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オーストリア紀行2009
2009.08.29−09.07


はじめに
  ことしはハイドン没後200年、ハイドンイヤーである。モーツァルト生誕250年だった前回の訪墺では各地で多くの催し物があった。ことしはハイドンの主な活躍場所であったアイゼンシュタットを中心に演奏会、資料展示が行われている。暑さを避けるために8月末の出発を計画したが、日中の最高気温は27℃の日もあるかと思うと、小雨が降って半袖では過ごせない日もあった。最低気温は10℃をきる日もあり、寒暖の差に応じた衣類の対応を必要とする点では、しっかり暑かったり、寒い方が変調を来たしにくいようにも感じた。

 今回の旅で準備したことのひとつは飲み水であった。つまり、オーストリアでは水道水が飲める地域が少なくないが、生ぬるい水道水やミネラルウォーターはうまいものではない。そこで麦茶のパックを持参した。湯が使えるところでは湯出し、そうでないところでは水出しで麦茶を作って飲んだが、快適だった。もうひとつは独語の学習をそれなりにしていったのだが、ほとんどの地では英語での会話であった。独語で話しかけても英語が返ってきたり、辿々しい日本語が返ってきたりで、会話で困ることはなかった。航空機の中で飲み物のリクエストに、「Apfel Saft bitte.」というと、「リンゴジュースね」と言われたのには参った。もうひとつ準備したことはGPSロガーであった。いかに事前の計画がしっかりしていても、慌ただしく日程をこなし、自分の通ってきた経路がどこであるか定かでないことがあることから、GPSロガーを携帯し足取りを記録した。フィルムケース程度の大きさしかないロガーは10日間の全経路を記録できるので、旅の後で、自分の足取りを追うという楽しみに繋げることができた。

 3年前と異なったこと、異ならないことについて。以前は自動車の昼間の点灯が義務づけられていたが、本年から義務でなくなったそうである。実態は、高速道路では殆ど点灯していた。都市部の路上駐車は変わらずで、バスが道路に入れないこともあった。ウイーン市内でも自転車がよく見られるが、歩道を、歩行者、自転車の走行帯を一本の線で区切り、自転車走行帯を猛スピードで走る自転車に何度か衝突しそうになり危険を感じた。青信号の点灯時間は変わらず短かった。市内を車が猛スピードで走っている。日本国内の時速40キロを遙かに超えたスピードである。市電の走っている所では、自転車、路面電車、自動車には常に注意を払っていないと危険である。6日目、ウイーンに到着したばかりで、乗ったトラムが自動車と衝突し、しばらく閉じこめられた。幸いにしてけが人は出なかったが、事故が起こっても不思議でない状況である。

 もうひとつ変わらないのは喫煙である。特にウイーンでの喫煙は相変わらずひどい。歩きタバコは言うまでもなく、路上で喫煙者とすれ違うと危険を感じ、街中にタバコの臭いが漂っているようであった。ある程度の広さをもったレストラン、カフェでは喫煙、非喫煙の棲み分けをしなければならなくなったが、物理的に遮断しない限り煙が漂えば、有名無実である。地元民に聞くと、若い女性の喫煙はダイエットの目的が多いそうだ。喫煙によって食欲をなくすことによるダイエットというから、不健康この上ない行為である。10代の飲酒もEU圏内ではトップクラスというから、彼らを日本に連れてきたら忽ちにして、謹慎指導が必要になりそうである。健康管理についてオーストリアは低開発国である。
 新しくなったことは、ウイーンの交通網が全面的に改正されたことである。そのひとつは、山手線のようにリングを循環していた市電の1,2番線が、ことしになって循環しなくなっていた。1,2番線は約30分でリングを一巡し、お上りさんが街の様子を知るにはうってつけだっただけに残念至極である。またウィーン空港での出国手続きを自分で行うようになったことである。だが、手続きのための機械のレスポンスが甚だ悪く、何度やっても最後まで辿り着かなかったり、まったく反応しない機械も注意書きなしに設置されており、難渋した。
  旅行中の外貨レートは1ユーロ(オイロと呼ぶ)が135円だった。物価は日本より少し高めだが、高い税金も教育、福祉に使われると聞いた。

  今回の旅行はオーストリアにある世界遺産8つ(ノイジードラ湖一帯、ゼンメリング鉄道、グラーツ旧市内、ザルツブルグ旧市内、ハルシュタット・ザルツカンマーグート、ヴァッハウ渓谷、シェーンブルン宮殿と庭園群、ウィーン旧市内)全部を訪れたものであった。以下の日程のそれぞれについて、画像をご覧いただき各地の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。

2009年8月29日 出国、ウィーン
 成田を午前11時過ぎに出発してから11時間後、ウィーン空港到着。日本との時差は7時間。
 旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)にならぬため、何度か席を外れ屈伸運動をした。トイレに行くのもそのひとつ。場合によっては血栓が生じ「深部静脈血栓症」、その血栓が肺に詰まって「肺塞栓症」になるという。
 同時に、新型インフルエンザの心配もあった。成田空港でマスクをしている人はほとんどいなかったが、航空機内で咳をする人が近くにいたので念のためマスクを着用。乾燥した機内の空気から喉を守るためにも役立った。

ウィーンへの経路 [轍wadachiにより作成]

 ウィーンに到着したとき小雨が降り、肌寒かった。機内で2回食事を摂ったが、ホテルに着いたのは夕方で、現地では夕食時。疲れ果て、すぐにでも横になりたかったが、腹が減ったままにできず、ホテル近くのスーパーマーケットに出向いて腹に溜まらぬものを仕入れ、食事にかえた。スーパーの食物はひとつ々が大容量で、とても食べきれるものではない。ホテルは歴史地区から離れた位置にあり、雨天でもあり、夜の外出をする気になれなかった。時差の関係か、疲れている割には頭がさえて寝付けなかった。
2009年8月30日 ウィーン、アイゼンシュタット、ルスト、グラーツ
 オーストリアは日本より緯度が北にあるから涼しいと思うが、日差しがあると汗をかくほどだが、風に吹かれると寒気がする程度の気温が多かった。早朝、散歩に出かけた。快晴で空気が乾燥していた。道に沿って歩いていると、目の前に突然教会が現れたり、道路標識にハンガリー、チェコ、スロベニアを記すものがあったり、路面電車が行き交ったりで異国を実感した。いくらも歩かないうちにウィーン西駅の目の前に来ていた。
 はじめに訪れたアイゼンシュタットはウィーンから南東方向へ約50 km、人口1万余のオーストリア最東の州ブルゲンランド州の州都。エステルハージ家が治めていた。ハイドンはエステルハージー家に30年宮廷楽士として仕えていたことから、ハイドン年の記念行事としての「Phaenomen Haydn」は、エステルハージ宮殿、ハイドンハウス、フランツィスカーナ教会、州立博物館の4箇所で開かれている。エステルハージ家にある「Haydn Saal 」はハイドンの要請により音響効果に工夫を凝らされたという。天井の絵画は歴史を感じさせ見事なもの。エステルハージ宮殿は現在もエステルハージ家の所有という。
 ハイドンハウスに向かう路上に新聞の自動販売所があり、往年の名スキーヤーであるトニーザイラーが数日前に逝去したことを伝える記事が記されていた。新聞をコンイと引き替えに取り出す仕掛けだが、減ったと思われる新聞の量に対し、ほとんどコインは入ってなかった。日本でも野菜の販売所で同じようなことがあるが、オーストリアもご同様のようだ。
 続いて、ハイドンハウスに。入り口で少し大きめの荷物は持ち込み禁止に。リュックサックも持ち込み禁止だが、展示物の保護とテロによる爆発物の阻止にあるという。ハイドンについての展示物の中で印象的だったのは、「バリトン(Baryton)」であった。この弦楽器は、17世紀中ごろから南ドイツ・オーストリア地域で製作されるようになったという。ガンバと同じく6〜7本の弦があり、指板は幅が広く空洞で、その中を通る9〜10本の金属の弦を裏側から親指で触ったり爪弾くことができる。表側のガット弦を弓で弾いてメロディー、指板の裏側に張られた弦を親指で弾いて低音を重ねて演奏する楽器で、演奏は難しそうだ。

 世界遺産のノイジードラー湖は水深が2メートルにも満たない湖で、過去には何度も水位がゼロになったことがあったという。湖の上空に突然空を暗くするほどの数の野鳥が飛来した。海のないオーストリアではノイジードラー湖は水遊び、ヨットなどをするための貴重な水に接することのできる場所である。2001年に「フェルテー湖・ノイジードラー湖の文化的景観」として世界遺産に認定された。
 ノイジードラ湖に近いルストはコウノトリの営巣が知られている。9月始めにはもう見られないと思っていたが、幸いにして数羽のコウノトリの姿を見ることができた。コサギほどの大きさで、家々の屋根に営巣を助けるように工夫され、沢山の巣が見られた。

 グラーツに向かうため、ヴァイナーシュタット駅から特急列車に乗車。途中のグログニッツからゼンメリングミュルツシュラークまでが世界遺産のゼンメリング鉄道だが、特急などに乗らず、鈍行列車にのんびり乗車したかったところ。時間があれば、途中下車してトレッキングして二層のアーチ橋を眺めて見たかった。
 列車は景色をどんどん飛ばし、ゼンメリング駅はあっという間に遙か彼方に去っていった。指定席だったはずが先客がいた。ダブルブッキングでなく勝手に入り込んでいただけで、移動を促すと不満そうだった。乗車した座席の客車は冷房が故障しサウナ状態だった。乗務員に掛け合っても故障は直ることもなくひたすら我慢するのみ。やっとグラーツに到着。憧れのゼンメリング鉄道は、「こんなものか」でお終いだったが、何事も本物を見ることが肝心と思った。
2009年8月31日 グラーツ、ゴーザウ
 本日は世界遺産のグラーツ。グラーツの朝は肌寒かった。ホテルはグラーツ空港の近くにあり、平原の中の一軒家。バスで移動の後、王宮庭園から入った。いきなりリスが目の前に現れ驚かされた。オーストリア第二の都市グラーツは自然が残っているようだ。王宮、大聖堂、シュロスベルグ、ハウプト広場の順に徒歩で移動。訪日の経験はないものの日本語を堪能に話せる大学生がガイドしてくれた。彼は法律をグラーツ大学で学んでいるという。
 王宮には「二重螺旋階段」なるものがあった。階段が左右に分かれ珍しい構造である。壁面に落書きがあったが、幸いにして日本語はなかった。数年前にフィレンツェでの大学生による落書きが問題化したが、今回の旅行で見た落書きはここでだけだった。
 グラーツの街中の道路は広いとはいえない。路面電車が歩道すれすれに運行されていて、危険を感じた。シュロスベルグに行くには標高差があり、徒歩では時間がかかりそうなのでリフトで昇った。シュロスベルグは13世紀に建てられた時計台があり、ここからグラーツ市内が一望でき、市内の沢山の赤い屋根は迫ってくるようで圧巻である。眼下のムーア川が展望できるが、その近くに蛸の吸盤を沢山並べたようなクンストハウスは奇っ怪である。時計台は市内のどこからでも眺めることができ、グラーツの象徴ともいえそうだが、短針と長針が逆に取り付けられている。
 市内には天文学者ヨハネス・ケプラーが居住していたという建物があるが、現在はレストランになっている。午後宿泊地であるザルツカンマーグートのゴーザウに向かった。さすが湖水地域である。見事な自然の景色が見えてくる。ハルシュタット湖に移る景色は絶景である。途中、フォルダーラーゴーザウ湖に立ち寄った。澄んだ水面にボートが波紋を作っていた。遠くに白い山が見えたが氷河であった。近い山の白い部分は石灰岩のようだ。ゴーザウ川近くにあるホテルは、木造の古い民宿風の建物で、一工夫しないと部屋の鍵がうまく開かない、どこか懐かしさを感じさせる建物だった。南の丘の斜面には3つもの教会があった。今回の旅の中で、ここゴーザウの景色が一番印象的だった。
2009年9月1日 ゴーザウ、ハルシュタット、ザンクトヴォルフガング、ザルツブルグ
 昨夕のゴーザウの景色に魅せられ、朝焼けも見たいと思って夜明け前に起床。案の定、絶景が見られた。朝靄が時々刻々流れ、立木や山々に朝日がスポイトで落とすように赤さを垂らしていった。南面の白い山がだんだんと赤さを増やしていく様も忘れがたいものになった。
 本日は世界遺産のひとつであるケルト文明発祥地のハルシュタットからはじまった。ハル(Hall)はケルト語で塩を表すという。ここでは現在も岩塩が採掘されているという。カソリックとプロテスタントの教会が隣接している珍しいところである。ここにも立てられているペスト記念柱はウィーンにもあるが、ペストの猛威は各地で深刻な社会問題で、ペストから逃れるため、逃れたことを感謝するために立てられた建造物を散見することができる。避暑地として古くから利用されてきたことが容易に理解できる。ハルシュタットを含めこの地域一帯の景色、空気、彩りは見事だ。狭い道の脆そうな山側にへばり付くように家が点在しているが、日本のように地震があったり集中豪雨があれば甚大な被害が出そうな環境だが、地震による被害はないという。道沿いに「ハルシュタットの岩塩」と日本語で書かれた看板が付けられた店があった。日本人が頻繁に訪れるためだろうか。
 次にザンクトヴォルフガングに。ここで昼食を摂ったが、鱒料理が名物らしい。「白馬亭」が有名だと聞くが、同名のベナツキーによるオペレッタで知られるようになったいっても、そのオペレッタを知る人はどれほどいるのだろうか。教区教会内の絵画は一見に値する。ザンクトヴォルフガング湖畔で鳥に餌を撒いている紳士がいた。何という鳥かと聞くと「Spatz」だという。英語で「Sparrow」という鳥だと思うが、と問うと、「Spatz」だという。日本では「Suzume」と言うんだというと、Suzume、Suzumeと繰り返していた。この鳥は日本のスズメと同じではないが、よく似ていた。
 ザンクトボルフガング湖からシャーベルグ山頂までアプト式の登山列車で登った。山頂からの眺望は見事の一語。ヴォルフガング、トラウン、フッシュル、モント、アッター湖が見渡せる。遠くに氷河をつけた山も見えた。
 ゆったりした時間が流れた後、ザルツブルグjに向かった。ホテルから月夜に映し出されたホーエンザルツブルグ城を遠望することができた。
 (各頁の写真の内、色つき枠がついているものはクリックすると別枠で大きく表示します)
2009年9月2日 ザルツブルグ
 世界遺産ザルツブルグ旧市内では地元のガイドが何度も、ミラベル庭園をはじめとする「サウンドオブミュージック」の撮影地を紹介していた。モーツァルトの住居の隣にドップラー効果で知られるドップラーの生家、その近くのザルツァッハ川沿いに指揮者カラヤンの生家があった。沢山の花に飾られたミラベル庭園から見る景色は見事なものだった。旧市内を遠望したが、沢山のドーム、尖塔が見られた。
 マカルト橋(Makart-steg)から旧市内に入り、ゲトライデ通りを経てモーツァルト生家に。ザンクト・ペーター教会を経て大聖堂へ。大聖堂内には大勢の観光客がひっきりなしに出入りしていたが、ここでミサがあるときは荘厳な歌声が聴けるという。モーツァルトも産湯を使った洗礼盤に見入った。入り口の係員は片言の日本語で「コンチハ、アリガトウ」などと語りかけていた。
 昼食を摂るため、メンヒスブルグの丘にエレベーターで登った。市内を一望できる位置で景色を愛でながらの食事は至福の時だった。ザルツブルグ市内は徒歩で移動できるので便利である。途中、路面についたフィアカーの馬の糞の掃除をするためリヤカーで作業する人の姿を見たが、後続の車は掃除が終わるまでじっと待っていた。馬の洗い場に18世紀の壁画が野ざらしになって飾られているのは驚きだった。水飲み場の水の中にはコインが沢山投げ込まれていたが、日本でもよくある「願い事」を頼んでのことなのか。神を信じる地元民がこんな所で願い事を頼むとは思えない。コレギエン教会を経てレジデンツに入場。音声ガイドを聞きながら見学したが、たっぷり1時間は要した。外に出ると目の前に沢山のフィアカーが待機していた。モーツァルト広場に立つ、本人に余りにも似てないモーツァルト像の前で記念撮影。この像は彼の息子立ち会いのもと建立されているが、司祭コロレドに追われ、この地を離れたモーツァルトが見たらどう思うだろうか、などと思った。
 急ぎ足で歩くと汗ばみ、風に吹かれると寒さを感じながら、モーツァルト小橋を経てザルツァッハ川沿いを歩き、三位一体教会を経て一日を終えた。この日の朝、同行のひとりはザルツブルグ駅周辺で怪しい人物に言い寄られ、持っていた食物を奪われそうになって早々に退散してきたという。食べ物を所望してのことだったらしいが、この地でも生活に困窮している人が少なからずいることを知った。
2009年9月3日 メルク、デュルンシュテェイン、ウィーン
 メルクの語源はスラブ語の「ゆるやかな川」という。ドナウ川ヴァッハウ渓谷クルーズの基点だが、修道院に立ち寄る時間はなかったので外観を眺めた。ヴァッハウ渓谷も世界遺産である。デュルンシュタインまでのクルーズは快適であった。船上での案内は多国語で、ドイツ語、英語、中国語、フランス語、イタリア語の最後に日本語であった。利用者の多い順なのだろうか。川沿いの古城のいわれは、その端正な外観にそぐわず、牢獄であったことも含めおどろ々しいものだった。
 1時間半のクルーズの後の昼食はデュルンシュタイン船着き場近くの木立の中で、いい感じの場所だった。デュルンシュタインは中世の街並みが残された、城跡クェーンリンガー(Kueringerburg)が丘の上に見える落ち着いた街で葡萄畑が広がっている。
 ウィーンに到着したのは17時近かった。さっそく市内に繰り出したが、はじめに乗ったトラムが乗用車と衝突事故を起こし、しばらく閉じこめられた。市内を走る車はいずれもスピードをだし、バス、フィアカー、トラム、自転車が行き交うから、交通事故がいつ起こっても不思議ではない状態だった。とりあえずはケルントナー通りに入り、世界遺産の歴史地域の景色に見入ったが、市内はあちこちで工事が行われ、クレーンが沢山設置されていた。お目当てのシュテファン大聖堂も南塔に工事用の布がかけられ、がっかりだった。その布には南塔の姿が印刷されていて、前回の感激はまったくなかった。
 
2009年9月4日 ウィーン
 朝から生憎の雨降りで肌寒い一日の始まりだった。本日のガイドは日本に留学の経験があるという青年だった。彼の話では、住宅事情は日本と同じく厳しいらしい。3部屋ほどの集合住宅は月の家賃は5万円ほどだそうで、安そうに思えるが入居するための敷金は家賃の3倍、礼金は500〜600万円だという。日本と違うのは契約に年数の制限がないことだという。つまり、一度借りるとその権利は子、孫の代まで続くという。ただ、転居した場合は何も保証されない。アパートによっては100年以上前のものもあるそうだ。古い建物は5階建てでもエレベーターがなく大変という。
 シュテファン大聖堂、世界遺産のシェーンブルン宮殿の見学に向かった。シェーンブルン宮殿はハプスブルグ家の由来、豪華絢爛の構造物、調度に圧倒されつつ、宮廷で繰り広げられていた豊かな生活の中で、当時の下々の人びとの生活は如何ばかりだったのかと思った。グロリエッテまでの散策も灰色の空の下、雨の中で元気が出てこない。
 その後に昼食だった。メニューは名物「ウィーンシュニッツェル」だった。大きな皿からはみ出さんばかりの大きさは到底食べきれるものではない。肉は脂身のないパサパサしていてうまいとは思えなかった。ワインを飲みながらなら別かもしれない。たいていの食事は米のかわりにジャガイモがついてくる。主食がジャガイモらしい。旅行中の食事は大抵ソーセージをはじめ脂ぎったものがほとんどで、いくらもしない内に、無性にみそ汁、そば、うどんを食したくなる。狩猟民族と、農耕民族の違いなのだろうか。オーストリアでは男性もスイーツを沢山食べるという。それも到底食べ切れそうにない大きさのケーキ、チョコートなどを好むらしいが、昼間から飲むワイン、ビール、脂ぎった食事を合わせて考えれば、脂肪肝、高血圧、糖尿病になりかねない。

 午後は お目当ての美術史博物館へ。入り口の「ミノタウロスを殺すテセウス」、天井画に圧倒された。ブリューゲル、レンブラント、デューラー、ルーベンス、クリムトなど、どれほどあるか分からないほどの絵画を目の当たりにして感動しきりだった。そのなかで、ルーベンス作の「Himmelfahrt Mariae=マリア昇天」があった。マリアが天使に囲まれ昇天している姿は神々しい。ルーベンスの絵をフランダースの犬のネロ少年が愛犬パトラッシュとともに最後に見た絵も同じよう神々しさがあったのだろうか。また、ルーベンスの「Beweinung Christi durch Maria und Johannes=マリアとヨハネによるキリストの悲嘆」はキリストがマリアとヨハネに付き添われ苦悩している姿を描いている。この絵の前で食い入るように見入っている人がいた。ブリューゲルの絵は働く人びとを沢山描いており、庶民の喜びや大変さが伝わってくる。

 20時から楽友協会大ホール(黄金の間)でモーツアルトオーケストラコンサートの演奏会に。モーツアルト時代の衣装を身に纏っての演奏である。例年開かれるウィーンフィルによるニューイヤコンサートがここで開かれているのかと感心しきりだった。たしかに名の通り黄金色の煌びやかなホールである。演目はモーツァルトのオペラのアリア、交響曲35.40番、アイネクライネ、ハイドンの天地創造、交響曲「驚愕」、最後にシュトラウスの青きドナウとラデッキー行進曲であった。前回の訪墺でのミラベル宮殿、シェーンブルンオランジェリーと合わせて3回目のコンサートだったが、きょうのコンサートの演奏が一番よかった。ただ、観光客相手のコンサートといえど、観客のマナーの悪さはひどいものだった。演奏中にストロボを演奏者の目前でたいて撮影している人が多数いた。熱演中に「ビカッ」とストロボをたかれては堪らない。非常識も甚だしい。また、シンフォニーの楽章毎に拍手したり、女性のアリアが終わって大声で「Brabo」と叫ぶのはどんなものか。日本ではあまり気にしないのだろうが、男性に対して「Brabo」で女性には「Braba」,複数に対しては「Brabi」だそうである。ただ、演奏者はいちいち気にしていたらやっていられないのかもしれない。
 すっかりいい気持ちになって外に出ると、ゼセッションの金色の屋根が照明の中で怪しく光っていた。

2009年9月5日 ウィーン
 旅行も8日目になると疲れが溜まってくる。本日はあちこちに行かず、じっくりと時間をかけた見学をしたいと考えて行動開始。午前中はベルベデーレ宮殿。クリムトの絵画が多数展示されていることを楽しみに出かけた。トラムは2番線からD線に乗り換え。クリムトは世紀末の生活様式ユーゲントスティルを代表する画家で日本絵画から影響を受けたという。確かに金箔を貼った絵画は日本画で見られる手法に似ている。よく知られる「Der Kuss=接吻」の前に立って、「なるほど、これが本物か」と感嘆しきりだった。Kussが男性名詞なのは面白い。未完成の作品だけを集めた部屋があり、描きかけの絵がどのようなものかを知る珍しい機会だった。エゴンシーレの絵も沢山あったが、グロテスクな描写を見てますます嫌いになった。ロダンの彫刻を集めた部屋からベルベデーレ下宮と庭園が一望できるが、館内は一切撮影禁止で残念。
 ベルベデーレ宮殿でゆっくりしすぎた。さっさと昼食を済ませ、カール教会を訪れた。近くにあるブラームス像を見たが、いかにも怖そうな風体であった。すぐ近くにO.ワーグナーによるカールスプラッツ駅があった。近くに日本でもよく見る白い花のガウラが沢山咲き、風に揺られていた。
 オペラ座の前を通るとFaustの練習を見られるツアーを待つ人の列があった。1時間半も前から並んでいるらしい。本日の最後は王宮であった。アルベルティーナでデューラーの「野兎」をじっくり鑑賞。一本々の線を精細に描いた秀作である。ルノアールの他は特別な印象なし。王宮庭園でのんびり憩う人がいた。石だらけの街中だからこそこうした緑が必要なのだろう。モーツァルト像に再会。
 その後に新王宮の民族学博物館へ。建物の前でオートショーが開かれていて、ごった返していた。色とりどりのクラシックカーが行進。車好きには堪らないものだろう。民族学博物館では「Wir sind Maske」として各国のお面の展示、「日本特別展」として「Made in Japan」、「Japanese Rooms」があり、日本の脱穀機、だるま、伎楽の面など日本でも珍しいものや日墺の歴史的関係が展示され、明治天皇の姿を描いた絵があった。あの絵は教科書で見た覚えがあった。
 ホテルまでの帰途、トラムに乗る前に乗車券売り場が見あたらず、車内で購入すればいい、と思って乗り込んだが、どこにも見あたらない。コインを握りしめながら、検札にあったら70ユーロ請求されると聞いていたので困り果て、目の前の女性に聞くと、とにかく降りろと、一緒に下車してくれた。観光ガイドらしきこの人は親切にも地下道の切符売り場まで付き合ってくれた。礼をいって慌ただしく別れ、再びトラムに乗車したものの今度は、検印器に切符を入れても、故障していると表示が出てきて慌てた。近くにいた老婦人が次の車両のものを使えと教えてくれ、急いで移動し無事「ガチャン」と検印。先ほどの老婦人に再び会うと「よかったね」とウィンクされた。親切を二回受けて嬉しい気分だった。こんなことなら一日券を買っとけばよかったと思ったが、何事も経験である。

2009年9月6日 ウィーン出国、7日 帰国
 ウィーン空港まではあっという間だった。出国方法が変わったと聞いていたが、入力してもしばらく反応しない機械で、入力を途中で間違えると、はじめから全てやり直し。手荷物についての質問に答えるのが遅くなると忽ち初期画面にもどって失敗。こんな不便なものは人件費削減のために使い始めたのだろうが、困ったものだ。結局、カウンターに直接出向き「Narita bitte !」で一件落着。はじめからこうすればよかったのに。空港内で最後のエスプレッソを堪能。出国審査の後、狭さの気になる直行便に搭乗。日本人が空港に多いのにびっくり。
 14時に離陸した機内で翌朝8時半までに食事が3回出された。真夜中の3時にはカップラーメンが出されたがご免被った。隣の席の青年は大学生らしいグループの一員らしかったが、ずっとアルコールを飲み続け、酒臭いことこの上なし。トイレに行くため促すと、「オー。ドウゾ、ドウゾ」などと愛想はよかった。彼らのグループは成田で楽器を持っていたので音楽団員の一員だったらしい。定刻より早く成田に到着。湿っぽさが気になる。旅行中の日本は夏日あり、10月の陽気の日ありだったと聞いた。

 今回の旅行での感想をいくつか。何も考えずに出かけるのも旅の楽しさなのだろうが、事前の周到な準備のないところに印象的な旅行は望めそうにない。帰国してから事前に分かっていたら、出向くことができたのに、と思ったところもあった。飲料用の日本茶、麦茶は大正解だった。話せなくても困らないとしても、現地の人との会話を円滑にできるよう語学の研鑽が必要と感じたことは前回と同じである。
 旅は非日常的な経験である。日本で経験できない、ゴーザウの朝の景色、ザルツブルグのメンヒスブルグの俯瞰の景色は当分忘れることはないだろう。自分の中に新しい何かを作り始めたかったら旅に出るといい。理屈ではなく、自分が感じる何かを発見することができそうである。「本物に出会う」ことが大事なことをこの旅行で再認識したが、はじめて見る本物が一番新鮮であることもまた発見した。