ピアノトリオNo39


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ピアノトリオNo.39
<亡き父に捧ぐ>

1980年9月16日


(戦後まもなくから前橋市で活動していたアマチュア音楽家の記録の一断面)
親しくしていた音楽仲間とその家族が訪れたのは、父の葬儀の2日後、残暑の厳しい日であった。

昭和55年9月16日M さん来宅。

「この前、病院に伺ったときはお元気でして、まさかこんなに急に亡くなられるなどとは思ってもみませんで・・・」
遺影をじっと見つめてから線香をあげる後ろ姿は、品のいい老楽士である。線香の煙がまっすぐに上がった先の故人をしばらく見据えて押し黙ったままであった。

「私たちは、お父さんが前橋に来られる前から−−そう、昭和13、4年頃からTさん、Kさん、TNさんたちとクワルテットをやっていたんです。狭い部屋で夜遅くまで楽しんでいたんですね。私は若い頃から煙草はやらなかったのですが、皆さんは曲の合間には必ずプカプカやり、部屋は煙だらけなんです。堪らなかったですが、音楽が好きだったので気にもしないで続けていました。当時は、ヴァイオリンをやるのはハイカラだったんですね。私は音楽の一番の楽しみの基は室内楽、それもクワルテットと思うんですよ。」

「父は、確か前橋に疎開してから昭和23、4年に室内楽団に入れてもらったと言ってました。夜遅くなって帰宅の途中、巡査の不審尋問を何回か受けたなんて言ってたのを覚えています。皆さん音楽が本当に好きだったんですね。父は脇にチェロを抱え−音楽家を志し、昭和10年頃から弾いていたストラデバリウス型というドイツ製の楽器でした。−うす暗いライト−これもクラシックなもので懐中電灯を取り外したものを金具につけて手で揺らしながらボロ自転車につけて夜間徘徊していたんですね。前橋公園あたりで、巡査に”その持っているものは何か”、と尋問されたそうです」
「私も帰宅するとき、夜も更けて2時3時になることも屡々あって、−帰りを急いでいると後ろから人が追ってくる。”コラー待て!”と、言われたのでおお急ぎで家に向かうと、ついにカチャ、カチャという音が近づいてきて、”なぜ、お前は逃げるか!”とやられた。巡査は当時サーベルを腰に付けていたんですね。”逃げたわけではありません。家に帰るところなんです”。”逃げる者は賊であるから追ったんだ。その箱の中身はなんじゃ?”。”ヴァイオリンです”。”中身を見せい”という具合でした」

「室内楽団の練習はKさん宅の自転車置き場だったんです。弦楽が中心で、管楽器も加わって20名位でしたか。お父さんはあまり口数は多くなく黙々と音楽を楽しんでおられたようです。私の知り合いの人は皆さん年長者ばかりで、TNさんお父さんはいいとして、私のオヤジくらいの年齢の方ばかりでした。お父さんは70何歳でしたか」
「76歳でした」
「TNさんもお父さんより2、3歳下くらいでしたね。」

「あちこちの演奏会に出ましたね。沼田にも何回か出向いて。あちらは青年会の方が熱心で、たしかNさんという方がおられて。青年会の方々が駅まで迎えに来られ、活動に熱心な方ばかりで感激しました。」
「沼田は父の実家も近く詳しかったし、思い出深い所でした。群馬会館に何度も演奏会を聞きに行ったことを覚えています。」
「当時の人たちは、本当に音楽が好きで、発表したりコンサートをやることが目的ではなかったんですね。」
「最近もTNさんが亡くなられる前、父はM さん宅でのアンサンブルが楽しみだったようです。TNさん、父を毎回迎えに来ていただいていたようでした。」
「私にとって自分が楽しむためで迎えに行くことなど迷惑なことではなかったんです。贅沢な楽しみでした。」
「昔の宮廷音楽のターフェルムジークのように、楽士に演奏させ雅な人たちが、それを聞きながら食事をしたのでなく、音楽というものは演奏している人が楽しまなくてはならないと思うんです。そういう意味でもクワルテットは一番素朴な楽しみ方だと思えるんですよ。」
「父にとって弦楽の楽しみの最後は、M さん宅の集まりでした。TNさんが亡くなられて、それもできなくなって残念そうでした。」

「前にも言ったとおり、室内楽団の人たちと今の若い人たちとは音楽の楽しみ方が違うと思うんです。桐生のローカル新聞(桐生新報)に、最近”昭和の初めに、自分は弦楽をやっていた”という記事が載っていました。その方の話を伺うと−えー、名刺を持っているんです」名刺の束を上着のポケットから抜き出し、桐生織物組合の役員の名刺を取り出した。
  「音楽は他人のためでなく、自分たち、弾く者のためにあるのだ、今は他人に聞かせる風潮が強くなりすぎているので、わざわざ無理をしてそのような記事を載せたんだと書いてました。私も同感なんです。私がM フィルを抜けたのも、その辺の理由からです。次回の演奏会は ヴェートーベンだ、ハイドンだ。だからいついつまでに仕上げなくてはならない、としている。これでは、音楽を楽しむのでなく一種の義務になってしまいます。学問には○○学と学ぶの字がつくが、音楽は学でなく”楽”とあるとおり、楽しまなければならないと思うんです。私のような老人が口出しをしていかなければならんと思うんですよ。その辺の誤解を・・・・」
「父も根からの音楽好きで、子守歌代わりにレコードを竹籠に入れられて育てられたそうです。室内楽団にしても、アンサンブルにしても、M フィルにしても理由や目的に関係なく、ただ音楽が出来ればよかった。
  音楽家になろうと決心して昭和14、5年頃、読売新人演奏会に出て、宮内庁の洋楽部に入る直前に、時悪く戦火の中、音楽をやるなどとんでもないご時世になってしまって、プロ入りは断念せざるを得なかった。その辺の口惜しさ、ただ音楽をやりたかったという気持ちが亡くなるまで続いていたんだと思うんです。だから、M フィルにも体が自由に動けた昨年の10月まで毎週水曜日を楽しみにしていました」。
「今はもう室内楽団当時の人たちはM フィルにはいないんですね。残念ですが・・・・」

「父はそうしたことが原因がどうかわからないのですが、私が高校の時、先生におだてられて音楽の道を進みたいなんて言いましたら、ムキになって”音楽はプロになってはいけない。アマチュアで楽しむのが本当だ。本当に好きなことを職業にしてはいけない”と言っていました。」
「日本で最近はだいぶ事情が変わっているようですが、私が小学生の頃は、音楽の女の先生は、冷やかしの対象になっていた。クラシックなんて女子供のやることだ、面白くないものだ。などと言われ、馴染みは薄かったんですね。今でもクラシックというと少し抵抗感があるではないでしょうか。私はバロックが好きだ、などと言いにくい場面もあるように思うんです。町内の集まりがあるときに八百屋のおじさんがヴァイオリン、魚屋のおじさんがチェロを持ち寄って合奏ができるなんて、考えただけで楽しくなってくると思うんです。そうした風土は音楽を好む人たちの責任で作らなければいけないと思うんです。」

「全くその通りだと思うね。私は戦争中ビルマで捕虜になってしまった。日本の配下にいたオランダ軍の捕虜です。彼らの生活を見ていると、バラライカに似た楽器が一つあった。一人が歌い出すといつの間にかハモる。ハモって音楽になってくるんです。あれには驚かされたし、これが本当の音楽なんだと思いましたね。私もオランダさんに言われて、その楽器を改造してヴァイオリンを作りました。少ない道具でヴァイオリンを作るのは難しかったが、なんとかできた。その手製のヴァイオリンで弾かされました・・・・。風土が違うんですね。」
「室内楽団の人たちの灯が一つずつ消えていくのは寂しいことですね。父の遺言ですが、もし可能なら室内楽団二世の楽団ができたらと思うんです。素晴らしいことです。父はそのことを随分言ってました。そのときは私も拙いながらフルートをもって馳せ参じたいと思っているんです。」

「私ももう少し頑張りたいと思っているんです。ところで、Tさん、TN夫人にはお知らせしましたので、明日には伺うと思います。そう言ってましたから。きょうの葬儀に出られなかったのは、実は仲間のKさんが大分お悪いんです。お父さんのことをKさんにお知らせしようと思って伺ったら心臓を病んでおられるという。私も心臓を患ったことがあるのでわかるのですが、あれはただの病気ではないですね。そんなわけでKさんは伺えないのですよ。」
「私も数年前に心筋梗塞でN 病院に入院しました。身動きしてはいけないんです。天井を見たままで、食事から何からみなやるんです。四ヶ月間もです。あれは苦痛です。お父さんもベッドから出られなかったそうですから、さぞかし辛かったことでしょうね。あれは病んだ人でないとわからないでしょう。私は医師が毎日聴診器で心音を聞いて調べるだけで、ほかは薬を飲むだけで処置はない。焦りました。4ヶ月も経って、こんな事では、と思っていたとき、あることで看護婦と激しくやり合って退院してしまった。その後知り合いの医師に頼んで群大に入れていただいたんです。医者の縄張りかなんかでなかなか病院を動けないが、喧嘩をした人だから仕方なしです。スクラッチで運ばれて個室入りです。そのときは随分悪いと知りました。個室というのは、もう危ない人たちが入るところだそうで。相当なショックでした。その後、東京女子医大で手術を受けてなんとか今のように社会復帰でき、音楽を楽しむことができるようになりました。ありがたいことです。」

「私の娘も父と同じ病院に入院していて8ヶ月。少しもよくなったと言ってもらえない。ステロイドを飲まされ、満月症にもなりました。私は娘を見ていて、はじめから、これは病気ではないな、と直感していました。病気らしさがない。自覚症状がないんです。ただ、心電図に異常ありと言われるだけ。人の心臓の位置が非常に希にではあるが同じ場所にあるとは限らないのと同じく、心電図だって先天的に他の人と違うのがあっても不思議ではないはずだと思っていたんです。伝(つて)を頼って東京女子医大で看てもらったら、ドクターは”お父さんの言う通りかもしれない”と言うんですね。2週間の検査で、病気ではなく先天的に心電図の形が違う、と言われて無事退院。心臓カテーテル検査でした。検査前に「検査に失敗しても責任を問わない」という念書を書かされた。今では運動も普段の生活も全くふつうの子供と同じです。病人が出たとき、病人を治すのは、医師でなく本人と家族なんだと思いました。」
「そういえば、私の知り合いで、骨髄の病気でK 病院に入院して−そう、骨髄液を背中からとったりしていましたから、もしかしたらお父さんと同じ病気かもしれませんね。今は全快して元気にやってますよ。もしかして病院を変えたりしたら長生きできたかもしれませんね。」

「一時は、それも考えましたが、年齢も考え、自宅にも近いし。今となってはどうしようもないと思っています。最期は眠るように苦しむことなく、安らかだった。ただ、それだけが残された家族としては慰めと思っています。」
「父は最期まで音を求めていたんです。正月になったら、家族でアンサンブルをやろうと言って、ハイドンのピアノトリオの楽譜を手に入れ、よく見ていたようです。それも叶わず残念だったと思うんですが・・・・葬儀の最期にはその曲をずっと流しました。モーツァルトのレクイエムや父の思い出の曲であるヴェートーベンのピアノトリオ”街の歌”も考えたのですが、私にとっても忘れ得ぬ曲になると思ってそうしました。」
「いかにも、お父さんらしい最期だったんですね・・・・」

「これからKさんを見舞います。どうか心落としのないように、お母さんを励ましてやってください。」

奥の部屋の仏壇にはもう線香は消え、灯明のあかりの中にゆらゆらと煙がたなびいていた。もう夜の気配が漂っていた。この部屋で父と枕を並べ、楽しく語らった日々はもう過去のことであった。仏壇の前のチェロを奏でていた在りし日の元気な父の姿の写真は、薄暗くなった部屋の光の中で鮮やかであった。

背をピンと伸ばした、父と楽しみをともにした老楽士は丁寧な挨拶をし、狭い庭をゆっくり後にしていった。



9月17日午前。T氏夫人、TN氏夫人来宅。

「昨日、M さんからお話を伺って驚いてしまったのです。以前からお悪かったそうで・・・・。ずいぶん急だったんですね・・・」「T(夫)は昭和13、4年頃からクヮルテットをKさん、TNさん、TOさん、M さんなどとやっておりました。よき時代で、皆さんハイカラだったんですね。主人がお父さんと同じチェロ、TNさんM さんがヴァイオリン、Kさんがヴィオラだったんですね。室内楽団は昭和24、5年頃からだったんですね。Kさん宅の書斎が練習場で、夜遅くまでやっていたんです。本当に音楽が好きな方達ばかりで・・・。中央駅前の交番の近くで巡査に追いかけられたこともあったとかで。夜遅くヴァイオリンを小脇に抱えて、下駄履きでおったんですね。家路を急いでいると追いかけてくる人がいるというのでもっと急ぐと、カチャカチャとサーベルの音を鳴らしながらお巡りさんが追ってくるんのです。不審尋問を受けて、やっと開放されたそうですよ。」

「TNやTさんM さんらが、はじめは群響におったんです。プロでなくアマチュアとして。ところが、音楽だけ、それも定期演奏だけでは生活していけない。群響が学校まわりを始めたのはプロになる以前だったのかしらね?学校まわりをしたらというのも、前橋の人たちの考え出したことだったそうですよ。そう・・・。ヴァイオリンが子供で、ヴィオラがお兄さん、チェロがお父さん、コントラバスがおじいさんなどというのも、懐かしいことですね。」
「父は昭和24、5年頃室内楽団の仲間入りさせてもらって、今から考えれば、音楽を一番楽しんでいた頃だったんですね。」
「父も群響のここに泉ありの映画では姿は見せなかったんですが、音だけを録音しに行くとかで、激しい雨の夜、ずいぶん遅く帰宅してきたことがありました。」
「室内楽団の人たちは本当に音楽が好きで、プロの腕はあっても、音楽を職業として考えていなかったんですね。そんなことで、みなさんアマチュアに徹して群響から引きなさったのですね。」
「当時活躍していた人たちは、年をとられてだんだん亡くなられいますね。私の覚えのあるのは、Kさん、S先生、Y先生、Aさん、Tちゃん、T夫さん、MさんそれにAMさん、TO先生、TN先生、お父さんそれとTです。若手ではTKさん兄弟でN、M さん、Aさん。真さんなどが一番若手で頑張っていたんですね。」
「皆さんの名前に覚えがありますね。MUさんご兄弟はオーボエにファゴット、それに草津におられたO先生にも覚えがあります。」
「MUさんの辰っちゃんは背が高く、私どもの子供に、”兄ちゃんは天井まで手が届くぞ”などと言って、子供たちは辰兄ちゃんは家の塀をまたいで入ってきた、なんて喜んでいたんですよ。」
「S先生にはには、小学5年生頃にヴァイオリンを習っていました。当時、鈴木ヴァイオリン英才教育なんてのが流行っていて、全国的にヴァイオリン熱が盛んだった頃ですね。私はうまくなれずクビになってしまったんです。はじめて伺ったときにごちそうになった紅茶がうまかったことが印象的でした。」
「S先生のところの子供さんは、お小さい時から音楽をやってましたが、今は公衆衛生の方の専門家になられたそうですね。」
「Y先生のお宅に昨日なんども電話したんですが、お留守らしくて連絡取れなかったんです。残念ですが。」
 (Y先生の病院に作家の伊藤信吉氏が何回も通院していたことをその後知った)
「M さんに伺いましたが、Kさんがお悪いそうですね。」
「5、6日前から病まれて、入院なさっているそうで、ここ2、3日が峠だそうです。心筋梗塞だそうです。子供さんが日吉町で外科を開業なさって、そこに入院されているそうですよ。」
「室内楽団当時、お父さんは物静かでじっと音楽を楽しんでらっしゃったそうですね。コントラバスもおやりになっていたそうで、他の人に気を遣って、自分からはああだ、こうだとは殆ど言われることはなかったそうですね。」
「沼田にも何回か行ったそうです。室内楽団で。お父さんは、えらく沼田に詳しいなんてTが言ってましたが・・・」
「沼田は疎開先でもあり、生家がすぐ近くの久屋ですから詳しかったんです。」
「そうなんですか。どうも詳しいはずです。それでわかりました。」
「室内楽団の当時の楽譜は現在のM フィルに、本は前橋南高に預けてあるんですよ。」
「G郎ちゃん。Gちゃんがいますね。音楽の先生で。
私どもの叔母の家に下宿していて、たしか新所帯もそこで始まったと思いますよ。」

「数年前に中之条にお父さん、私、M さん、T夫さんで出かけたんですね・・・・あれが最後になってしまったんですね。」
「うちにそのときの写真があります。皆さんよく写っていて、嬉しそうにしてましたね。」
「せめてKさんが早くよくなられるといいですね。よき時代の素朴に音楽を好んだ前橋の人たちの灯が一つまた一つと消えていくのは本当に寂しいことですね。」

T夫人・・・品のよい老婦人。元小学校教員で昭和20年頃前橋市立桃井小学校に奉職、戦地の父の意志によって退職。レースの襟がついた青地のワンピースが清潔そうで、いかにも生気に満ちている。金縁のめがねの奥の眼は年齢には珍しいほど若々しく見える。インテリジェンスの滲んでくるモガである。
TN夫人−丸顔で、夫の亡くなった後、令嬢とつつましく家庭に収まっている老婦人である。控えめな態度は終始変えることはない。口はT夫人ほど多くなく、淡々と一つ一つ確かめるように語る。

突然庭先の杏の幹で蝉が鳴き出した。
「ことしは、まだお暑くて・・・・蝉などお珍しいことですね・・」

(戦後間もなくからのアマチュア音楽家の活動を記憶している人々はほとんど他界している。前橋にこうした活動があったことを少しでも残しておこうと考えての記録である)



昭和24年12月4日の演奏会のパンフレット




昭和27年5月18日の演奏会のパンフレット

           

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