は中央病院の近くだった。私が5、6歳のときに肺炎を罹ったことがあった。40度を超える高熱が続き、もう少しで命が危なかったと後に親に言われた。苦しさとともに枕元にあった電気スタンドがはっきりとした記憶にある。高さ40センチほどの電気スタンドの傘に楽譜が貼られていた。父が音楽をやっていて、傘を作るのに適当な紙がなかったのか、インクが滲んだ楽譜が一面に貼られていた。子供が危ないと思った親は、中央病院に往診を頼んだ。当時、往診は普通に行われていたらしい。高熱が続いていたにも関わらず、高価だったペニシリン注射をうったところたちまちに快方に向かった。
  往診に来た医師が枕元の電気スタンドに貼られた楽譜に気づき、父と話すうちに医師も音楽を好み楽器をやることがわかり、後に父と合奏を共にすることになったという。何が縁になるかわからないものだ。
  中央病院にはその後も、成人してからも入院することになるなどとは思いもしなかったが、通院した記憶は懐かしさがある。坊主頭の私の頭に皮膚病である「シラクモ(白癬)」ができてしまった。それほど大きなものでもなく、毛髪が脱落することはなかったが、しばらく通院した。玄関を入ってすぐ左側に皮膚科があった。治療室に招かれると、パーマネントをかけるような金属製の立体の下に頭を置いて、しばらくじっとしていなければならなかった。立体の中に電球のようなものがあった。この治療器具は「太陽灯」といった。たぶん紫外線での治療だったのだろう。この電球のようなものを見ると目を痛めると聞かされたが、じっとしているのは楽なものではなかった。
この病院で両親の最期を看取り、二人の子供が誕生している。

子供会
 私が幼かった時代は子供が多かった。近所にはあっちにもこっちにも子供の泣き声と母親が子供を叱る声が絶えなかった。夏には夕飯が済んだ後にも子供が外で遊び回っていた。大人も蚊取り線香をつけて縁台で将棋を楽しんでいた。子供は肝試しをしたり、手製の花火で興じていた。この花火は河原で採ってきた砂鉄をろうそくの火で燃やすときれいな色がバチバチという音とともに現れる単純なものだった。一種の炎色反応だったのだろうが、金をかけずに楽しめるものだった。大人が煙草の火として使っていた5寸マッチの箱に2B弾というマッチの箱でこすると火を噴いてバーンと大きな音を出す花火を入れて脅かした悪ガキもいた。
  小学5年生の時に子供会が作られた。会費もとらない、子供を遊ばせるために町内会の親がいくつかの行事を計画する自由参加での集まりであった。夏休みは毎日空き地でラジオ体操をした。同じ町内に体育の先生が住んでいて、この先生の指導の下で上級生が前に出て大勢の子供達がいっせいにラジオ体操をした後、手作りの出席を確認するカードに印を押してもらった。皆勤だった子供には褒美が与えられたがこれがなんだったか記憶してない。ラジオ体操には親も参加して50~60人は毎日参加していて、早朝から子供達の声で賑やかだった。
  近くのお寺でお楽しみ会もあった。親も参加していた。ゲームをやって、歌をうたって最後にくじ引きがあった。当たりの景品はお菓子やおもちゃなどだった。くじはコヨリ(紙縒)状になっていて、中に当たりはずれのほかに細かい文字が書いてあった。順にこよりが配られるざわめきの中で隣に座っていたおばさんに「目が悪くて字が読めないんだ。読んどくれ」と言われた。くじは外れていたが、おばさんは「フーン。残念」と言った。おばさんは目が悪いのでなく、字を読めないことを知っていた。当時は子守りや家の手伝いのため尋常小学校にも行けなかったため、字を読めなかった人が他にいることを知っていた。識字率は低かったようだ。
  もうひとつ子供会の行事で覚えているのは水泳大会だった。といっても特別な趣向があるわけでもなく、敷島公園のボート池まで出かけて何人かの親がボートで見守る中、子供達が水遊びに興じるというものだった。池は子供の背が立つほどで溺れる心配はなかったが、水泳用のパンツが普及していなかったので、男子は手製のふんどし、女子はシミーズのままであった。池の底は大きな石がごろごろとしてて、苔が生えているためヌルヌルしていて滑りやすく簡単に転んでしまって汚れた水をしこたま飲み込んだ子供がいた。1時間くらいぞろぞろと親、子供が入り交じって敷島公園まで歩いて出かけ、帰りも同じだった。行き帰りの行列の中でのじゃれながらの会話が楽しかった。4キロも離れた場所まで歩いて出かけることに何の抵抗も感じずに、大勢で遊べることが無性に楽しかった。付き添いの親たちから細かい注意をされた覚えもないが、大きな子供は小さな子供の面倒を見て自分たちで身を守っていたようだ。あれこれ大人に言われると言われたことは守るが大人がすべてを面倒を見きるものではない。自分のことは自分で何とかしなければと育てられた年代の少年少女はそれなりにしっかりしていたようだ。利根川に泳ぎに行ったときも同じように小さい子供には上級生が注意を払っていてくれ、私が危うく川流れになりかけたときも助けられた。
  4歳年下の弟がいた頃までは少なくとも子供会は続いていたようだが、その後の子育連の先駆けだったのだろうか。

季節の中で
初めて電話をかける
 携帯電話は1979年から普及しはじめたそうだが、私がはじめて電話機を見たのは小学生になってからで、沼田市にある叔母宅であった。ラッパ状の送話口が固定され、太いコードがついた同じくラッパ状の受話口を耳に押しつけて電話機の側についたハンドルをぐるぐる回し、しばらくすると交換手の声が聞こえてきて「前橋の何番を頼みます」という具合であった。発電のためにハンドルをぐるぐる回すことが分かったのは大分後になってからである。叔母の家は大きな商家でしばしば電話がかかってきていたが、その度に柱に固定されていた電話口に立つ人物は電話機に向かって頭を下げていたのは不思議な光景だった。
  私がはじめて電話をかけたのは中学生になった頃だった。当時は家庭に電話を持っている人は少なく、お大尽か商店のように仕事目的で必要とした家だけだった。近所の商店に、呼び出しと称して電話がかかってくるのだった。自宅に電話を持たなくても近所の家に電話の取り次ぎを頼むのは普通のことだった。我が家で取り次ぎを頼んでいたのは近くの酒屋さんで、夕方になると職人達が酒の立ち飲みをしていた店で、いつもソースの匂いがしていた。ソースの原料に使ったのかニッキの匂いがいつもしていた。遠足の前日におにぎりを包むためのへぎ(剥板または経木)を買いに行った。
  父が宿直で家を空けた夜だった。利根橋の近くにあった公衆電話ではじめての電話をかけた。公衆電話は大人一人がやっと入れる程度の広さで重い扉がつけられていた。入り口の取っ手にあたる部分に大きな穴が開いていた。それまで電話をかけたことがなかったので、一度は電話のかけ方を覚えようと思ったためであった。特に用事があったわけではなかったが、家族に電話をかける機会など滅多になかったので、父の宿直は電話の練習をするには都合にいいチャンスだった。
  電話に向かって黒電話の数字の書かれているダイヤルをジーッコ、ジーッコとまわす。父に電話をするのだからと思っても、異常な緊張感に襲われていた。仕事場に電話をしても、夜は宿直である父しか電話に出ないとわかっていてもドキドキであった。電話がつながって「○さんお願いします」と姓をやっと言うと「どちらさまですか」の返事があり、これには困った。僕です、は変だな。何と言えばいいのだろう。仕方なく「○です」。「こちら○ですが」とやり取りの後に、父はやっと息子からの電話であることがわかった。「何か用事かい?」と父。これには返事に窮した。別に用事があるわけではなかったし、改めて丁寧な言葉で父と話すことが照れくさかった。「別に用事はないです」。「・・・・・じゃあね」。「失礼します」と、私は以前に見た電話口の前で頭を下げていた大人と同じようにして、頭を下げていた。ただ電話をかけることができたことでホットしていた。
  我が家に電話が入ったのは随分後になってからだった。電話は夜の9時以降にかけない、丁寧言葉で応対する、伝言があったらすぐにメモ書きするなどという、マナーは会社に入ってから教えられたことだった。黒電話の送話口には網状のキャップが付けられていて、ときどき交換に来る人がいた。衛生的に使うためのフィルターだった。家庭に電話機が普及してから、貴重なものとして電話に着せ替え人形のようにして手作りのカヴァーが付けられていた。今と違って電話機が貴重品で、消耗品のようにして携帯電話を買い換える昨今と違っていた。あの電話機で、誰それと話した、試験の合格通知を聞いた、友人の訃報を知ったなどと一つの電話機が外との大切なつながりを感じさせてくれたものだったし、今よりずっと電話機を大事にしていたことは確かだ。電話を入れるために電話債券を買う必要があり財産価値があったが、最近この価値が失われると聞いた。大事に持っていた母はさぞかしがっかりしただろう。

空っ風
 最近は空っ風が弱くなったと感じている人も多いようだが、私が幼い頃は半端な風ではなかった。上毛カルタに「力合わせる○○万人」というのがあるが、1946年は150万人、1999年は約200万人で、過去85年の間に約2倍になっている。前橋市は2002年に29万人、私が生まれた年はその約3分の一であったから、住宅も増えて風当たりが弱くなったのかもしれない。
  私が小学生の時代は今より冬場の気温は低かった気がする。あちこちにあった水たまりが凍っていたし、貧相な食生活のためか大抵の子供の手足はシモヤケ、アカギレができていた。シモヤケは冷たいときは痛く、暖めると痒くなり、注意せずにかき過ぎると更に痛くなった。アカギレは皮膚が裂けて血の滲むことはふつうだった。アカギレ・シモヤケを治すため桃の花というハンドクリームを常備していた。痒みはとれてもべたべたして始末が悪かったので、これを塗った夜は手袋をして寝た。寒い夜は足袋をはいて寝たこともあった。
  北風が強いと家が揺れるほどで、道路が舗装されてないことや、田畑が多かったことなどが関係していたためか、砂埃が空高く舞い上がって空が黄色く霞んでいた。家のまわりには枝折戸が作られていた。お大尽の家は竹垣だった。そうした囲いに風が当たるとヒューヒューと音を立てた。いわゆる虎落笛(もがりぶえ)だったが、鼻水をたらしひび、アカギレの手足の子供達に風流が分かるはずはなかった。電線に北風が当たると、もっと寒そうな音がして電線が揺れて波打った。なわとびの縄を揺すっているのに似た動き方だった。電線どうしがぶつかってビシッと音を立てることもあった。家の中にいてもあの音を聞くとゾクッとしたし、不安に感じたものだった。
  「山々の遠き嘯 遠い彼方の嘯」  (吉田一穂)
  (嘯はうそぶくの意で、口をつぼめて強く吹き出したときの音の類似から、これをホイッスルと読ませる)
の詩句にあるような、場所を変え動きまわって、遠くで音を立てる北風の音を、冷たい布団の中で聞いていた。冬の夜は、行火(あんか)や湯たんぽがないと寝入るのに随分時間がかかった。布団が暖まるまで、家族が順に湯たんぽを使ってこともあった。
 昼間強かった風が砂や紙切れを吹き飛ばし、目にゴミが入った経験はたいがいの人は経験しているだろう。その風が夕方になると、ある瞬間にパタッと止むことがあった。たぶんあれが夕凪だったのだろう。

沼田の祇園祭
 沼田市には叔母宅があり従兄弟が何人か住んでいた。戦禍を逃れて疎開した沼田であったが、幼かった私にはその記憶がない。しかし、かわいがってくれた優しい叔母の家があったことや、父の生家が近くの上久屋であり、祖先の墓と父の育った家が残っていたことから、沼田市にはそこはかとない懐かしさのような感傷をもっていた。祖父の死後、父の長兄が株取引でしくじって家が没落した後、父は進学のため上京した。読書好きの私には、「次郎物語」に似たものを感じていた。父の生家に通じる薗原ダムに通じる河岸段丘、片品川の見える景色が父の記憶にあるであろうことも沼田への思いにつながっている。私の母の生家が佐賀の下村湖人の育った地方と同じだった奇遇からも次郎物語は一番の愛読書であった。
  そんな沼田には毎年きまって8月の沼田祇園祭を見に行った。山車が賑やかに街中を練り歩き、いつもは静かな街は賑やかで熱気があった。山車を間近に見たいために、叔母宅の2階の窓から覗くのが楽しみだった。黒光りした屋根瓦の先に見えた山車につけられた人形は毎年同じではなかったようだ。古くは赤痢が流行して中止になったこともあったそうだが、鍛治町、清水町、馬喰町、上之町、材木町など町ごとの山車が出ていた。私が見たときの祇園祭には現在のような迦葉山の大天狗の御輿はなかった。大天狗は昭和47年以降で全国から担ぎ手がやってくるそうで、毎年テレビで放映され名物行事になっている。この御輿は女性専用で、大天狗がなにかのシンボルとして人気を博しているらしい。

  叔母の家は黒光りした大黒柱のある、大通りに面した大きな家で、古い商家だったためか裏庭にはお稲荷さんと土蔵が2つあった。土蔵にはめったに入ることはできなかったが、一度だけ従兄弟に導かれて入ることができた。夏の昼間でもひんやりした土蔵の中は外の眩しさが残っているためか薄暗くてはじめは見当がつかなかった。目が慣れた後に整理された棚の奥にブリキ製の火花が飛び出す戦車や飛行機など子供が喜びそうなおもちゃがたくさん並べられていた。
  毎年訪れた祇園祭だったが、自分一人だけで出向いたこともあった。東京の従兄弟や叔父が来たり、私以外の客は毎年違う人物だった。ある年の沼田からの帰りに東京に住む叔父といっしょだったことがあった。煙を吐きながら走る蒸気機関車を新前橋駅で下り、一人で暮らす口数の少ない叔父と別れた後、なぜか寂しさが募って泣きながら帰宅し母親を心配させたことがあった。
  一番近くに住んでいた私を、沼田の叔父は親切にしてくれた。2人だけで近くの須賀神社につれていってもらったことがあった。須賀神社神輿の宮入が沼田祇園祭のクライマックスだという。沼田の祇園祭は私が小学生時代の懐かしい思い出であった。その後沼田を訪れたのは叔父が亡くなった20数年前であったが、祇園祭は一度も見ていない。

初市
 毎年1月9日は前橋の初市である。厩橋藩主・酒井重忠公の時代の頃から行われていて、「だるま供養」が行われ、古いだるまが燃される。神輿渡御や華龍太鼓が披露され、約1500店ものだるまなどの露店が立つ。初市と呼ばず「だるま市」と呼ばれることが多いようだ。
  私が小学生時代には毎年30分ほど歩いて露天の並ぶ本町通りに家族で寒さよけの重装備で出かけた。露天商の言い値をいかに値切るかの駆け引きが面白いし双方真剣だ。我が家ではたいてい小振りのだるまを買い込み、家に帰ると右目だけ墨を入れ神棚に供えて家内安全を祈った。このだるまを翌年の供養に出した。露天の明かりは裸電球やバーナーだった。2時間ほど寒さに耐えながら薄明かりの中を帰路についたが、当時は現在のようにあちこちに明るい照明がなかった。寒い中でも出かける楽しみな理由があった。それは、帰りがけにカトリック教会の南にある、結城屋そば店で暖かいラーメンを食べられることだった。今となっては大したご馳走といえないかもしれないが、外食をするなどということはほとんどなかったので、わくわくする気分であった。楽しみのラーメンは薄い鳴戸、のり、しなちく、目玉焼きの薄い輪切りなどが入った素朴な「支那そば」であった。汁をすべて飲み干すと体が温まった。来年もまた来ようね、などと言いながら帰宅した。
  初市の夜の寒さ、にぎわい、どこまでも続く露天の台に載せられただるまの列が前橋の冬の懐かしさであった。

福袋
 小学生時代は特別なことがなければ前橋の繁華街に出かけることはなかったが、正月だけは別だった。
  正月2日の初市の福袋は毎年の楽しみだった。当時の前橋の繁華街の正月は賑わっていた。商店の前にははっぴ姿の店員が大きな声で呼び込みをし、のぼり旗が賑やかさを演出していた。人々は精一杯のおめかしをして急ぎ足で行き交っていた。たくさんの人の流れの中にいるとウキウキした気分になるが、不思議と人の数が多いほど孤独を感じるものだと、大人になってからは感じたものだった。
  5時起きして友達と競って福袋を買いに出かけた。お目当てはF店の文具の福袋だった。親に貰ったお年玉を握って自転車を走らせ、行列に並んで山のように並んでいる福袋から選ぶのだが、中身が見えるわけでないので当たりはずれは当然だが、払った金額より値打ちものが入っていたときの喜びはしばらく続いたものだった。たいていは電話帳、筆記用具、クリップ、バインダーなどで、実用的に便利に使えた記憶はないが何が入っている分からないことが楽しみだった。今も当時手に入れた電話帳が我が家に残っているが、電話機に電話番号が記録できるようになるなどとは思いもしなかった。

クリスマス  
 特別な宗教に属さない我が家では、クリスマスは「クリスチャンでもない者がクリスマスで騒ぐのはおかしい」という父の言葉で全く無関心だったが、年の暮れになり、クリスマスキャロルがあちこちから聞こえてくると、なぜかそわそわし、賑やかさの中を少しだけ覗いてみたい気分になっていた。クリスチャンにはインテリがなるものという、暗黙の理解があったように感じていた。

  そんな我が家で一度だけどっぷりとクリスマスイブの雰囲気を味わったことがあった。中学生の時だった。父にはチェロのお弟子が何人かいた。そのうちの一人が前橋のカトリック教会の隣組に住んでいた。教会の物音が手に取るように聞こえる距離にあった。彼の家には豪華な音響装置があった。一番大きなウーファーは直径が40~50センチほどでこれにスコーカー、ツィーターが組み込まれスピーカーボックスが床から天井までの高さだったから驚きだった。マルチチャンネルのはしりだったが、このスピーカーを鳴らすためのアンプの類がまた立派なもので、当時これほどの装置を持っていた人はあまりいなかったのではないかと思う。この装置が鳴り響くための相応のオーディオルームの広さにまた驚かされた。そんな装置で聴いたのがドボルザークのチェロコンチェルトだった。たしかカザルスのチェロだった。私は自宅にある粗末な再生装置でしか聴いたことがなかったから、音のきめの細かさ、スケールの大きさに聴き入り、想像を絶するショックを受け、しばらく動けない状態だった。これが音楽なんだ!と感激しきりだった。立派な音響装置は音が大きいのでなく、演奏家の息づかいが聞こえそうな澄んだ音、伝わってくる繊細さが違う。
  他にバッハ、ベートーベンなどのチェロソナタ、コンチェルトなどのチェロの曲を聴き続けたが、夜が更けてくると、突然教会から大きな鐘の音が聞こえてきた。「ガガーン、ガガーン」と鳴り響いていた。その教会は前橋空襲でも被害を受けず、鐘はアンジェラスの鐘といい、昭和28年10月に設置されたそうである。
  いくらもしないうちに賛美歌が聴こえてきた。混声の快いハーモニーが続いていた。「教会から隣組の人たちに、ミサにおいで下さいと誘いがあったんですよ」とこともなげに、その家の主は言った。長い時間歌声が聞こえていた。紅茶とケーキをご馳走になった。
  夜もとっぷり更けてから父とともに暗闇の中を歩いて帰宅した。今のように夜中でも自動車が頻繁に走っているわけでもなかった。静かなこの夜に流れていた風は特別に澄んでいたように感じがした。

4 食べ物  
脱脂粉乳
 学校給食が何年生の時からはじまったかはっきりしない。昭和27年に小麦粉に対する半額国庫補助が開始され、同年4月から、全国すべての小学校を対象に完全給食が実施され、昭和29年に学校給食法施行令、施行規則、実施基準等が定められ、法的に学校給食の実施体制が整えられて、「食事についての正しい理解や望ましい習慣をはぐくむと同時に、学校生活を豊かにし、明るい社交性を養う」など、食育の考え方が作られた、との記録があるので、私が小学校に入学していたときにははじまっていたらしい。母がつけていた家計簿を繙くと昭和25年の給食費は毎月40円だった。Top
  現在のような立派なグルメ志向の献立あったのではなかった。甘みのないコッペパンと煮物、脱脂粉乳が主な献立だった。独特の臭みのあった鯨肉も肉を食べられたのが嬉しくてまずいと思わなかった。子供達に評判が悪かったのは脱脂粉乳だった。はじめは、「たんぱく質、カルシウムなどを摂らせること」を目的としていて、現在販売されているスキムミルクとは味わいが随分違う、貧しい時代でもはっりきりと、「うまくない」飲み物だった。給食をきちんと食べ終わらないと先生に叱られ、一種の拷問と思っている子供もいたはずである。スキムミルクが体によくても、うまくないと思えば簡単に飲めるものではなかった。女の子が鼻をつまんで目をつぶって、呼吸を止めながら飲み込む様はとても楽しい食事でも、「食事についての正しい理解や望ましい習慣をはぐくむ」ことにはつながらなかった。一方で、貪食の一部の少年は友達の残した給食をハイエナのようにしてよく食した。休みの生徒には友達がコッペパンだけ自宅に届けた。少々体の具合が悪くても給食の献立を見て、食べたいことに負けて休まなかった子供もいた。
  スキムミルクは、成人してから飲んでみたら水を加えるだけで飲める意外にうまく、便利な飲み物であると思ったが、それ以上にうまいと思ったのは、赤ん坊の飲むドライミルクである。赤ん坊は母乳がなければこれだけで成長を支えてくれる滋養に富んだ食物である。自分の子供が生まれてから、何の気なしに舐めてみたこのドライミルクの美味に驚かされた。粉のまま口に含んでキシキシと音を立てながら噛んでいく甘美な味わいには感激した。これほどのものが給食に出された脱脂粉乳だったらどれほど子供達が喜んだだろうと思った。
  子供達の健康と食習慣を育むためにはじまった給食だが、最近の子供達の食習慣はどうだろうか。帰宅してからスナック菓子、ジュースを飲み放題で親の都合で寝る直前まで好みのものだけ食べ続けている子供の中に、大人が煩って悩みの種になっている糖尿病をはじめとする生活習慣病に悩まされている者がいても不思議なことではない。
  自分の子供を、子供の年齢に応じた健康な生活習慣も身につけされることのできない愚かな親が多い状況から考えると、3食給食が必要になるのも遠くない将来かも知れない。
  食べ物はおいしく楽しむものでなく、空腹を満たすことが目的だった。そんなことからも、最近の飽食、グルメブームは好まないし、寧ろ不愉快感をもっている。飽食の報いは必ずやってくると思っている。

おやつ
 幼い記憶に空腹は今でも残っている。現在のような飽食の時代から考えれば至って貧相な食生活だったが、健康思考の観点から考えれば健全だったようだ。主食に麦飯は当たり前だったが、暖かいうちはいいが冷えた麦飯がなぜうまくなくなるのか不思議だった。たいがいは一汁一菜だった。
  副食としてサンマ、鰯などはよく食べたものだった。サンマは一匹の上半分の尾頭付きを私に、残りが弟に配膳され、母はいつも「お前は長男だから尾頭つきなんだよ」と言った。食べ終わったサンマの骨は七輪の残り火で焼いてバリバリと全て食べた。現在も虫歯が一本もないのはあの頃のカルシウムが関係していると信じている。
  日曜の夕食はきまって手作りのうどんだった。うどん粉をこねて足で踏み柔らかくし、麺棒でうどんを作る作業を子供達もよく手伝った。今でもうどんをうまく作ることには自信がある。作りたてのうどんを釜に入れて茹でる。煮立って泡が立ち上がってくるころを見計らって木の蓋を持ち上げ、固さを吟味して作り上げた。どんぶりに煮干しで出汁をとった煮込みうどんにネギを入れ、油揚げやほんの少ししか入ってない豚肉を探すのが楽しみだった。食べ終わったどんぶりには、出汁も煮干しも残ってなかった。
  腹一杯食べるわけでもない食事が終わっていくらもしないうちに空腹に襲われた。おやつといえば、白い粉を吹いた乾燥芋やカリントウだったが、毎日というわけにはいかなかった。たまにカルメ焼きを作ったが、あの甘美な香りを嗅ぐのも希であった。腹を満たしてくれたのは手作りのドーナッツだった。小麦粉をほどよい固さにこねて平らにし、茶筒、瓶のふたなど家中のある円形の道具を使って、くり抜いて形を作り黒くなるまで油で揚げる。暖かい内に砂糖をまぶして仕上げるが、砂糖は和白という甘さの強いものだけでなく、精製してない茶色のザラメ砂糖の方が多かった。後にさらさらのグラニュー糖を知ったときは一種の感激があった。甘味料としてチクロ、ズルチンを使っていたが、ドーナツだけは砂糖を使った。

  駄菓子として鉄砲玉やラムネもたまに買った覚えがあるが、50銭を使ったか5円玉で買ったのか記憶は定かでないが、鉄砲玉を口にほうばって噛まずにいつまでも砂糖くさい甘さに陶酔したのは懐かしい記憶である。夏の冷菓子として魅力的だったのが、旗を立てて鐘を鳴らしながら売りに来るアイスキャンデーだった。毎日食べるわけにいかなかったのでしっかり味わった。仰向けに寝そべって、それもきまって膝を組んで、アイスキャンデーを立て、少しだけ舐める。チューッと吸うと甘みが強く感じられた。できるだけ長い時間味わうためには舐めずに溶けてくるのを待つことだった。時間が経つと甘い汁がぽたぽたと口の中に落ちてくる幸せさはたまらなかった。10分もすればすっかり溶けて芯の木だけが残った。甘みの残った芯をチューチューと干からびるほどに吸い取って楽しみはお仕舞いになった。アイスクリームやソフトクリームを食べたのは大きくなってからだった。
  コンペイ糖は珍しい菓子でハイカラな感じがした。キャラメル、チョコレートのような高価な菓子は普段は食べられなかったが、遠足のときだけは例外だった。エンゼルが逆立ちしている黄色い箱のキャラメルを食べられるだけで遠足はうれしかった。できるだけ長く味わうための工夫はキャラメルをかじらないことだった。口の中に入れてからゆっくり溶けるまで待つと、かじるときより何倍も長い時間味わうことができた。チョコレートには板状のものだけでなく、チューブ状のものもあった。チューブ入りの歯磨き粉と同じ状態である。口先から吸い取っていき、キャップを閉めてポケットに携帯する。チューブがほとんど平らになり、残り少なくなってからの最後はチューブを引き裂いて広げた内側をなんべんも丹念に舐めて満足であった。
  小学校入学前の微かな記憶の中に手製のパン作りがあった。小麦粉を木製の器に溶かし込み交流電源を入れ、こんがり焼けるのを待つこと暫しだったが、この手作りパンがうまかった覚えはない。今は理科の実験で作ることがある、味のしないホットケーキのようなものだった。パサパサして甘みもなくパンの味はなかった。焦げた粉の塊の印象しかなかったことは、このパンが短期間しか食卓に上らなかったことから大人にも不評だったことは間違いなさそうだ。

誕生日
 私の家族は全員早生まれでわずか3ヶ月の間に家族5人の誕生日があっという間に終わってしまった。小さいときは自分の誕生日には特別いいことが起こりそうな期待があった。誕生日だからといって親から特別なものをプレゼントされた記憶はないが、毎年誕生日の夕食にはご馳走を作って、「おめでとう」とお祝いの言葉が贈られていた。
  ある年のことだった。私より2日前に誕生日を迎えた弟の誕生日に、草履のように立派なカツが食卓に並んだ。子供心にこれはご馳走であった。たらふくカツを食べられ幸せな気分に浸ることができた。私の誕生日にはどれほどのご馳走が用意されるのか、期待は膨らんでいた。当日の食卓に並んだのは1個10円もしない(昭和27年頃)のコロッケだった。カツはその2倍以上もした。弟の誕生日にカツだったのに、兄である自分の時にはコロッケだとは!あまりの失望に涙が出てきた。母親に怒りをぶつけた後、私は外に裸足で飛び出して地団駄を踏んだ。家の前の柿の木の下で仰向けになって手足をバタつかせ泣き叫んだ。たかがコロッケでと思うが、親にいつも「長男だから」と言われてきただけあって、ショックは大きかった。後で思い返すと父の俸給日から近い日であった弟の誕生日にあった家計費が2日後には底をついてしまっていたのではないかと思ったりした。母には、弟といっしょにいられる時間はお兄ちゃんより短いのだから、弟の方を可愛いと思うのは当然なのよ、と言われたことがあったが、子供にはそんなことを理解することはできなかった。
  あの柿の木の下で、夏には毎日のように汗疹よけに桃の葉を入れた行水をしたものだった。食べ物の恨みは執拗である。あの日のコロッケは今も忘れられない。成人してからこの話が出るたびに母は苦笑いしながら話題を逸らすのだった。

5 小学校  
上毛新聞社
  同級生に父親が上毛新聞社に勤めている者がいた。その友人に連れられて上毛新聞社に行ったことがあった。以前の町名では曲輪町だった。
 友人が「面白いものがある」といって見せられたのが連載漫画の版であった。たぶん鉛で作られていたのだろう。版が白っぽい金属色で、文字が逆向きに書いてあったことが印象的だった。友達にその版の切れ端をもらって喜んでいた。建物の中で印刷機のカタン、カタンという躍動する音が聞こえてきたが中に入ることはできなかった。
建物は現在の市役所の東側にあったと記憶している。

石盤
  小学校に入学したときは物資が不足していて、入学前の案内で「石盤を持参して下さい」というものがあった。紙も不足していたから小学生が使うお稽古帳などに紙を使うことができなかった。新聞紙も石盤もノートの代用品だった。紙は白いものなど見あたらなかった。たいがいの本は薄ねずみ色の粗末な薄っぺらで粗末な印刷だった。ただ、新聞紙はかまどのたき付けやトイレットペーパーとして有用なものだったので薄い方が都合よかったかもしれない。
  石盤の大きさはノートの大きさ、今で言うB5版程度だった。薄くて平らな石を木で囲ったものだった。筆記用具は石筆と呼ばれた蝋石だった。蝋石は滑石のことで、白墨と違って粉が飛ぶこともなく書きやすかった。蝋石は地面に絵を描くためによく使った便利な筆記用具だった。
 石盤に書いた文字は、ボロきれを丸めて作った字消しで消した。授業でひらがなや漢字を書いても、帰りにはまったくその痕跡がなくなっているからその場でしっかり覚えないと賢くなれなかった。家に帰って復習をした覚えはない。
 私が通った小学校には幼稚園が併設されていた。外に面する窓は上下に開け閉めができる汽車の窓のようなものだったが、うっかりするとギロチンになりそうで怖かった。そんな窓は小学校と汽車しか見たことがなかった。併設されていた幼稚園への入学希望者が多かったので入園試験があった。今のようなお受験のようなたいそうな試験ではなく、面接だけだった。簡単な質問に答える、ただそれだけ。私ははきはき答えることができなかったらしく、見事落第した。人生で初めての挫折だったようだが、ほとんどの子供は幼稚園に行ってなかったので落第してもなんとも感じてなかった。むしろ、家で近所の仲間とめんこやビー玉をする時間が長くなるだけ嬉しかったようだ。
 石盤を使ったのは1年生の時だけだったようで、2年生からは粗末ながら荒綴じのノートを使った。鉛筆も使うことができたが、便利な鉛筆削りなどなかったから、刃物で削った。

 刃物は「ボンナイフ」と「肥後守(ひごのかみ)」だった。ボンナイフは片刃の安全カミソリで、回転させると刃を格納することができた。肥後守はジャックナイフの小型版といったもので堅いもの削るとすぐに刃がこぼれた。こぼれた刃は自分で砥石を使って研いだ。今は肥後守を作っているところが全国で1軒しかないと聞いたことがある。肥後守は刃渡り10センチ弱でいろいろなもの切ることができた。
 模型飛行機を作るときにはこれがないと仕事にならなかった。竹ひごを切ったり、アルミでできたリムという竹ひごをつなぐ環をぐりぐり回しながらプツッと切れるといいが、下手をするとリムがぺちゃんこになって使い物にならなくなった。模型飛行機は当時はやりだった。前橋公園で、市内の大会が開かれたことがあった。普通は斜め上に向けて飛ばし滞空時間を競ったが、ゴムを何重にも巻き、ロケットさながらに真上に飛ばしていい成績を出した子供もいた。大抵はそうした子供はゴム巻き器という便利な道具を持っていたが、ほとんどの子供は高価なゴム巻き器を買うことができなかった。
 肥後守をボンナイフと同じくカチャッと回転させると刃をうまくしまうことができたが、片手でクルッと回転させてうまく収まると、少し偉くなった気分を味わえた。西部劇に出てくるカウボーイがピストルをクルクルまわして鞘にうまく収めるのに似ていた。

なんと2000人  
 小学校で私の学年は14、5クラスあった。2学年下はその半分にもならない人数で、大人たちが「お父さんたちが兵隊さんにとられたからだ」と話していた。それでも小学校は6学年合計で、ものすごい人数だった。およそ2000人もいたから大変だった。休み時間に廊下が都会の通勤時間帯の電車の中のような賑わいで、子供同士がぶつかり合うのは当たり前だった。便所も行列だった。ぽっとん便所は風がすーすーして使う気がしなかった。子供たちの間では学校で大便をすると、「あいつは学校でうんこをした」と囃し立てられたので、できるだけ我慢したものだったが、我慢しきれずに漏らす者もいた。新聞紙を柔らかくしてトイレットペーパーとして使っていたから、必ずしも清潔とは言えず、一度だけ教室中が「うんこ臭い」と騒ぎになって授業が中断したことがあった。女の子だった。
 5年生になると教室が不足して講堂と称する、引き戸で仕切ってあるだけの3教室を使っていた。隣の教室の話し声はつつ抜けだった。毎週行われる朝会は壮観だった。2000人もの生徒が学年ごとに並ぶだけでも時間がかかった。気をつけ!前へならえ!を何回も繰り返してやっと校長先生の訓話があった。暑いときは顔面蒼白になってバタバタと倒れる子供がいた。

 休み時間の校庭は想像を絶する混雑であった。縄跳び、かくれんぼ、かん蹴り、ゴム飛び、花いちもんめなどが一斉にはじめられた。花いちもんめは、2グループに別れて、それぞれのグループが横に並んで手をつなぎ向かい、「○ちゃんがほしい 花いちもんめ」と3、4歩前に進みながら歌を交互に唄いながら歌の最後に足を蹴る。相手は同じ歩調で後退する。時によって歌の内容が違う。「ふるさとまとめて はないちもんめ」「タンス長持 どの子がほしい」 などというのもあったらしい。「○ちゃん」は相手のグループから自分のグループに入れたい友達の名前である。指名された同士でじゃんけんして勝つと人数が増え、「勝ってうれしい花いちもんめ」「負けて悔しい花いちもんめ」と続ける。相手の人数が少なくなるか、時間が来るまでこれを続ける単純な遊びだが、いつ自分が指名されるかどきどきしながら、自分のグループの人数が増えることを期待しながらだんだんと熱が入ってきた。たいがいの場合、可愛い子が早くに指名され、おとなしい子は後まわしにされたものだった。

 ほとんどは道具を必要としない、いつでもはじめられ、いつでも終わることができる遊びだったが、校庭の隅に遊具らしいものもほんの少しあった。鉄棒、ろくぼく(肋木)、ゆうどうえんぼく(遊動円木)などであった。ろくぼくは幅が50センチ、高さが3メートル位で20センチほどの間隔で横木が渡されていて、これに掴まってよじ登るものであった。手足と体力をつけさせるために使われたらしい。子供どうしでいかに早く上り下りができるか競ったが、一番高いところからの景色は格別だった。ゆうどうえんぼくは、長さが3メートル位の丸太を両側から支柱につけられたロープで吊って長さ方向に揺らして遊ぶ大型のブランコだが、ブランコとは揺れる向きが違っていた。男子は大勢の子供が丸太に乗って思い切り揺らして振り落としっこが面白かった。それと、名前は思い出せないがコンクリートでできた三角柱が地面に埋められ尖った三角柱の直線部分を裸足で歩く遊具があった。これは扁平足を矯正するための遊具だったようだ。ぺたぺたと裸足で歩くと、少し痛かったが気持ちがよかった。
 小学校の正門を入ってすぐの場所に「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」と書かれた石碑が置かれた鈴木貫太郎の教訓と、校庭の真ん中にあった一本松という大きな松が子供心に印象的だった。

歯磨き運動
 豊かでもない時代に育った子供達は、汚いことより食べられることが優先したことがよくあった。
 菓子をはじめとする食べ物が地面に落ちて泥がついても、手で汚れを払って食べることは何でもないことだった。通りがかりの家に柿がなっていれば虫に食われていても一度口に含んでから、ペッとはいてうまいところだけを食べた。
 甘いものをたくさん食べた覚えがない関係か、虫歯の心配をまったくすることはなかったが、学校で歯磨き運動なるものがあった。歯磨粉きは文字通り金属の缶に入れられた粉を使っていた。チューブ状のものもあったが、チューブは金属でできていた。歯磨き粉の代わりにに塩を使っていたこともあった。
 学校で衛生教育の一環として子供達の興味を惹くために、歯磨き教育用のバスが校庭に現れた。歯磨き粉を作る会社のマークのつけられたバスであった。バスの横が開き、ライオンをはじめとする何種類かの動物がいて、その動物が歯の磨き方を教えてくれるというものだった。歯ブラシに磨き粉を少しつけて奥の歯からごしごしと磨くのです、という。奥から手前に向けて磨けばいいという。一通り動物が歯を磨いているのを見て、「朝晩磨かないと虫歯になりますよ」などと言われてお終い。友達の中には毎日歯を磨いてないものもいたから、今から考えると虫歯の原因になるし随分不衛生だったのだろうが、私もあまり熱心に歯磨きに励んだ覚えはない。歯の磨き方は、その後歯の並びに沿って歯ブラシをあてがい回転させながら上下にブラッシングする方がいいとか、バイブレーターのように細かく動かす方がいいとか、そもそも歯茎を刺激すればいいだけで、歯磨き粉など必要ないのだというような諸説があることを知った。母親が持っている虫歯の原因になる細菌が赤ん坊に口移しで食べさせるときに移ると虫歯になるという説は有力らしい。歯磨きをすることによってフッ素をとりすぎることが有害だからと聞いたこともあるが、たしかチベットだと思うが、フッ素を含む水を使っている集落では歯磨きなどの習慣がなくても、ひとりも虫歯を持つ人がいないと聞いたこともある。
 活性酸素が有害だからと知らされてきたが、最近は活性酸素が寿命を縮める原因と結びつかないなど、健康に関する説は時代によって変遷があるようだ。

いじめ返し
 小学校6年生のときだった。クラスに体格のいい腕白坊主が、横暴に振る舞っていて嫌われ者で泣かされる者も多かった。個人攻撃を避けるために自分に被害が及ばないように敢えて逆らうことをしなかった。ある日、何かのきっかけで腕白坊主を公然と非難、攻撃する言葉が出はじめた。来る日も来る日もいままでの恨みを晴らすかのように、「○ちゃんは、誰それをいじめた、ああした、こうした」と徹底的につぎつぎに糾弾のための学級会が続けられた。それまで腕白坊主の配下だった少年達も後馬に乗って攻撃しはじめた。さすがの腕白坊主も味方を失い学級会の時間になると俯いて、じっとしていることで精一杯だった。1、2週間もそんな日が続いていたが、担任はただ黙って見ているだけだった。そんな糾弾学級会が終わったのは、ある日の学級会の終わりに、担任が「○ちゃんが悪いんだよな」と言ったことだった。
 それ以来、かつての腕白坊主は、見る影もなく元気を失い口数の少ないおとなしい少年に変身してしまった。弱いものいじめは褒められたものではないし、いじめられたものの気持ちをくみ取る優しさは持たなければならないと思うが、あのときの担任がとっていた行為は果たして妥当だったのか、教員となった後もずっと気になっていたことだった。

 4年生から3年間の持ち上がりの担任だったが、私も担任から一度だけ非難されたことがあった。12月になると毎年のように歳末助け合い運動が行われていた。中学生のときはクラスでの話し合いの結果、全員で廃品回収や現金を得るために納豆を売りをしたことがあった。冬の寒い早朝、足袋に下駄姿で足の芯まで冷えるような数日間、毎日納豆を売り歩いて得た収益を寄付したことがあった。当時は家計を助けるために自転車で納豆売りをしている友達もいたから、いい迷惑だったのではないかと思った。小学生にはそんな行動はできないから、歳末助け合いとしては、クラスに何枚かずつノルマが果たされた葉書を買うことだった。私はそのとき学級委員をしていたのが悪かった。誰も葉書を買うと名乗りでなかったので、担任は困ったのだろう。数日後に「学級委員のくせして、葉書を買わないのはどういうことなのか」と学級会で詰問された。助け合い運動の趣旨を飲み込んでいたとしても、生活が逼迫していた我が家としては葉書を買うことなど思いもつかぬことだった。私はただ、俯いて時間の経つのを待つだけで、悪いことをしているのかとさえ思った。子供心になぜそんなことを言われなければならないのかと思っても到底口に出して言えるものではなかった。そんな担任はクラスの中の親が医者や裕福な家庭を家庭訪問と称して、しばしば訪れて食事の接待を受けていた。自宅近くの同級生の家に担任が夕刻訪れたのを友達と目撃し、「あいつの家だけなんで何度も家庭訪問するんだろう」と話していた。次のクラス役員選挙で私は学級委員を外され、お大尽の家の子供が選ばれた。担任も貧しかったこともあるだろうが、「贔屓」ということをはじめてそのとき知った思いだった。
 この担任は生徒をよく叩いた。ある時、ちょっとおしゃべりしていただけの一番前に座っていた生徒を、大声を出しながら履いていたスリッパを脱いで思い切りビンタを張った。小柄な生徒は吹っ飛んで机の角に頭をぶつけてべそをかいていた。「お前が悪いんだぞ」と叫んで生徒の怪我を心配する風はまったく見せなかった。今なら、暴力教師として立派な処罰の対象になっているだろうが、叩かれた生徒の心の痛みを思いやることなどできなかった、聖職者などとはほど遠い教員だった。こうした教員が何年か後に管理職になり、部下の職員に「暴力はいけない」などと指導していたことを知ったときは、呆れるばかりだった。
 中学生の担任に叱責された記憶が1回だけあった。感情的に生徒を叱る神経質な教員だったが、3年生のときの進路相談で担任が勧める学校と違った高校を志願していた私に「言う通りにしなければ、俺は知らねぇぞ」と目をむいて言われた。親ともよく話し合った結果だったので、担任の忠告は受け入れることはできなかった。家庭の都合もあって決めたことを何でそんなに叱られなければならないのかという不条理さを感じ、それまで従順だった私は、はじめて教員に対する怒りを覚えた瞬間だった。
 私が、教職の道を選んだのはこの二人の先生のお陰である。いい先生にもたくさん出会ったが「こんな教員がいては困る。俺はそうはなるまい」という単純な動機だった。反面教師としてその後一度も会ってない二人に今となっては感謝すらしている。

二部授業
 小学校2、3年生の頃までだったと思うのだが、生徒数が多くて教室が足らなかったため、2部授業が行われた。2部授業というのは、一つの教室を午前、午後に分けて別のクラスが使うというものであった。従って、授業の最後に「明日は午前授業だよ」などという連絡がなされるのだが、これを聞き逃したり、間違ったりするとひどいことになる。私も何回か、登校する途中で同級生と会って、「もう今日はお終いだよ」など、校庭の鉄棒で一人で遊んでから帰宅したものだった。情けない気分だったことは記憶にある。そんなとき、親に叱られることはなかった。

 私の学年は14、5クラスあったが、2学年下当たりから数学年下までが、所謂「団塊の世代」である。
 2000人もの児童がいると、休み時間の校内は混雑、喧噪そのもので、「廊下を走ってはいけません」などということは、危険防止から当然のことだったが、雨の日などは長い廊下を思い切り走るのは爽快だった。無論校舎は木造だったので、掃除するにも気をつけないと、手に棘が刺さることもしばしばだった。廊下をぴかぴかに磨くために、布袋に入れた「ぬか(糠)」が流行したことがあった。生徒が持参したものだったが、これで廊下を擦りつけると光沢が出るとともに、足袋や靴下を履いている児童はよく滑った。アイススケートのように滑るために廊下を磨いた覚えもあるが、階段の近くの廊下を磨きすぎると危険が伴った。ブレーキが効かず、バタバタと階段下まで一直線という事態も生じた。ぬか掃除の後、手がすべすべしてきれいになった感じがした。

 私が3年生のときに弟は幼稚園生だったが、一度だけ弟が一緒に登校し、私の机の下に潜り込んでいたことがあった。なぜそうなったかはっきりと覚えていないのだが、狭い机の下で私の足に挟まれて横向きになってじっとしていた。まわりの友達達がおもしろがって、「センセがくると叱られるぞ」などとはやし立てたが、叱られた記憶はない。4年生までは女先生だった。かわいがってくれた女先生とはその後50年以上も手紙のやり取りが続いている。
 私が4年生になると、入学してきたばかりの1年生の教室の掃除のために上級生が分担して毎日通った。私のクラスは偶然弟のクラスだった。下級生の教室掃除とともに、5年生になるとクラスの何人かが指名されて、先生の手伝いのために居残りを命じられた。私は1年生の教室にいくように命じられ、先生のクラス事務の手伝いとして、描かれていたグラフにクレヨンで色を付ける作業をした。

木琴・ギター
 私が小学生の時代は楽器を演奏するなどということは、ごく少数の児童だけがするものだったようだ。3年生のときは、放課後、今でいう終り学活の時間に、毎日のように木琴の演奏を命じられた。たいして上手だったとは思わなかったが、マレットをできるだけ細かく打ってトレモノの練習をした。童謡や音楽の教科書にある曲を何曲かずつ演奏した。楽器が珍しかったに違いない。6年生のときは、卒業前に卒業生による演奏会が講堂で開かれた。例の3クラスぶち抜きの教室である。ハーモニカ、木琴、鉄琴、縦笛、オルガン、打楽器などもあったが、私にとってコーラスが晴れ舞台だった。クラスから5,6人ずつ選ばれた演奏会だった。それでも60人ほどだった。フォスターの「オールドブラックジョー」を3番くらいまで合唱したが、2番は私の独唱だった。変声前のボーイソプラノだったが、人前で歌うのは晴れがましい気持ちだったことだった。中学生になって、音楽の先生に勧められて混声合唱に参加させられた。変声期に無理な発声をして高い声が出なくなってから人前で歌うことは避けるようになってしまった。
 6年生の卒業直前にお別れ会があった。歌を歌ったり、学芸会のまねごとばかりだったが授業がなかったことがうれしかった。私はギターでショパンの「別れの曲」を演奏した。ギターは5年生からカルカッシの教則本で練習していたが、ポピュラーで簡単に演奏できる楽譜を見つけては毎日のように弾いていた。自己流の最大の欠点は自分の好きな曲しか練習しないことだ。#記号やb記号がたくさんついた曲は面倒なのでたいがいパスしていた。ソル、タルレガ、ジュリアーニなどの曲を聴いてからギターの素晴らしさには魅せられ続けている。名曲と名演奏を聴くと音楽の聴き方や楽しさの深さとが違ってくるものだ。当時はアコーデオンやマンドリンを弾く友達もいたが合奏することはなかった。

のみ,しらみ,ぎょう虫
 小学校の低学年のときは、衛生環境がよかったとはいえなかった。男の子はたいてい坊主頭で、女の子もワカメちゃんカットが多かった。よほどのお大尽でなければ長屋住まいが多く、自宅に風呂などなかったから銭湯通いだった。私が通っていた銭湯の近くには前橋刑務所の更生施設があり、そこから来る人の中に入れ墨を入れている人が少なからずいた。はじめて入れ墨を見たときは驚いたが、見事な彫り物もあった。
 そんな環境だったから風呂にはいるのは一週間に1、2度程度で夏場は大抵自宅の行水で済ませていた。女の子の頭からときどき蚤が飛び出すことがあった。蚤にくわれると痒いし、つぶすと血が出た。つぶし方にも工夫が必要だった。指先ではうまくつぶせないが、爪でつぶすとブチッとつぶれてくれる。虱はほとんど目では見えない。くわれると腫れてしばらく痒みが続いた。蚊にくわれても一時間もすると痒みはとれるものだが、蚤や虱はそうはいかない。
 学校で蚤、虱対策としてDDTの散布があった。教室に撒くのでなく、子供達の頭に直接吹き付けるのである。ひとりひとり頭を下げて、真っ白になるまで吹き付けた。DDTはDichloroDiphenyl Trichloroethaneの略語で、有機塩素系の殺虫剤のひとつだが、環境汚染防止のため使用禁止になっている。いまでは人間に直接吹き付けるなどとはとんでもないことだ。ろくに風呂にも入らず着替えも滅多にしなかったのだから仕方なかったのだろうが、もっと強烈なのがBHCだった。これは植物に散布したり、蟻、百足などの退治に使った。BHCはBenzene HexaChlorideの略語でやはり 有機塩素系の殺虫剤のひとつで、現在は使用禁止になっている。百足は雨模様の日などに出没し、これに刺されるとかなりの痛み腫れが伴った。たいていはこいつが出てくるとハサミでチョキンと切って処刑したが、半分になっても動きまわる不気味さが子供心に恐ろしい生き物だった。家の中にこいつが這い混んで来たのに驚いた姉がキャッと飛び上がった結果、運の悪かった百足は足の下に潰れた姿に変身。家中大騒ぎになった。

 農作物のための肥料は化学肥料でなく人糞が使われ、農薬も使われてなかった。化学的な悪影響は確かになかったのだろうが、「虫がわく」という迷惑な副作用があった。夜布団に入ると肛門の辺りがこそ痒くなってくる。しばらくすると、もぞもぞと動くものがくすぐったさとともに現れる。これがギョウ虫である。ギョウ虫が現れてもさして驚きもしないほど頻繁に現れた。
 学校には衛生室という部屋があった。今でいう保健室である。この衛生室にホルマリン漬けのミミズより大型な虫が標本になっていた。これが回虫であった。回虫はカイチュウ科の線虫で、人の寄生虫である。雄は体長20センチ前後で尾が鉤状に曲り、雌で大きなものは40センチにもなり尾が鈍く尖っている。野菜などから卵が口から入って、小腸、胃などに、寄生するが、場合によっては脳に寄生するというから恐ろしい虫である。標本を見て、「こんな大きいのが体の中に住んでるのか」と恐ろしさを感じた。
 衛生講話というのがあって「ギョウ虫や回虫は体に毒ですから退治しましょう」と教えられた。そのために「虫下し」のうまくもない薬を飲まされた。効果はてきめんで、たちまちギョウ虫との遭遇が頻繁になってくる。これを指で取り出し、清潔にしないと再び口から卵が入り込んで体中をぐるぐる回ることになるから、薬を飲むだけでは効果がない。しばらく前に、「花粉症が多発しているが、ギョウ虫が体の中に住まなくなったからだ」ということを聞いたことがあるが、ギョウ虫と仲良しだった年代の人間にとって、どちらがいいか考え込むところだ。
 食糧事情がよくない時代だったから、現在当たり前に使われているサプリメントとして「かんゆ」があった。肝油ドロップは現在も売り出されているようだが、積極的に口にしようという気にはなれない。肝油は、主としてタラなど魚類の肝臓より抽出された脂肪を主成分とした油で、ビタミンAとDを多量に含んでいる。

 こうして私の幼い時代は虫との戦いだった。

河童くん
 最近はスポーツをしていたり特別なことがなければ坊主頭の少年は少ない。散髪代をかけないようにするため多くの少年達は坊主頭であった。庭先で白い布を被せられてバリカンで刈られ、時には虎刈りのまま登校する子供もいた。頭部を守るためには少しは頭髪が伸びていた方がいいのだろうが、頭部の皮膚病を防いだり、洗髪する便利さや散髪に技術を要しないことを考えれば坊主頭が多かったのは当然だった。
 クラスの中に二人だけ坊主頭でない者がいた。一人は私で、もう一人は従兄弟であった。なぜ坊主頭にしなかったか特別な理由はなかった。ただ坊主頭にしたくなかっただけである。散髪代は私が高校生の時に150円程度だったが、昭和30年代後半の大学新卒の初任給が一万円台だったから、安い金額とは言えなかったかも知れない。
 一月に一度は父に散髪してもらっていたが、特別器用でない父の技術では、ぎこちない頭になるには散髪後一週間は必要だった。バリカンで後ろと横を刈り込んだ段階で既に小虎の様相ができているが、問題は前髪であった。少しずつ梳きばさみなどで梳いていけばいいのだろうが、ハサミは一つだけだったから、一番簡単なスタイルである、前髪一直線のおカッパ頭にいきついていた。長さを揃えてまっすぐに切ればいいのだから、やり違えることはほとんどない。前髪の伸び方が少しずつ違うので直線が目立たなくなるのに数日間は必要であった。そんな私の髪型から、私のあだ名は「カッパ」だった。分かりやすいあだ名だが、自分では鏡で見ない限り自分の髪型は見えないのだから、知ったことではなかった。

 小学校高学年の履き物はずっと小判型のゴム草履だった。ときどき鼻緒が外れ入れ直した。底が薄いので地面に小石があると痛かったし、冬は寒さが直接伝わってきた。靴下は高校生になるまで使ってなかった。中学生の時は素足に下駄、冬は足袋に下駄姿だったが、暖かい履き物でなかった。鼻緒が切れると手ぬぐいで繕う技術は子供でも持っていた。平衡感覚を養ったり、足の指先の器用さのためには下駄はいい履き物だ。野球部員の中には鉄製の下駄を履いて鍛錬に励んでいる者もいた。革靴を履いたのは高校を卒業する直前だった。
 最近、懐かしさに駆られて久しぶりに下駄を履いてみたが、アスファルトの上では至極履きにくい。一歩ごとにアスファルトの固さが頭に響いてきて疲れる。また、下駄の音がやかましいことおびただしい。よほど気を遣って歩かない限りカラッ、カラッという音は大きな音である。下駄は地面でないといけないらしい。
 ランドセルを使った覚えはない。兵隊さんが使っていたカーキ色の布製のカバンは軽いしふたをすぐに外せて便利だった。遠足のときのリュックサックも使ってなかった。おにぎりや菓子を風呂敷にくるんで腰に巻き付けたスタイルは両手が開いていて便利だった。肩から襷がけにするともっと歩きやすかった。通学にも風呂敷を使っている友達もかなりいて、服装も実用本位でつぎあてがあっても、裸足に下駄、草履姿でも少しも貧しいという気持ちはなかった。

6 不思議な記憶
夢の中で
 夢を見たことは分かっていても、ほとんどの場合、どんな内容かは目覚めていくらもしない内に忘れてしまうものである。現在までにはっきり記憶に残っている夢の一つで不可思議なものは、「幽体離脱」らしきものである。夢は自分の意志に関係なく、予測せずに現れるが、記憶の深い奥底に残っていることが関係しているらしい。
 場所は沼田駅。人々が忙しく行き交っていた。切符売り場に私と家族の誰かが一緒にいる。父と二人だけだったようだ。切符を買い求める。それを、私はその様子が分かる駅舎の梁に乗って見下ろしている。自分が自分を見下ろしていることははっきりしていた。身なりは上等でない普段着で、行き交う人々も同じようであった。遠くから煙を吐いた汽車が近づいてきた。急がなければ汽車に乗れない。切符を手にしてからあまり高くもない階段を登ろうとするが、なかなか前に進めない。一生懸命足を動かそうとするが進めない。父が前を歩いているが、その動きは実にゆっくりとしている。他の人は足早に跨線橋を登りプラットホームに降りている。汽車にはたくさんの人が乗っている。足が前に進まない。そして再び切符売り場に立っている・・・・・。これが繰り返されていた。高い場所にいる自分は、下にいる自分が子供であると感じている。半ズボンである。背中に大きめのザックを背負っている。
 この夢がその後も何度も別の日に思い出されることがある。上から見ている自分と、父らしき人物に寄り添っている半ズボン姿の自分・・・・。分からない景色である。

 もう一つは、成人してから大病したときに見た夢である。高熱にうなされていた。石で囲まれている景色が見えた。自分は立っている場所から身動きができないでいる。石に囲まれた場所にはたくさんの鮮やかな花が咲き乱れている。その先にもお花畑が続いていて、お花畑のずっと先は霞んでいて微かに山並みが見えた。突然人間の姿が見えてきた。その人物が私に近づくにしたがって顔がはっきり見えてきた。母であった。それも若い頃の元気そうな母であった。着物姿であった。足は・・・・見えない。母がにこやかに笑ってこちらを見ていた。母は左手を右の袖に当て、右手がおいで、おいでをしている。お花畑の花は極彩色で実に鮮やかできれいだった。母は石で囲まれた真ん中辺りでにこやかに、こちらにおいでとはっきり分かる動作をしていたが、声は聞こえない。色は見えるが声は聞こえない。近づこうとして体を動かそうとするが、体が重くて動けない。苦しさに襲われていた。そのときフッとあることを想い出した。京都に住んでいた叔母が高血圧で瀕死の状態の時に同じ思いをした・・・と。叔母を呼んでいたのは祖母であったという。ここでお花畑に入ると絶命するかもしれないという恐怖に襲われ悶えた。行ってはいけない。行ってはいけない。行ったら戻れないだろう。母はそんなことを知ってか知らずか、穏やかな顔でおいでおいでを続けていた。苦しさから「あーっ」という自分の声で目覚めた。高熱にうなされていたためだったのか。
 この夢も何度も想い出される。夢の中で以前見た夢を見る、などということも経験したことがある。前の晩の夢の続きを翌日見たこともあった。寝苦しさ、呼吸の不自由さ、身体的な痛みなどが刺激になって夢に結びつくことがあると聞くが、残念なことに楽しくて愉快な夢はほとんど見たことはない。そうしたことができるなら、寝ることも楽しくなるのだが・・・・・。

火の玉  
 火の玉をはっきり見たことが2回あった。
 一回目は小学校3、4年生頃だった。冬の夜6時過ぎ、満月に近い東の空に大きな月が見える晴れた日だった。父、弟、私の3人で歩いて10分ほど先にある銭湯に向かったときだった。龍海院を左前に見る場所に来たときだった。背の高い杉の木が何本も聳え立つ先に月がまぶしいくらいに見え、月がきれいだね、などと話している時に突然にして、その杉のかなり高い位置から一直線に光の固まりが直に地面に向かって落下していった。「あっ、あれなんだ!」と誰かが叫んで3人ともはっきりその光の動きに見とれた。わずかな時間だったがその光が赤みを帯び、サッと一点に向かって落下していくのが分かった。ぞっとして鳥肌がたった。あれは何だったのか。あれは動いた方向から流れ星でなかったことは明らかだった。寒かったが風が吹いていた記憶はない。杉が燃えたと聞いたこともなかった。
 2回目は夏の日没後だった。我が家は市道から少し入った袋小路の奥にあり、行き着いたところに電信柱があり、裸電球が点いていた。小学4、5年生のことだった。夏の夜の夕食後はテレビやゲームがあるわけでもなく、ラジオを聴くか、明るくもない電灯の下で本を読むことくらいしか楽しみはなかった。そのために子供達は外に出て遊ぶことが多かった。曇った湿り気を感じる暑さの日の宵だった。
 自宅から北東200メートルほど先のある家の屋根の位置辺りからフワフワと赤い塊が浮遊しているということを、そこにいた5、6人の子供の内のひとりが気づいた。「あっ、火の玉だ!」 その姿は火の玉そのもので、ゆっくりと浮かんでいるという感じだった。鳥肌が立ち怖かった。火の玉がこちらに移動してきた。時間にすると2、3分程度だったろうか。我が家の前の電信柱の一番高いところに火の玉がぶつかったとたんに、音もなく2つに別れた。我が家のいくらもしない西裏は利根河原、北裏は墓地だった。火の玉は西へゆっくり姿を消していった。

 あれはいったい何だったのか。死者が出ると火の玉が出ると聞いていたが、その日に近所で死者は出てなかった。別の日に畑を隔てた市道に面した家に死人が出た日に、子供達はかなり遅くまで、じっとその家の屋根を見つめ続けたが、火の玉を見ることはなかった。火の玉が球電やプラズマや虫の塊だという説があるが、気味が悪く不可思議な現象であることは今も同じだ。
龍海院
 火の玉を見た龍海院は自宅からそう遠い場所ではなかった。広い境内が子供たちの格好の遊び場だった。東側から山道を見るといかにも立派なお寺さんだった。山門は高い建物で見上げるほどで山道に連なる灯籠も立派なものだった記憶があるが、成人して山門を何十年ぶりかに見上げて見ると、幼い頃感じたほどの大きさを感じなかった。背丈が小さいと何もかも大きく見えたのだろうか。
 山門の前に大きな石が置かれていて、小学校への登校時間に決まって一人の人物が座っていた。彼はいつも俯いてじっとしていたことが不思議だった。子供たちは、毎日決まった時間に、そこになぜ大人が座っているのか不気味がって、そこを通り過ぎるときは見るでも見ないでもしないでそろそろと通り過ぎていった。

 龍海院には近くに住んでいた従兄弟の家の墓地があった。自分の家で墓をもっていなかったので、人並みにお墓参りをしてみたかったの。8月のお盆には従兄弟の家族とともにお墓参りに出かけた。県内でも地方によって墓参の習慣は違うらしい。いつも早朝の墓参で、迎えの提灯を火が消えないように点して行く。墓石を磨き、まわりを清掃した。花を手向けてから線香を献じた。墓石の頭から水をかけると墓石が綺麗になるような気がしたが、一説によると、頭から水をかけるのは無礼なのでやってはいけないことなので、まわりに水をかけるだけでいいのだそうだ。子供心にも、線香の香りを感じながら手を合わせて目をつぶっていると落ち着いた気分になったが、会ったこともないご先祖様に手を合わせていることのおかしさは感じなかった。大きな由緒ある杉があった。従兄弟の家の墓は後に史跡に指定された。

ばい菌の幻影
 弟が生まれたばかりだったから、私が5歳のことだった。
 沼田の疎開先から、父の仕事の関係で前橋に転居したばかりだったが、住むところに窮して間借り生活が始まった。六畳、四畳半、二畳の狭い間取りで便所は母屋を借りた。風呂は銭湯に行ったが、夏は金ダライに水を張ってあたためて行水するのが常だった。建物の東にブリキで囲った台所を作った粗末な住まいだった。無論水道などなく、すぐ近くの共同井戸を使っていた。
 井戸には蓋もなく雨が入り放題だったから衛生的とは言えない。井戸は一年に何度か「井戸さらい」をしていた。専門家が来たこともあったが、たいがいは近所の人たちが総出の作業だった。 水位を下げた後、力のある男が腰に縄を巻き付けて井戸の底までたどり着き、底に沈んでいる石ころや子供達が投げ込んだ雑物をつぎつぎに取り出した。瓶が出てくることもあった。

 母と弟、私が一番奥の六畳間に、父と姉が四畳間に寝ていた。そんなある日、カーテンもない東の窓から差す朝日の眩しさが堪らずに目覚めた。辺りは静かで家族は寝入ったままだった。二つの部屋の仕切りの障子は子供のいたずらで破れていた。破れた障子から隣の部屋を何の気なしに覗いた。隣の部屋には父と姉だけがいるはずだったが、もうひとり人影が見えた。おかしいと思うと同時に、冷水を浴びたようにぞっとした。第三の人物の頭に長い耳がついている。「あれは人間ではない!」とっさにそう思った。体は真っ黒で細い。身長は子供のように小さい。その第三の人物が寝入っている父と姉の顔を何度ものぞき込み、さっと東の部屋に移動して姿が見えなくなる。また現れて同じ動作をする。そうしたことを何度も繰り返していた。「いったこれは何だ?!」。もしかしたら自分が夢を見ているのかと思って隣に寝ている母を見るとやはり夢ではない。怖い。体が硬直しているようだった。
 どれだけの時間が経ったか分からないが、近所で生活の音がしはじめるてから、おそるおそる破れ障子から隣の部屋をのぞき込むと、もう第三の人物の姿はなかった。外に面したガラス戸はいつも鍵をかけていたから、音を立てずに外に逃げ出すことはできなかったはずだ。
 両親が起き出してから、そのことを言うと「誰もいなかったよ。鍵はかかってるよ」ということだった。
 あれから50年以上の年月が経過したが、何度思い返しても、あれは夢でなかったと信じている。いったいあれは何だったのか。

7  遊び 
銅(あか)を拾う
 戦後前橋も泥濘だった道路が舗装され、電信柱も木製からコンクリート製に、住居もバラックから文化住宅に、上下水道も順次完備されていった。生活する上で便利になったと思えるのはときどき暗くなって停電していた電気、銭湯から自宅風呂、薪・練炭からガス・灯油などの燃料、そしてポットンから水洗に変わった便所などだろうと思っている。とりわけ家電製品の普及が便利な生活を作ってくれ、現在は電気がなければ生活できないといえるだろう。たまに落雷などで停電するといかに便利な生活を享受しているか分かるものだ。
 あちこちで木製の電信柱が立てられ、住宅の建設や架線工事のための電線工事があったのは私が小学生の頃だった。たぶん2、3年生のことだったろうか。電線工事をした後に電線の切れはしでTopある銅線が落ちていた。子供の間でこの銅線拾いが流行った。銅線が売れる、という噂が立ってから仲間同士であちこちに拾いに出かけるものがいた。道路を歩いていて上を見上げると、たいして高い建物がなかったので遠くからでも電線工事をしているのが見えた。工事現場の下にはたくさんの銅線の切れ端が落ちていたので、沢山あるときは袋に拾い集め、古物屋にもっていくと小遣い銭になった。銅線は光って見えるので薄暗くなってからも見つけることができた。銅のことを「あか」と呼び、銅線拾いを「あかを拾いに行く」と呼んでいたが、建設現場の跡にブリキなどの切れ端が残っていて、これもあかを拾いに行くと同様に価値のあるものだった。

 拾うといえば、住宅を建てるときの建前(たてまえ=棟上げ式)が小遣い稼ぎのひとつであった。建前があると、骨組みだけできた棟の上にのぼりが立てられ、コインがお祝いとして投げられた。一円玉、五円玉がほとんどだったが、同時に紙に包まれた紅白の餅も入ったお菓子が振る舞われた。葬式の時も竹で作られた籠にコインが入れられていて葬列の最後にこの籠を回転させ、こぼれたコインを子供達が拾い集めたものだった。
 こうして、子供の頃は「落ちているものを拾う」ことが頻繁に行われ、子供達の楽しみの一つだったし、小銭を拾い集めて家計の助けにしようとした健気さが懐かしさとともに想い出される。

鉱石ラジオ
 何かを工夫して作ること、分からなかったことが分かるようになると嬉しかった。
 家で使っていたラジオは木の箱でできた30センチほどの大きさで、ダイアルのついた大事な生活必需品だった。親はそのラジオで玉音放送 を聞いた。そのラジオの表面に布で覆われている四角い部分があった。鉛筆の先でつつくと中に黒い物体が見えた。鉛筆を押し込むとその全容が見えてきた。中央が円形になっていて全体が円錐形になっていた。円錐形の途中を鉛筆の先でつつくと音が響いた。その音は貼ったばかりの障子をつついたときと同じ音だった。中央の部分にドライバーや画鋲を近づけると吸い付けられた。磁石だとわかった。そのドライバーがクリップを引きつけることがわかった。いたずらの始末をしないまま、ドライバーを磁石に突き刺したままにしておいて父に叱られたことがあった。裏から覗くとダイヤルをまわすと半円形の金属が回転していた。ラジオは貴重な情報源、娯楽のもとだった。
 携帯ラジオが子供でも作れると友達に聞いて嬉しくなった。でも高価なものではだめだ。5年生の頃だった。鉱石ラジオキットが、アンテナの絵が描かれた小さな箱に入れられ、子供でも買える値段で売られていた。貯めていた小遣いで1個買った。箱の中は、エナメル線、ボビン、バリコン、鉱石が入っているだけで、すかすかだった。こんなものでラジオが聴けるのかと思ったが、説明書に従って作り上げた。電源は乾電池だった。このラジオはゲルマニウムラジオだった。ゲルマニウムが検波をしてコンデンサーと自分で巻き上げたコイルを使えば、電波を受け取ることができる。
 組み立てられたラジオのスイッチをドキドキしながら入れた。だが、何の音もしない。ボリュームをまわすとザラザラという小さな音がしただけだった。もう一度説明書を読んだ。アンテナがついてなかった。前橋は東京の放送局から約100キロ離れているから電波は弱い。高いアンテナが必要だったが、それは無理だった。エナメル線をポケットに入れ、滑りやすい瓦屋根に登って取り付けた。アンテナの向きによって聞こえ方は随分違ってくる。下におりてきて再びスイッチを入れたところ微かに話し声が聞こえてきた。ダイヤルをゆっくりまわすとよく聞こえてきた。音楽も聞こえたが、辺りがうるさいと聞きにくい程度だが大成功だった。翌朝、ラジオを聞きたくてNHKの放送を待った。5時10分前になるとオルゴールが聞こえてきた。その曲はギターの楽譜に乗っていたものだった。あの曲は理科への目覚めの曲でもある。5時になるとニュースがはじまった。早朝のラジオ聴取は密かな楽しみで何日も続けた。
 鉱石ラジオが、理科が面白いと思ったはじめの経験だったが、学校でやったかえるや魚の解剖には少しも興味を持てず、寧ろただ気持ちが悪いと思っただけだった。決定的に理科が面白いと思ったのは、中学校で同級生が手作りの望遠鏡で見せてくれた「土星の環」だった。三脚も手作りだった。口径が大きなものではなかったから、はっきりと見えるものではなかったが、ぼやっとして輪が確かに見えた。ぞくぞくする、今までに感じたことのなかった感激があった。「自然の偉容」を感じた瞬間だった。あんなに遠い星が見える、と感動した。その後、自分でも紙の筒でできた望遠鏡を作ったり、太陽の黒点観測をした。その望遠鏡は大切に今も保管されている私の宝である。

幻灯機
 思い返してみると、子供の頃の遊び道具のほとんどは金をかけない手作りのものだった。皆が貧しく物資が潤沢でなかったから当然のことだったが、そうした中で子供は刃物などの使い方を習得していったし遊びの中で創意工夫を積み重ね行った。
 そんな中でワクワクする文明の利器があった。それは絵を拡大させて見たり、動く絵を作ることができた幻灯機であった。フィルムはセロファン紙、筒体はボール紙、光源は裸電球であった。レンズは、なけなしの小遣いをはたいて文房具屋で購入した。焦点をどうしたらはっきりした像をスクリーン(たいがいは壁だった)に結ぶことができるのか、フィルムをどうやって入れ替えるかなどいろいろ工夫が必要であった。幻灯機が小さすぎると電球の発熱によって燃えることもあった。一番悩まされたのが絵をどうやって動かすかであった。フィルムの移動とともにスリットを同期して回転させることができれば、立派な動画再生機だが、スリットなどという考えは思い浮かぶはずがなかった。動画を作ろうと思ったのは、ノートや本の端に書いて遊んだパラパラ漫画が面白かったからだった。どうしても思い出せないのが、セロファン紙に何の筆記用具で書いたかである。ボールペンはなかったし、便利に使えるフェルトペンがあったわけではないし、当時使えた筆記用具は鉛筆しかなかったはずなので、輪郭は白黒だったが絵の具で色をつけていたかも知れない。人気の漫画は「のらくろ」、「タンクタンクロー」、「黄金バット」だった。手塚漫画もかなり読んだ。貸本屋で1冊5円か10円で毎日のように借りてきて、友達と借りてきた本の交換したものだった。貸本屋は貴重な情報源だったし、友達間で交流できる図書館のようなものだった。
 難しい漫画は描けなかったが、幻灯機を作ることや、動く絵を工夫しながら作っていくことが楽しかった。物つくりの楽しさはこの頃から味わうことができた。

めんこ,ビー玉
 私の少年時代には、年齢によって遊びも、行動もはっきり区切りをつけていた。
 小学生時代はめんこ、ビー玉、けん玉、ベーゴマに興じ、日の暮れるのを忘れることもあり、漫画も毎日のように読んでいた。中学生になると、クラブ活動がはじまって帰宅が遅くなり、そうしたガキの遊びは卒業していった。漫画も小学生時代に満足するほど読んだのでほとんど読まなくなり、文字の沢山ある読み物を読んだ。紙芝居も小学生が見るものだった。中学生のくせに漫画なんか読んでる、と言われると恥ずかしかったものだ。高校生になると本格的に運動をはじめとするクラブ活動に打ち込み、読む本もドフトエフスキー、トルストイ、ヘッセなどを読んだ。よく分かりもしないニーチェ、カントの書物をポケットにわざと外から見えるようにして精一杯の背伸びをした。年齢に応じたこうした精一杯の精神的な背伸びが大切なのだと思う。子供が階段を上るようにして心を成長させていくことが、年齢より少し上を目指す背伸びから得られることにつながっていると思える。
 子供は遊びからいろいろな生活の知恵を身につけていくものだ。工夫がなければ、めんこもビー玉も上達することはできない。どうやったらビー玉を正確に投げることができるか、回転させて相手のビー玉を四角の陣地から打ち出すことができるか、相手のめんこからどれだけ離して、どれだけの強さで叩くとひっくり返して自分のものにすることができるか。みな経験則が必要だった。竹ひごを作るためにナイフでどういう削り方をすれば手を切らずにすむかの智慧を得る前に大人が「危険だから学校でナイフを使うな」としているのは、子供の智慧を失わせているいい例だろう。子供がいけないのでなく、しっかり指導できない教員と、何でも学校の責任にしたがる馬鹿な親がいけないのだ。生徒を好きになれない教員は辞めてもらいたいものだ。なんでもかでも学校や人の責任を追及したがる親は、自分が他人を非難できるほどのことをしているか考えてみるといい。思い切り小さいときに遊んだ経験のない者は、子供をしっかり卒業してない。どこか不完全燃焼の要素を持ち続け、大人になりきれない人物が親になったら、その子供はどうなるのか。遊びは子供の大切な経験、生活であることを忘れそうだ。
 キャンプに連れて行く、料理をさせる、山歩きをさせるなどの、なんでもないことが子供が「生活の知恵」を身につけることができるいい機会になるだろう。

言葉遊び
 ボソアンャチーヨ。ヨダメダハウョキ。デンナ。モテシウド。ナーャジ。ネタマ。
これは何語か分かりますか。子供語です。子供語といっても5年生くらいだったろうか。反対言葉がはやった。日常言葉を逆に話すのである。
ウヨハオ。ウコイニウコッガ。ヨシコンメラタッエカ。カボソアデラワカ。ヨイイモデラバンャチ。
などという他愛のない会話を反対にして楽しんでおもしろがった。話す言葉を考えてから、頭の中で言葉を逆さまにするだ。長い言葉はすぐには逆さまにできないから、20文字くらいに区切って話した。
言葉を反対にしたらどうなるかという内容が、国語の授業であった。なんだ反対言葉か、簡単だよ、と子供達は思ったが、そうではなかった。オープンリールのテープレコーダーが教室に持ち込まれていた。子供のの話し言葉を録音した。そのテープを逆に入れ替えて再生した。いつもの反対言葉が聞けると思ったが、訳の分からない外国語、それも語尾が不明瞭な言葉だった。テープレコーダーで逆巻きするとなんのことはない、ローマ字書きしたものを逆読みした言葉が聞こえると言うことを知った。そこで日本語の母音と子音の意味が分かった。ローマ字が魔法のように思えた。

 早口言葉もはやったことがあった。
となりのきゃくはよくかきくうきゃくだ=隣の客はよく柿食う客だ
となりのたけやぶにたけたてかけたのだれだ=隣の竹やぶに竹立てかけたの誰だ
なまむぎなまごめなまたまご=生麦生米生卵
ぼうすがびょうぶにじょうずにぼうずのえをかいた=坊主が屏風に上手に坊主の絵を書いた
あかまきがみきまきがみあおまきがみ=赤巻紙黄巻紙青巻紙
カエルぴょこぴょこみぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ
しんじんかしゅしんしゅんしゃんそんしょー=新人歌手新春シャンソンショー
すもももももももものうち=スモモも桃も桃の内
とうきょうとっきょきょかきょく=東京特許許可局
などがあったが、これを反対言葉で読むのは難しかったが、「たけやぶやけた」、「しんぶんし」が上から読んでも下から読んでも同じことに気がついた。後に回文というものがあって、
「ながきよの、とおのねぶりの、みなめざめ、なみのりぶねの、おとのよきかな」
を知ったとき、小学校時代の「たけやぶやけた」を想い出した。

 数字言葉を、面白半分に大声で叫んでいたこともあった。数字の1から10までを節を付けて歌うのだ。
「いっちゃんちーの、にーちゃんが、さんちゃんちーで、しーこして、ごめんもいわずに、ろくでなし、しちめんちょうに、はたかれて、きゅーきゅーないて、とんでった」などという他愛のないものだった。
 地面に落ちている石で絵を描きながら、
「つるさんは、まるまる、むし」と言いながら、ひらがなで「つる」と書き、その下に漢数字の三、その下に八(ここまでで頭と眉)、その下に○を横に2つ並べる。これが目。目の下にカタカナの「ム」。これが鼻。「ム」の下の真ん中からほそ長いひらがなの「し」を書く。これが顔の輪郭となって、顔の全体像が描ける。書くたびに人相の違う人間の顔ができるから面白かった。細長かったり、太ったり。あきると、髭を生やしたり左右逆に書いたりしていた。一通り描いてやめようとすると、少し賢い子は顔を上下反対に描いて満足そうだった。
にいちゃんが、さんせんもらって、まめかって、くちをとんがらせて、あひるのこ。
ろくがつむいか、さんかんび、あめふって、・・・ こっくさん
などというのもあった。
  女の子達がやっていた、鞠つきのときの歌は
「いちりっと、らら、らっきょくってしし・・・・きゃべつでほい」、「いちもんめのいーすけさん、いのじはきらい・・・・」、「いちばんはじめはいちのみや、にーはにっこうとうしょうぐう、、」などというものだった。

こんな単純な遊びを、いつまできゃあきゃあ言いながら、日の落ちるまで遊んでいたが、とにかく友達と遊べるのが楽しかった。

三角ベース
  道具も十分にない時代のスポーツはドッジボール、キャッチボール、水泳、野球くらいのものだった。冬は田んぼで下駄スケートをしたこともあった。野球といっても、グローブやバットがあったわけではないので、道具はいずれも手製であった。バットは棒を削って作ったが、まっすぐにうまく作れるわけではないので、ボールに当たっても真っ直ぐに飛んでいくとは限らなかった。グローブは布を縫い合わせた厚めの手袋のようなものだった。ボールを作るのが一番難しかった。布を縫い合わせただけだとバットにあたっても、音はしないし、だいたいにおいて飛ばない。仕方ないので、芯として石を入れた。そのまわりに布を縫いつけた。きっちり縫いつけないとボールとしては使い物にならなかった。手作りだから大きさもまちまちだった。完成品と思って使ってみたがうまく飛ばない。布をきっちり縫えなかったため表面がフカフカだった。こういうボールを使って野球をやっても面白くない。たまたまこのボールがドブに落ちてから使ってみるといい音もするし、うまく飛ぶことに気づいてから、予めボールをドブにつけて使った。これは良いアイデアだったのだが、一つだけ困ることがあった。ボールがバットにあたった瞬間、水しぶきがあがるのだった。それもドブ臭い匂い水しぶきが飛び散り、それが体に染みついていたので野球をした後は臭かった。当時のドブには生活排水として、米のとぎ汁や野菜の切れ端があったりして、ドブの底はヌルヌルしていて、その下には細いミミズが何十匹も住んでいた。そのミミズを釣り餌として使っていたから、釣った魚を食べる気はしなかった。そういえばゴミの集配は今のように頻繁になかった。上に斜めの木のふたがついたゴミ箱が各家にあったから、できるだけゴミを出さない工夫をしていたし、燃えるゴミは庭先で燃やした。落ち葉が集まるとゴミと一緒に焼き芋も作ったし、腹の減ったときはネギも焼いて食べた。
 野球をするのは近所の空き地だったので、普通の野球はできない。そのために、三角ベースをやった。普通の野球から2塁をうろ抜いただけででなく、その場凌ぎのルールが作られた。人数はその場にいる子供を半分にするだけだから何人でもできた。空き地の、どの塀にぶつかったらホームランだとか2塁打だとか、子供の間でルールを決めるのだから楽しかった。何イニング戦にするのかもその場で決めた。何度か、バットがボールにあたった瞬間に芯の石が飛び出して危ない思いをした。
 ゴムボールがあるときは、バットを使わず手で打った。小さい子が入る場合はたいがい、この手打ち三角ベール野球だった。川上、青田、中(前橋出身)になりきって熱中したが、今はあのころ沢山あった三角ベール野球ができる空き地も見あたらない。子供どうしで遊べたのは、便利な遊び道具がなかっただけでなく、空き地などの無駄な空間があったためかもしれない。今は子供のための無駄な空間は見あたらない。秘密基地を作ってわくわくした経験は忘れられないものだ。

危ない遊び
吹き矢・弓矢  
 吹き矢は、武器としては威力のある危険な道具である。筒は長さが1メートルほどの紙を丸めたものが多かったが、金属製の筒は丈夫で最強だった。矢は竹ひごだった。竹藪から適当な長さの竹を細く切って乾燥させ、長さを10~20センチに切り取り、先端を小刀で鋭利に尖らせてまっすぐになるように仕上げた。矢尻には円錐状の紙をしっかり取り付けた。これがしっかりしていないと矢を正確に的に当てることができない。矢を筒に入れ、筒の先端を的に向けて、息を止めてプッと思い切り息を吹きこむと矢はかなりの速さで飛んでいく。的までの距離が数メートルなら尖った矢の先が刺さった的からすぐに抜けないほど刺さるほど威力でだった。これが子供の体に当たれば怪我をすることは間違いなかった。敵味方に分かれた吹き矢ごっこで怪我をした仲間を目撃したのは一度だけだった。利根河原にいた友達の足に崖の上から撃った矢が当たったのだった。横距離にすると20メートルほどあったから、吹き矢の威力は恐るべしある。

 吹き矢より威力のある武器は弓矢であった。利根河原で竹を採ってきて、長さ2メートル位の弓を作る。竹の節が弓の真ん中に来るように切り取る。幅は数センチである。弦は針金であったが、かなりの力仕事だった。矢は少し太めの篠竹を使ったが、矢の先端が問題だった。竹ひごの先端を尖らせただけでは的に刺さることは難しかった。そこで危ないことを考え出した。矢の先端に釘を差し込もうというのであった。五寸釘の頭を切り取って糸でぐるぐる巻きにして固定した。この弓は小さな子供には力が足らなかったので使えなかった。体格のいい上級生が射手になった。戦争ごっこをやろうと話しがまとまったときに、ついでだから刀を作ろうということになった。釘を磨けばできそうだというアイデアは、やってみたがうまくいかないことがわかった。そこでとんでもない考えを思いついた者がいた。釘の先端を平らにするために汽車を使おう、ということだった。仲間が10人近く利根橋の隣にある鉄道橋の東端に出かけ、5寸釘を数本並べて汽車が来ることを待った。監視の係が決められ注意を払った。待てども汽車はやってこない。ある仲間が線路に耳をつけていた。汽車が近づくと線路に音が聞こえて来るというのだ。しばらくして線路に汽車が近づく音が聞こえてきた。続いて煙が見えてきた。汽笛が聞こえ、大きな音を立てて汽車が通り過ぎていった。置かれていた釘はあちこちに飛ばされたが、見事に潰されていた。実験成功だった。これをすこしヤスリで加工して立派な刀のできあがりだった。
 戦争ごっこは互いに10人程度が対峙していた。木の陰に隠れたり、河原に逃げ込むこともあったが、かけ声とともに矢がピュンピュンと飛んできた。今考えると極めて危険な遊びだった。もし矢が当たれば大けがをしただうろし救急車騒ぎだったろうが、幸いにしてけが人はでなかった。このときも小さい子は兄ちゃん達に守られて安全な場所に避難していた。

手榴弾
 これまた危険な遊び=悪さであった。子供達はいろいろ遊びを考え出すが、しばらくすると飽きてしまって新しい遊びを考え出した。家の近くにバスの操車場があった。そこにボルトとナットが落ちていたのを拾ってきた者がいた。これが絶好の遊び道具に変身した。駄菓子屋でかんしゃく玉を安い金額で買うことができた。おもちゃのピストルでも使うが、湿気て音がしなかったり、ピストルの刺激も長続きしなかった。このかんしゃく玉は1個の威力は小さいが、数をまとめると危険である。かんしゃく玉を数個まとめて、両側にボルトを取り付けた2つのナットの間に入れた。地面にこれを落としても何も起こらないが、この手製手榴弾をアスファルトに落とすと威力を発揮した。路面に落ちた瞬間、大きな音がしてボルトが飛ぶこともあった。
 悪ガキがこの武器の実験をした。家の近くを定期バスが走っていた。バスが走り去った直後に手製の手榴弾を投げると、予想より大きな音がして跳ねた。バスが急ブレーキをかけて止まった。パンクと思ってタイヤの点検をしたが、そうではなかったことが分かったが、爆音の原因が判明しないまま立ち去った。子供達は物陰に隠れて一部始終を息を殺して眺めていた。
 バスといえば、木炭自動車を見たことがあった。よくエンコして車の前でクランク状の鉄の棒をグリグリまわしてエンジンをかけていたが、黒い煙をよく出していた。手製手榴弾の被害にあったバスは木炭バスではなかった。この危険な遊びはいくらもしないで中止になった。ことが大人に発覚し、こっぴどく叱られて一件落着した。

ペンシルロケット
 生徒数が多くて臨時の教室にあてがわれていた講堂は、仕切りがベニヤ板一枚だから隣の教室の声が聞こえるし、すきま風がよく吹きこんできた。一般教室に暖房はなかったが、この臨時の教室だけは寒いことから石炭ストーブが入れられていた。ゴム靴をくっつけると、頭が痛くなる臭い匂いがした。よく燃えているときはストーブが真っ赤になった。
 担任がある日、何かの理由でいなかった。代わりにやさしい女先生が来た。担任と違って生徒を叩くこともなく、優しい感じにうっとりするほどだった。悪童がこのときとばかりに、ストーブを使ったいたずらを考えついた。鉛筆の金属製のキャップの中に下敷きに使っていたセルロイドを細かく切って入れた。セルロイド製の下敷きは現在使われてないが、これがよく燃えることが知られていた。このキャップをペンシルロケットと呼んでいた。女先生がくる直前にペンシルロケットを石炭ストーブの上に載せた。すぐに燃え出すわけではなかった。いつ飛び出すか分からないスリルで子供達は、ハラハラ、ドキドキだった。突然燃えだしたセルロイドの火がキャップの下から吹き出し、ヒュルヒュルと勢いよく飛び上がり教室の天井にぶつかって落下した。このとき、ちょうど女先生が教室に現れ大騒ぎになった。女先生はオロオロして、担任さんがいないときになんということを、と困った表情で叫んだ。だから、やめろといったんだという声が聞こえてきた。これも怪我と隣り合わせの危険な遊びでだった。


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