日々の抄

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 北京五輪は終わった

2008年08月26日(火)

 北京五輪が終わった。オリンピックはかつてアマチュアスポーツの祭典だったが今は違う。午前中に水泳競技が行われたり、夜間に球技が行われたりと、大国にゴールデンアワーに時間帯を合わせるため、選手に無理と思える時間帯が商業主義に従って実施された。今回の北京五輪は、オリンピックとはいったい何だろうかと考えさせられることが多かった。いくつかの感想を書いておきたい。

日本選手の活躍について
 事前にあまり期待されてなかった競技ほど、メダル獲得は感激的であった。フェンシングしかり陸上400メートルリレーしかりである。逆に「金メダル以外いらない」と言わんばかりの勢いで始まった試合結果が期待を裏切られると、「大言壮語」が空しく感じられる。柔道しかり野球しかりである。素人目にもJUDOはJUDOであって柔道でなく、ルールが違うことは明白。正にJacket Wrestlingであり、柔道のつもりで勝負して敗戦した選手は少なくなかったようだ。JUDOであっても、「指導」だの「効果」などやめて、勝負は「一本」または「技あり」だけできまるようにできないものか。審判の「感じ」だけで勝敗が決められてはたまらない。

 また野球は、明らかに疲れが見えて不調の投手をなぜ交代させなかったのか、なぜ何回も落球を繰り返している外野手を使い続けているのか、大いに疑問といらだちを感じながら観戦した。負けても仕方がない重苦しい雰囲気での試合が多かった。敗戦の将が「結果を批判している人は時間の止まっている人だ」などと語っているのは苦し紛れなのか。理解に苦しむ。前評判の高かった天才テニスプレーヤはあっという間に姿を消したらしい。

 そんな中で水泳、ソフトボールは出色だった。ただ、水泳で前回金メダルだった女子選手が予選敗退していることを見ると、水着の影響はなかったのか、期待に潰されたのかなどと考えさせられる。ソフトボールで上野投手のめざましい活躍が悲願の金メダル獲得に結びついたのは間違いなさそうだが、他の試合で投げた投手や確実な守りが勝利につながったことも間違いない。上野選手だけで金メダル獲得したかのようなマスコミの報道は如何なものだろう。

 8個を予想していた金メダルが9個になり、それなりのメダル数だったのではないか。元首クラスの最高指導者がそろっている中の開会式で、自国の選手の入場を、立って手を振らなかった数少ない福田首相が日本選手団を激励するため選手村を訪問したときに「せいぜい頑張ってください」と励ましたそうだが、獲得したメダルの数は「せいぜい頑張った」結果だったのではないか。

 金メダル9個の内、7個が前回アトランタ五輪と重なっているそうなので、世代交代を考えるべき時期にきているようだ。残念だったのは、マラソンである。直前の故障で男女とも棄権者が出た。補欠は出しにくいそうだが、勝負しなければ勝つはずはない。また、7月から一度も練習してない選手が途中棄権したことは少なからず疑問符がつく。事前に全員が最善の状態で望めなかったことは大きな課題を残したのではないか。

見え透いた「やらせ」について
 開会式での「足跡型の花火がCGだった」「かわいい少女の歌が口パクだった」「少数民族の子供の大半が漢民族だった」ことは驚かされた。
 「足跡型の花火がCG」は視聴していたという全世界の30億人以上を欺いたことになり、大会運営ひいては中国の信義さえ疑われかねないことを、なぜ嘘を突き通さなかったのか不思議でならない。そうでなかったら「偽装」はすべきでなかったのではないか。約1年の時間をかけて制作したというから用意周到としか言いようがない。
 
また「かわいい少女の歌が口パクだった」は、実際に歌った少女の心を深く傷つけている。歌った本人の歌声だったことに最後まで触れなかったことに少女は落胆して就寝した翌朝、少女は歯形が残るほど強く腕をかんでいたことが判明したという。マスコミの攻勢などから身を隠さなければならない理由も分からず自宅から「遠いところ」に移され、担任教師は「これ以上、少女を傷つけないで」と訴えているという。なぜ、口パクが必要であったかの理由が驚きであった。音楽総監督は、「(歌った少女が)表舞台に出なかったのは、国家利益という観点から考慮した場合、彼女の容姿が思わしくなかったためである」「私たちはこの演出に関し、国内の観衆に説明義務があると思うが、国家利益に関わることでもあり、国旗が入場するという非常に厳粛な場面であったことを踏まえると、国民は理解してくれるのではないかと思う」と語っている。口パクした少女は国益を利する可愛さだったが、実際に歌った少女の可愛さは『国益を損なう』ということなのか。実際はそんなことはなく可愛い少女である。音楽監督の趣味に合わなかっただけで、とんでもない人権侵害の発言である。少女は歌が上手だったが為に、深く傷つけられたのである。中国は個人の尊厳を侵害しても国家の利益が優先しても構わないという国なのか。信じがたい。
 また、うたわれた歌は、革命歌曲「歌唱祖国」というものだそうで、もともとは毛沢東をたたえるために新中国誕生後につくられた歌だという。歌詞は省略され、毛沢東の名も出てこなかったが、このような個人崇拝の革命歌曲が五輪開会式にはふさわしいとは思えない。

 「少数民族の子供の大半が漢民族だった」は、「中国の56民族からの56人」のアナウンスがあったとき、「チベット、新疆ウイグルなどの民族問題に配慮したのか」と思ったのはとんでもない思い違いだった。実は殆どが民族衣装を着ただけの漢民族の子供だったことが分かった。組織委の副会長は「イベントではよくあること。演出の必要性から他の少数民族の衣装を着て友情や喜びを表現するのは中国の伝統だ」と語っている。これが中国流なのか。何をか言わんである。包装だけ立派な偽物ではないか。

 総合演出を手がけた張芸謀監督は「今回の開幕式をひと言で表すとロマン」と説明。書画、詩、音楽などロマンは中国人の血の中にとけ込んでいるとし、「世界の人に中国のロマンを感じる演出を心がけた」というが、世界中を欺き、罪なき少女の心を傷つけておきながら、「ロマン」が聞いて呆れる。人権意識が希薄である。

応援について
 競技が開始してから、ハンドボールやホッケー、ボクシングなどの、中国が登場しない競技場に黄色いTシャツの中国人応援団が動員されており、組織委が提唱する「正しい応援マナー」通りの行動をとり、義務を果たすとさっと引き上げる不自然があったという。中国の応援席には反日的な様子が多かったようだ。スタンドの数少ない日本人が、なでしこジャパンに声援を送ると、周囲の中国人からブーイングの声が上がったこともそのひとつだ。自国に声援を送る日本人にさえブーイングをしていることは気が知れない。だが、なでしこジャパンはどの対戦でも試合終了後、頭を深々と垂れ、スポーツマンシップそのものの清々しい姿を見ることができ嬉しかった。そうした姿に中国人観客はどれほど感じてくれただろうか。

 テニス女子シングルス準決勝で、ロシア対中国で、「中国加油(ジャーヨー=頑張れ)」の大声援が続き、審判が静かにするよう何度も注意していたにも関わらずおさまらなかったという。これに対し、対戦した中国選手が試合後、観客席に向かって「Shut up(黙れ)」と叫んだという。これに対し、ネット掲示板で「観客に失礼。彼女の試合を見るのはやめよう」などの激しいバッシングが始まったという。失礼なのはどちらなのか。観客は「応援してやったのに何事か」と思ったのだろう。試合中のマナーを知らない人たちの勝手な愛国的応援にしか過ぎない。そういう中国人は、身びいきで「贔屓の引き倒し」をしたあげく、気に染まぬことがあると、手のひら替えしに激しいバッシングをするらしい。「きのうの友は明日の敵」である。まるで「起きあがりこぼうし」のようで、その振幅の大きさには脅かされる。

 陸上百十メートル障害で体の故障で棄権した劉翔選手に対する想像を絶する罵倒は現在の中国人気質の表れらしい。「この脱走兵め」「意気地なし」「13億人を傷つけた。新記録だ」など日本では考えにくい。劉翔選手の昨年の年収が推定6000万〜7000万元(約9億6000万〜11億2000万円)という。「成功者には天まで持ち上げ、失敗するとさんざん踏みつけにして地獄に突き落とす」という流儀らしい。成功者への羨望とやっかみが同居している結果なのか。日本のマラソンランナーが途中棄権しても、彼女に「この脱走兵め」などと言う者はいないだろう。むしろ「お疲れさん。大変だったろう、悔しかっただろう」と同情的な声が聞こえた。いったい何が違うのだろうか。

表現の自由、人権問題などについて
 五輪を前にして、北京市の女性2人が当局にデモを申請したところ、1年間の「労働矯正」を命じられた。北京五輪期間中、「公認デモ実施地」3カ所が指定されたが、デモが許されず申請することが弾圧の端緒となるケースもあったという。デモ行為は五輪開催中一度もなかった。申請しても、すべて却下されているのだから当然である。
チベット問題はその後どうなったのか。体制に不都合な者、不都合な事はすべて「権力」で解決しているらしいことは五輪中も感じることができた。力を力で制したのでは何の問題解決にならないことは歴史が教えているのではないか。治安確保のためとはいえ、北京のタクシーすべてにモニターを取り付けたり、数限りない監視カメラが取り付けられたという。テロ対策に必要と考えてのことだろうが、正常なことでないことは確かである。

 閉幕式は開幕式と同様に、「これでもか、これでもか」と繰り返され、盛りだくさん過ぎた。仕方なく招かれた結婚披露宴が延々と続けられ、辟易としてくるのに似た苛立ちを覚えた。やりすぎである。おいしい食べ物も並べる数が多すぎると食痛になることに酷似している。

 開幕式でも感じられたのは、実に見事なマスゲームである。一糸乱れぬ様は見事なのだろうが、動きだけでなく、心の中まで統制が「指導者」によってされていないかなどと、マスゲームを見ながら考えさせられた。全体が同じ方向を向いている場合、少しで違う動きがあると目立つものである。全体の動きを乱さない範囲で「個」を最大限認めつつ、全体が「個」生かす方向に進む。そんな社会であって欲しい。動きの違う人間をつまみ出すのは簡単なことである。だが、違う動きを認めることが寛容で豊かな社会である。そんなことも統制のとれたマスゲームから考えさせられた。

 北京五輪のスローガンは「同一個世界 同一個夢想」(1つの世界 1つの夢)だったそうである。北京五輪の残した中国の姿を考えると、現状では彼らと同じ夢を見るわけに行かない国民性の違いを感じざるを得ない。だが、中国が北京五輪を「成功裡」に終了できたことで、自国の何が今後必要なのかを学び取っているはずである。五輪直前に「道路に唾をはかない」「乗り物の乗降は順番にならんで」などとキャンペーンしなければならなかったが、世界に通じる「マナー」「寛容さ」「自らの誤りを認めること」「個人の尊厳の尊重」を体現してほしいものだ。

 中国は五輪招致の際、「表現の自由の拡大」や「人権問題の改善」を約束した。五輪を通して見た範囲では、これらが目に見える形でいい方向に向かっているとは思えない。人権問題、民族紛争、環境問題など、山積する問題に中国が今後どのように対応しているか世界が注目していることを意識していかなければなるまい。五輪後に何かが変わらなければ、北京五輪はただの村の運動会だったと歴史に刻まれるだろう。

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