わが青春の抄


目次  戻る  進む


わが青春の抄
1979/11/22

1 幼き頃の思い出(1966/12/15)        
  私の幼き頃の思い出に、前橋という風土は切っても切れないものがある。
幼き頃−−そこには小さく貧しいながらも、両親と姉弟の5人家族への懐かしさがある。いま、こうして幼き頃を思うとき、しきりと父の優しい目元、父より幾分勝ち気な母の、貧しさの中で必死に子供3人を育てようとする暖かさに心のよりどころを得られた−−そうしたものにじっと引き込まれる懐かしさがある。

  私は東京渋谷で生まれた。戦争も真っただ中で食糧難。連日の爆撃、そして父の失職が重なり、私が3歳のときに叔母の住む沼田町に疎開した。むろん3、4歳の頃の記憶は不連続で漠たるものである。
  数える程の家具を持ち、幼い姉の手を引き、父は私をおぶって母に沢山の荷物を持たせ、音楽家をあと少しのところで断念しなければならなかったのに、片手にはしっかりとチェロを大切に抱えていたのだという。そんな見窄らしい我が家の一群が、あのうら寂しい沼田駅前の急な坂道をゆっくり歩いていたのだった。といっても他の人々ももんぺ姿、国民服に防空頭巾をつけて行き交っていたのだ。

2 社会への巣立ち
■ 出発の日(1961/3/15)
 いよいよきょうは会社に行く日である。午前3時起床。4時半に新前橋駅に向かう。あたりは真っ暗で寒い日だった。夜が未だ終わっていない。辺りでは、街灯の傘はカタカタと音を立てて裸電球が寒々と点っていた。家族も昨夜は早く床につき、私の出発を見送ってくれたのだ。母は以前からの腰痛で玄関までしか送ってくれず、何も言わずに別れた。北風の寒い朝だった。

  駅までは歩いて40分程であった。父と姉、弟が一台の自転車を囲むように歩いた。ハンドルを握る手が冷たい。途中利根橋の上は特に寒かった。これで故郷とも別れだと思うといろいろなことが思い出された。
−−就職試験に落ちがっかりして勉強も手につかずの日々。クラブばかりに熱中した高校時代。卒業式にやさしく頭をなでてくれた小学校の音楽の先生のこと−−

  新前橋駅に着く。口数の少ない父は言った。「君のいいところはコツコツやることだ。職場の人に好かれるようにしっかりやりなさい・・・・・」。汽車がホームに入ってきた。黒煙をはく汽車の陰になり、家族の姿は見えなくなった。初任給13080円。この金で家族にできるだけのことをしたいと思った。

学ぶことへの道(1964/12)          
  ことしもまたクリスマスがやってきた。街では慌ただしくクリスマスキャロルが鳴り響き、歳末の忙しなさが安堵感を与えてくれる。どういうわけか、人々が慌ただしく行き交うと、心休まる気分になり読書などをしたくなる。今年ももう終わりだ。俺はこの4年間の出来事を思い起こしている。職場は研究部門の一つのグループで6名だけ。帝国大出のエリートが殆どだ。仕事柄、数学、英語をはじめとする知識・教養が求められる。グループでやるゼミナールに英語の文献が多い。

  ものを知らぬということは惨めなことである。「こんなことも知らないの?」 。この決めつけの言葉はかなり応える。この言葉を浴びせられ、何度涙したことか。ものを知らぬということは、生きる事への識別を難しくするのではないか。
  上司のY氏を見ていると本当の教養とは何か、ということを考えされられる。Y氏は有名私大の学部出身だが30歳にしてドクターをとったが、人間的に疑問を持たされる言動が多い。人を傷つけることが多く、暖かさを感じさせてくれない。専門的以外の知識を必要する会話ではピントの合わないことが多い。教養とは単なる知識の寄せ集めではなさそうだ。しかし知識がなければ教養など考えられない。ならば本当の教養とは何だろうか。教養のない者には教養の意味もわからないのだろうか。
  職場の別の部署に年配の資材を手配してくれる人がいる。たまにしか会うことはないが、いつも腰に電気工事をする人がつけている工具を下げている。専門知識は豊富で、ありとあらゆる資材の特徴や使い方を実に懇切丁寧に説明をしてくれる。若造の俺にも対等に接してくれる。実に温かい人である。俺は尋常小学校しか出てないけど、社会でいろいろ学んできた、と言っていた。彼の人としての温かさは単なる知識から出てくるものではない、と感じることができる。
  この前読んだ本の中に「米国では、いままでどんな経歴だったかでなく、現在どんな仕事をし、精進しているかが重要と考えられている」とあった。今の俺はどうだろうか。春には勉強することに本格的な努力をはじめるものの、夏は暑さと疲れでダレはじめ、秋にはもう気力が続かず、冬には何もせず、の繰り返しだ。将来に不安を抱いている。今のままでは確実に他人に命令されてやる繰り返し作業しかできない。苛立ち、本気になろうとすればするほど、目先が真っ暗になるだけだ。なんとかしなければ−−

(1/4) 帰郷し、平凡な正月を過ごしている。弟の受験参考書をコタツにあたりながら見て、無性に大学への気持ちを強くした。今からだって遅くない。俺だって行けないことはないはずだ。弟は正月も全くなしに受験勉強に励んでいる。とにかく頑張ってみよう。駄目でもともとだ。
(1/5) 風が強く冷たい。上京。高崎まで母とバスで行く。帰省客で汽車は満員。寮で早速「受験勉強」をはじめる。
(1/8) 8時起床。川崎N社に出張。例により振動のトラブル調査。疲れた。さっぱり勉強は進まない。同僚のT氏来寮。2時まで話し込んだ。
(1/19) Y氏ニュージランドに出発。羽田まで見送る。国際振動シンポジウム。谷崎潤一郎の令息が同行するという。夕方22日に宇部への出張が決まる。これで大分計画が狂いそうだ。出張は全国に亘る。また、いつ出かけるようになるか検討つかない。明け方4時まで頑張る。
(1/30) 最近の日課。朝8時出社。18時帰寮。19時から24時までで勉強が一区切り。空腹に耐えかねてインスタントラーメンをコッヘルで作って食べる。消化器によろしくない油を使っているらしい。ときどき腹痛を引き起こす食べ物である。午前2時半に深夜放送も終わり、あたりは全く静か。鉛筆を走らせる音が気になるほどだ。午前4時になると寮の賄いのおばさんが朝食の支度で起きる頃には、さすがに疲れて床につく。頭の芯がおかしくなってくる。
  最近はどうも気持ちの変化が激しすぎる。いま挫折するわけにはいかない。朝、気分よく目覚めるもののちょっとしたことでつまずき、目先が真っ暗になる。そんなときは早く床につくに限る。
(3/8) 静かな夜。下弦の月がきれいだ。郊外にあるこの寮の周りには畑が広がっている。今夜も微かな物音だけが聞こえる。これの心はなんと動揺していることか。きのうの入試は、寝坊して遅刻寸前だったものの、まずは成功。大学に入れるかどうかで、こうも動揺するものか。落第してもともとと思っても、やったからにはいい成績を期待するものだ。僅かな期間だったが、我ながらよく頑張った。これほど集中して勉強したことはなかった。今年の初めから中身のない自分がいた。頭に文字や記号を叩き込む機械にしかすぎなかったのか。長く続けてきたフルートも吹けないでいた。全勢力を注ぎ、すべての犠牲を払い、その後に何が残るのか。
(3/9) 合格発表の日。午後から発表会場に。遅かったためかガランとし、もう発表を見ている人はいなかった。「合格」だった。何度も自分の名前を見た・・・・。しかし、全く嬉しくなかった。通知書をもらって外堀ぞいに歩きながら考えた。これからどんな生活になるのかわからない。なぜこんなにまでがむしゃらにやらなければならなかったのか。今の俺は全力でこいだ後、惰性で動く自転車のペダルに疲れた足を乗せ、身を動きに任せているのに似ているのか、などと思う。
  4年間の悶々とした後の区切りの一日であった。都電がガタガタと音を立てて俺の脇を通り抜けていった。

■ 友との出会い

O先生宅を訪れる
  帰郷しO先生宅を訪れた。O先生とはちょっとした知り合いだ。パパ先生は政経、ママ先生は国語の先生である。ママ先生はつい最近歌集を出した。
「実社会での生活は大変でしょう」
「学生時代考えていたことと大分違い、自分自身がしっかりした信念を持っていないと、大きな波にのまれてしまう気がします。今の自分は波に身を任せているだけのようなもので、もっとしっかりした礎をほしいと思っています」といった会話から始まった。
パパ先生は三木清に、ママ先生はパスカルに興味を持っているという。
「自分が行ったことで他人が生かされることが必ずあると信ずる」。パパ先生はそう言った。三木は”書くことは大切である”という。人間が発展し得たのは、”考えること、書くこと”をしたからだという。
  俺は以前に同じ事を考えたことがあった。しかし、パスカルは”人間は考える葦”としたが、いったい何を考える葦なのか。考えることを考えるのか。最近の俺は考えることをしなかった。考えることをしなかった俺は、人間の装いをした”物”なのか。

  「菜の花の続く畑の端に見ゆ
                          青き丘をバスのろのろとゆく」

俺はこのバスのようなものなのか。カトリック信者である、ママ先生が聖書は完璧な文学作品だ、といった言葉が妙に頭に残った。
 外は霧雨だった。

他界した友を想う(1967/8)        
  秋近きを感じる宵。さわやかな雰囲気の時。何も気になることもなく一日を終えベッドに横たわっていた。遠くに微かな物音が聞こえるほど静かな晩。空にさっきまであった月はいつの間には雲にのまれていた。
 ふと気づくと、隣室からテープにのった男の声が聞こえていた。しばらくすると、その声が先日山で亡くなった T のものであることがわかった。隣室の I君の親しい友人だった。調子はずれの歌声で「別れても、別れても・・・勿忘草を・・・」と繰り返していた。やがて、テープはぷっつり切れた。I君はそのテープをどんな気持ちで聞いていたのだろうか。土曜の晩、「これから、剣山にいってくるな・・・」、「死なずに帰れよ・・・」、と簡単に会話を交わしたTが転落死したなどとは思いもよらぬ事だった。再びテープが繰り返された。
  俺は3年前に、爆発事故で亡くなったYのことを想った。そしてSのことを。入社して2年目にYを4年目にSをフッと消えるように失った友人を、一種の恐怖を持ちつつも、いまだに信じられない気持ちだ。
  Sはいい奴だった。福島県人らしく素朴な男だった。少し気の弱いところがあり、自分で気の弱さを何とかしようと思い立って、ある女性と実験恋愛したのもSらしいやり方だった。そのSが岡山の海に車ごと飛び込んだことが疑惑に包まれているだけに、Sの死は信じられないままである。

  Yは同室の友だった。まじめそのものの人柄は今も忘れられない。あれは新潟地震の年だった。川崎のS社の工事現場の昼休みの事故だった。ポリプロピレンガスが溶接の火に引火しての大爆発だった。10名近くが死亡。病院に見舞ったときは、全身を包帯に巻かれ、ただ息を弱々しくしているだけだった。運が悪かったといえばそれまでだが、昼休みに同僚にアイスクリームを買っていってやろうと、現場を通りかかってやられた。何もせず現場小屋にいた人はけがをせずに済んだ。鶴見の総持寺の合同葬での、白木の柩、元気だった頃の写真を前にして、ただ言葉もなく涙した気持ちは悲しさだけではない。理由もなくYを死に追いやった元凶に対するやりきれなさも混ざり、火傷のような心の痛さを感じた。Yよ、今はどこにいるのだ。

  T、S、Yの短い一生はいったい何だったのだろう。俺はこんなに安閑としていていいのだろうか。俺は幸いにして生き続けている。漠然と生きていたのでは彼らにすまない。生きることを積極的に考えてみたい。
  蘇軾が言うように、人の命は蜻蛉の如くはかないものなのか。SもYも然りだったのか。否。人がそれほど儚いものなら、こんなに立派な文化も歴史も残すまい。人は死を「定め」だったという。しかし俺にはSやYの死が「定め」だったなどと簡単に考えるわけにはいかない。人は大海の中の一粒の粟のような小さなものなのかもしれない。自然は、宇宙は、歴史はあまりに偉大としても、一粟としての俺はなんとしても、他人と同じ粟でありたくない。周囲を見渡し、他人の喜び、悲しみ、苦しみを感ずる粟でありたい。

  人は誰しも己が望んでこの世に生をうけたのではない。竜之介の河童のように、「お前は生まれるかい?」  として生まれたのではない。生きとし生けるものは「被投的存在」である。ならば、自ら行き返さねばなるまい。「企投的」な生き物でありたい。では、どんな投げ返し方をするかが問題である。
  俺は心ある一粟でありたい。積極的な生き物でありたい。自分が小さい生き物であるとわかればわかるほど「今を大事」にしたい。そうすることが、SやYに対して誓った、「お前たちの死は無駄にしないぞ」、に応えることだと思う。怠惰で生きていくのなら、彼らにすまない。俺は生き続ける。

   一日の生活(いのち)を
                   まことに生くる者の上に   光あれ」

この言葉が今の俺を励ましてくれる。

(1966/5) S氏の来訪を受ける
  高校の先輩であるS氏とは、数年前に偶然電車の中で出会った。それまでの疎遠が嘘のように親しいつきあいが始まった。
  夕方から、自室でアルコールを入れながら話した。
「僕の家族は満州で父、弟を失った。人間が人間を殺す戦争をしたからだ。人間性善説などという者があるが、僕は人間性悪説をとる。僕は死に対する恐怖が高校時代にあった。それは本能的なものと思う。夜寝ると、翌朝目が覚めず−−寝ることの連続が死であるように思った。人間はなぜ生き続け、どのように生きたらいいのか」、とS氏は話した。俺は他人と真剣に「生きること」について考えたことはなかった。こんな機会は滅多にない。
「僕は自分=人間がどのように生きるかを考えるには、漠然と考えたのではわかりにくいと思うんだ。どうしたらいいかというと、自分=人間とは何かを考え、その本質を知ることから自分として人間らしさを生きることのよりどころにしたいと思うんだ。君は人間とは何か、人間の本質はなんだと思う?」
『人間とは、を考えるには他の動物、そうだ、一番高等なサルとの違いを考えればいい。まず、サルは家を作らず、衣服も着ないし・・・と。音楽も絵も描かず。まず、第一に文化を持たない。それから・・・・』

あれこれ考えるうちにO先生宅での話しを思い出していた。
「文化って何だい?」
『そうだ、文化の元は人間が考えることだ。考えることが人間の本質だ』
「それだけかい?」
『それに、人は道具を使う』
「しかし、気の利いた鳥は小枝を捕ってきて楊子代わりにして虫を捕るよ」
『道具の使い方が違う。その元が違う。動物は生きるためだけの本能がその元だが、人間は動物として生命を維持するためだけでなく道具を使う。人間は動物として生きることの本能以外に、人間として本能を持つ。その本能とは、”よりよく”であり、言葉だ』
  そうこう話すうちに、人間は”ある偶然から道具を使うようになり、そこから道具を使うために前足=手が使われだし、2本足で立つように変わり、脳の発達を促した。そして生きるための本能だけでなく考えることが始まった。そうするうちに火を使い、他の動物から身を守ることができ、物を蓄えることもできるようになった。考え、そして<向上>することが人間の本質の一つである”と結論らしきもがでてきた。
「しから、それなら、向上しようとするような人間がなぜ仲間を殺すようなことをするんだい。性悪説から考えて、人間の本質には、他人を殺す本能を持ち合わせている」
『俺は別の考え方をする。人間には、誰しも惻隠の情、初発の心がある。どんな悪人でもヨチヨチ歩きの幼児が井戸に落ちなんとするとき、ハッとする。その情が人間の本質と思う。人間の本性は善だ。俺は人間とは、考え、向上し、また初発の心を考えれば、本性は善と考える。だから、人間を信じたい。だが、そういう人間の精神を組み立てている身体は自然の進化したものと考えるから、当然自然とはいかなるものか、また文化を持つ社会的動物として、社会とは、哲学とは、芸術とはいかなるものかを考え続けていきたいと思います』
「それじゃ、僕の考えとは逆だね。どうも平行線だ。話を変えるけど、こんどはなぜ生きなければならないか、を考えてみよう。君はなぜ生きているんだい?」
『自分は今生きている。俺に死ぬ理由はない。俺は自分に生を与えてくれたもの(自分の母という意味だけではない)に対する感謝の気持ちを持てば、生き続けなければならない。自分が生きるために、多くの動物、植物を犠牲にしていることに気づいたときから、その気持ちは強くなった。自分が生きようとする気持ち、意志は自分に生を与えてくれた何者かが与え続けていると思うんです』

S氏は ”生命の意志” という言葉を使った。宇宙のいずこかにある、宇宙すべての生命の源<人はこれを神の意志というかもしれない>が人間を生き続けさせているという。

 アルコールが入っているだけでなく、頭の芯が壊れそうであった。気づくと空は白んでいた。

■ ひとつの言葉によって(1966/3/4)
 NHK「現代の映像」を見た。大阪の福祉家庭が冷蔵庫を買った。世間の目は冷たい。保護家庭に冷蔵庫が入った、と近所で評判になった。「あの家は贅沢をしている」。その噂が役所に伝わり、保護を打ち切られた。冷蔵庫を入れて何が悪い。なんで、ささやかな幸福を壊したのか。世間の冷たい目の故に、母子は生命を断たざるを得なかった、という内容だった。

  自分のことしか考えなかった最近だった。ハッと目の覚める思いがした。一つの言葉(それは容赦のない国家からの言葉だった)が、どん底にある一人の女性と幼児を吹き飛ばした。日本はそれほど貧しいのだろうか。
  余暇を楽しめる人々は、ひたすら遊ぶことしか考えられないのではないか。目をもっと見開かなければならない。自分のことしか考えなかったことが恥ずかしい。大阪の母子の犠牲を無駄にしてはならない。
  自分の向かうべき道はどこにあるか。−−思うだけなら、誰でもできる・・・・。

■ 職務命令受けて
午前10時堺に着く。すぐにT社の現場に行く。爆発事故があったための原因調査だった。今回の出張は2名。誰も行きたがらないが部長命令で出発。打ち合わせの後、さっそく測定開始。
  海水を使って高さ50mもある反応塔が、急激な液体によるショックを受け、振動、金属疲労、破壊、爆発となる。23時に問題の危険な状態で運転開始。間違いなく爆発の起こる状態で轟音が始まった。爆発の前触れのメーターのふれが始まった。予想より早く危険な状態になり、皆、緊張した面持ちだ。メーターの振れが早くなり、ものすごい音だ。配管の振動を測るため、高い足場板を伝わって昇り降りする。危険だと思ってから心臓の動悸は激しく足はガタガタしてきた。膝が震えている。やっと駆け下り、爆発しそうな配管を測定。
  10分経った後、計器の調子が悪く、どうも断線したらしい。架台を駆け下り、修理道具のある計器室に行く間騒音はひどく、益々振動は激しくなる。コンクリートの固まりでできている安全な場所で計器の操作をしているK氏の顔を無表情に見る。何とも言えぬ感情だ。やっと修理を終えることができた。再び架台上に一人で早足で登る。轟音は激しく動悸は極限だった。「やはり道具は偉大だ」、「いや、道具も使わなければ、石と同じだ。使う人間が偉大なのだ・・・・」などと、頭の中はいろいろなことが走馬燈のように思いが走った。

やっと終わった。無事終わった。このときは幸いにして爆発せずに済んだ。ほっとして気づくと体中が汗だらけだった。24時にやっと宿に向かう。工場地帯の大きな明かりは夜空を赤く照らし出していた。ほっとしたためか、やたらと話しをしたい気分だったが、K氏は黙したままであった。

  数日後、会社の業務命令で現場で作業していた作業員が爆発事故のために多数死傷した。

    くすんだ世界に住むものは
    何を考えているのか
    その下にある生き物は 何を考えるのか
    灰色の空
    煙突の街の人々は何を考えるのか
    かつては、海辺の青空の輝く
    人々の楽しむ姿があったではないか

多くの仲間と
その1
(1965/3)
  なんでもいいから、話し合う友達をほしい。そんな希望がかなえられたのはS氏の紹介であった。きょうはその集まりの日だった。働く連中が多いからいろいろな職業の人がいる。仲間の幾人かのことを記録しておこう。A子(20才前後)。銭湯に勤務している彼女の仕事はきつい。朝10時から勤務だが、子供たちの服の着替え、番台、その他の雑用全般である。仕事は午前3時まで。彼女の私生活はここから始まるという。I男。電機会社勤務。無口であまり話し声を聞いたことがない。Oさん。主婦業でいつも子供連れ。その他に自己主張の強いY子。同僚のB。国大生のC子ら総勢20名ほど。

(5/9) きょうは日本の小説について話し合おうということで、藤村、漱石だなどとケンケンガクガクであったが、テーマを絞らぬとピントの外れたものになる。帰りにK子が思いこんだ表情で話し始めた。K子は見習い看護婦である。
「あたし病院を辞めようと思うんです。血を見るのが恐ろしいし、住み込みだから、院長がなんだかんだと干渉する。だいいち私の時間がないんです。甘いかしらネ?」。K子とはあまり話しをしたことがなかったが、突然こんな話を聞かれて驚いた。この集まりに来る連中は、よくこんな話しをするのだそうだ。こんな話しをすぐ出せることは素晴らしいと感じた。

■ K子から手紙をもらう
「先日はありがとうございました。確かに最近の私は不安で堪りません。少し考えていることを書いてみますので読んでください。
不安に耐えると言うことは大変難しいことのようです。未来というものが未知だから不安はつきまとって離れないのです。人は歩んできた道を認め、信ずるが、これから歩こうとする道に確かな計画の上に描かれているとしても、容易に不安を超えることは難しいらしい。
疾走してゆく気弱な人間=自分−−に私は哀れみを覚える。不安に打ち勝つ方法はたった一つしかない。−−それは自分がベストを尽くして自分を高めることであると思うのです。素直に心を開いて、人の言葉を迎え入れよとすることが必要と思います。何の努力もせずに早急に不安から逃れようとしても無理です。たいして頭もよくなく、美しくもない私にとって不安に耐えることができるのは、前に記したことを実行することだけです。不安とは己に自信のないことから生じる気分なのかもしれませんが、何か一つでも自信の持てるものを身につけたいと思います。
   自分の心に尋ねてみたいと思います。では、またの日に」

S子の手紙より
  「I さんが、会を辞めたいと言っています。ろくに努力もしないで、今後やっていけないというのです。悩むことはいいことです。しかし、それはあくまで前に進まんがためのものでなければと思います。現状打破の苦しみであってほしい。しかし、彼女の行為は逃避にしかすぎないのです。甘ったれるんじゃないヨ−−私は冗談口調で言ったことがありますが、本当にそうだと思います。
  人は人として分け前を自分の手で受け取らなければならないと思います。生きる上でこれだけの厳しさは逃れられないはずです。私たちの求める自由にしても、それに等しいくらいの責任や義務がつきまとわなければならないと思います。
  ここで I さんが辞めてしまうことは、会にとって何の支障はないかもしれませんが、問題は彼女の中にあると思うのです。もう少し厳しさを自覚してほしい。Aさん I さんにしても厳しい点では彼女以上です。もっと早く相談してほしかった。私にはそれだけの用意が今ならあります。」

■ 武蔵小杉「ラタン」で集まりを持った。
  Y子、I、S子ら6人だけだった。延々5時間もかかった。一杯のコーヒーで、こんな頑張ったのははじめてだ。
  話は2つ。一つはS子がはじめた宗教論である。彼女は唯神論者のようだ。仏もその他の絶対者にも、その上に立って「絶対的な神」はたった一つという。また、本当の言葉もたった一つしかない、言葉は大切にしたいと言う。
「そうはいっても、キリスト教だっていろいろな宗派に別れている。それが互いに反発し合っていることはどう考えるのかね?」
「真理は一つしかないというけど、仏教にしたって、キリスト教にしたって宗派の数だけの真理が、そんなにあるのかね?」
「・・・・その中のどれか一つしか本物はない。今の私にはわからないけど・・・・本当の言葉は聖書に記されているのヨ」とS子。

  以前に自分も「神」についてノートに認めてみたことがあった。たしかに神(エホバも日本人の考える神もいる)や仏の教えについて、いろいろな宗派がある。今、信じられる神=絶対者をほしいと思う。しかし、目の前にそうしたものがないのは残念だ。自分が苦しみ、悩み、悲しみ、目先が真っ暗になるとき、あるいは嬉しくて仕方ないとき、いつも自分を見守り救ってくれるものをほしいと思う。
  自分が感謝し、祈る対象は一体どこにいるのだろうか。夜空を見ればあまりに大きな星が限りなく続いている。一方、蟻も蜂も誰に命令されることなく、暖かい季節には死ぬまで働き続け、実に秩序のとれた営みをしているのはなぜだろうか。そうした不可思議な「すべて」を創った源は一体どこにあるのだろうか。S子はその後クリスチャンになった。もうひとつの話はブロンテの「嵐が丘」についてだった。
  帰り際Y子からとんでもない話を聞いた。Y子がB男からプロポーズされたという。それだけでなく、B男はその数日後、”あの話はなかったことにしれくれ”と言ったという。Y子は涙ぐんで話を続けた。
「私はショックだった。気持ちの整理は全然つかないけど、男の人ってそんなものなの?」
B男はとんでもない奴だ。男の風上に置けない。S子もカンカンだった。どうも、男としてきょうは形勢が悪い。しかり、Y子をなんとかしてやりたい。
  数日後、B男と話す機会を作った。B男は170センチでがっちりした体格の持ち主だが、自己主張は強い。家庭の都合で、自宅を出て自炊したためか、消化器を患ってあやうく命を落としそうになったことがあった。
「お前、彼女の一件はどうなっているんだい。Y子はショックでどうしようもないぜ」
「僕は自分を大切にしたい。自分に忠実なら、必ずいい生き方ができるはずだ」
「勝手なことを言うなよ。彼女にしてみれば一生の問題だぜ。自分を大切にするのはいいけど、まわりの人間はどうなるんだよ」
「そうは言うけど、好きでもないY子と結婚したって互いに不幸になると思ったから別れたんだ。僕だって気にしているんだ」
「それなら、なぜプロポーズなんかしたんだ?ほかの連中も、お前の勝手な行動に気づいているぞ」
「なんと言われようと、僕は自分に忠実に正直にやっていくんだ・・・・」
  俺はカッカしてくるのがわかり、話をやめた。こんな身近に、これほど身勝手な奴がいるとは思ってもみなかった。これではB男は、ますます自己主張を強くして人間の幅を狭くするだけだ。B男があまりに哀れだ。

■ 文化の日
  毎年、この日はそれらしいことをしようと試みている。今年は、趣変わって以前から計画していた同人文集を仕上げる日。N君宅に集まって仕上げ。ロウ(蝋)原紙を筆耕台を使って文字を埋めたガリ版印刷である。一月近くかかってできあがったものの中から抜粋。

U子の詩(色白美人の彼女は身体が不自由のためか、もの寂しい気配がいつもただよっている。)

    とめどなく涙ながれ
    なぜ
    どうしてなのか
    とめどなく涙ながれ
    とめどなく涙ながれる
    「勉強もがんばれよ!」
    「そんな暗い顔をしないで、元気出せよ!」
    思いが
    言葉が身を貫き
    母の顔が見にうかぶ
    とめどなく涙ながれる

S子の文章
   自分の心に忠実に生きたいと誰でも望むことです。けれども、そのためには少しくらい他の人が悲しい思いをしたって仕方がない、とい怜悧さが含まれているようです。自分の心からの願いに沿って生きることは素晴らしいことです。それと「自分の心に云々」という言葉には大きなずれがあることを考えてみたいと思います。
   自分の可能性を追い求めることは、前進しようとする若々しい意志がありますが、自分の心に忠実に生きるともらす中には、ときに尾をたれた負け犬の様相があります。前者には自分の生を流れの中に捉え、後者はその場その場の感情の中に自分を漂わせています。
  人はその日その日を、何らかの気分で生きています。迷惑をかけたり、それを許し合ったりしながら生きています。感情というものは自分のものでありながら、自分でもどうにも始末に負えないときがあります。悔しい、空しい、切ない、嬉しいといった感情が自分にあるように、他の人にもあります。
  私は言葉を大切にしたいと思います。他人の意見、忠告に素直に耳を傾ける率直さがほしいと思います。同時に、自分の言葉に責任を持ちたいと思います。
(S子がこの文章をB男に対して、怒りを込めて書いたことはすぐにわかった)

その2 葉山での集まり
 T先生の別荘を借りたこの集まりは2ヶ月前から計画されていた。午後2時逗子駅に集合。岩肌をむき出しにした丘のまわりに、緑がずっと続く。夏の賑やかさもなく静かな街である。横須賀が近いためか、外人や派手な身なりの女性がよく行き来する。赤いダリア、黄色の小菊。秋だ。
  バスが久留和海岸に着く。曇って生憎富士山は見えないが、海に太陽が一本の線を引き、風があるごとにゆらゆら揺れていた。 夜8時。三部屋を開放し、車座になって全員座る。35名の集まり。S、K子、Y、B、I、S子、Mなどいつもの顔ぶれだ。リーダー格のT。35才独身。近くで話すのははじめてだが、苦労じわが見える顔だ。さっきから煙草をくゆらせていた。
   いつもの通り自己紹介から始まった。「私はY子。この集まりに参加でき、とても嬉しいです。私は小学校まで茨城県にいました。田舎にいて、小さい頃から東京に憧れを持っていました。東京で生活したい。そう思って中学になって上京しました。大学で数学をやりたかったんですが、女だからといって親に反対され・・・・」などと近況も含めてつぎつぎに話しは続いた。
  一通りの自己紹介の後、Tは偉そうな口ぶりで話し始めた。
「みなさん、きょうはせっかく集まったのですからみっちりやりましょう。”生きることについて”話しましょう。私は人間すべてがそれぞれ幸福を求めて生きていると思いますから、幸福とは何か、からはじめたらいいと思うんです」
S 「人が生きるということを考えるといっても、どのように考えたらいいか、やはり論理がなくてはいけないと思うんです」
K子「私は、別に論理性など考えない。今まで身近にあったこと、経験したこと、そうしたものを総合してそれがどんなものだったか。そこから進んで、これからどうあるべきかを考えればいいと思うんです」
T 「S子さん、この前の”生きることの”文章は素晴らしかったですが、少し話してくださいよ」
S子 「私は、以前の私ではないのです。文章が立派と言われることに反発を感じています。今の私は話す資格がないんです」(S子が、なぜこんなことを言ったか翌日わかった)
M「Sさん、先ほどから論理だとかなんとかいってますが、Sさんの”生きる”ことへの考えを話してください」
S 「僕がいかに生きるかを考えたのは中学生の頃でした。僕の考えを出発させたのは、死への恐怖でした。そのころは死という言葉を聞くのが恐ろしいほど死を恐れた。夜が怖い。このまま死んだら自分の意志はどこへ行くのだろうかと考えた。自分が物事に判断を下すとき、人間とはどういうものかを考えていれば、一本筋の通った考えがもてると思います。世界観のない人生観はないと思うけど、さらに具体的に人間観が必要と思います。」
Y子 「それならSさんの生きる目的は何ですか?」
S 「人間には誰にも生きようとする意志がある。これを生命の意志と名付けてもいい。僕はこの生命の意志を充足すること、それが生きる目的と思っています。自分の生を充足することです。充足するといっても、食べたり飲んだりする単なる満足とは違う。自分の生命が喜び、感動する。これが生の充足です。具体的には男として仕事をすることにそれを求めたいと思っています。」

話はしばらくS、Y子、I、T、M、K子だけで進んでしまい、I はこう話題を変えた。
「今、幸福とは何かについて話しをしようとしているのですから、そっちに話を変えましょう。簡単に考えましょう。幸福って何でしょう?」
T 「そう。自分の幸福とは何かを考え出せればいいのよ」
M 「いや、それは違う。幸福なんていうものは主体的であって、自分にとって何が幸福かということが問題であって、一般論をやっても無意味だね」
I 「そうは言うけど、幸福なんて人によってそんなに違うものかしらね」
M 「その通りです。人によって幸福の内容が違う。よく、他人が幸福でなければ自分も幸福でないなんて言う人がいますが、全く信じられないことです」
S 「僕にとって幸福とは自分の生を満たすことと思っています。人間は各人の幸福を求める。それなのに、なぜ世の中の人々が争い苦しめあい、悩まなければならないか、全く不思議でならないですね」

しばらくザワザワと、あちこちで近くのもの同士で話し込んでいた。ガラス戸の外には、海風に追われた松のさわさわという音が聞こえてくる。夜も大分更けてきている。その中で突然の発言があった。
C子 「人が皆、幸福を願っているのは本当です。ではなぜ、争い苦しまなければならないか−−それは、人が他の人のことを思わない勝手な行動に走るからです。人が社会的生活をする上で最低限のルールはあります。他の人を思いやる気持ち、相手の立場になって考えること、これが一番大切なことです。自分の勝手な幸福で相手に迷惑がかかるなら、それは本当の幸福ではないの・・・」
M 「もう少し話を簡単にしましょう。幸福の実体がいったい何であるのか考えてみましょう」
E 「身近にあるもの、それが幸福。そんなに堅苦しくないものよ。こんどRさんと山に行く予定だけど、山頂に着いたとき嬉しいと思う。それも幸福の一つと思います」
Y男 「僕は自分に対して正直なこと。つまり自分が自由なことだ」
  議論百出だった。話に聞き入っていたTがこう言った。
T 「人間は歴史に関係なく生活しているなんて言いますけど、自分が生きていること、ただそれだけで、意識しなくとも社会に影響を与えています。自分なりの生活をする。そして向上させるため自分を磨き上げる。皆さんがここで話し合う気持ちが大切です。そのことを感じるだけでも歴史に帰依しているのよ。一生懸命やりましょうよ・・・・」

  たいそうな話しぶりであった。俺は話しをする気が失せた。歴史に帰依するなどとTは一体何を言いたいのか・・・とつぶやき続けた。
  曜日が変わり1時になってしまった。きょうはこのくらいにしようということになり散会。ぞろぞろと席を立つものの中で、ずっと沈黙していたS子が「きょうは何も発言できなかった。自分が本当に納得できる生活をしていないんだから」と言った。俺は「別に気にするなよ。君は正直なんだよ」としか言いようがなかった。
  廊下を歩く音。戸を閉める音。布団を敷く音。雑然とした中に夜は更けていった。規則正しく聞こえる波の音を枕になるのは久しぶりであった。

翌日。5時起床。頭が重い。薄ら寒い海岸を散歩に出た。きょうも遠くの島々はかすんで見えない。
  きのう「私は佐渡に帰るの」と言っていたM子が立ちすくんでいた。
「今頃の佐渡は秋晴れが続いて気持ちいいんだってね」と話しかけても返事をしようともしない。ぼさぼさ髪のM子の顔は疲れ切っていた。
「あたし、長井の紡績工場で働いていたんです。知人の紹介で。でも、あまりに条件がひどいんです。半年我慢したんですが、もう駄目です。きのう佐渡に帰ろうと思ったんですが、この集まりを最後の思い出にしたかった」。寂しそうにM子はそう言うのがやっとだった。

  昼過ぎまで昨日の続き。午後3時、全員で大声で歌って散会。逗子への満員バスの3台目にやっと乗れた。M子を一晩泊めてから佐渡に帰すというS子が目の前にいた。ぎゅうぎゅう詰めのバスであった。「随分渋いのね」  と言われる。「仕事は忙しいの?」「私の職場は出向が多いんです。はじめは知らなかったんですが。課長と喧嘩しちゃって辞めようと思っているんです。新しい職場が見つかってからと言ってますが、女性として独立して仕事をしたい。自分の意志と関係なく嫌々ながら仕事するという大きな矛盾からすれば・・・・・」。髪をきちっと結んだ顔は堅かった。
  横須賀線の中でもM子は相変わらず口を開こうとせず、すぐに寝入ってしまった。
「さっき話したことだけど、辞めることに反対しないけど、やり方に問題があると思うよ。具体的な方法にまだ考える余地があるね。来週の横須賀の集まりのときにまた話そうか」「私も考えずに話したかもしれない」
 
  窓の外には、丘が、海が、畑が次々に走り去っていった。
「ところで、きのうの続きなんだけど、私にとって幸福は3つあると思うの。一つは物事に熱中すること。第2は新しく物事を知ること。本当のことに出会ったとき。第3は人間を好きになること。特定の人に対してでなく、人間っていい生き物なんだと実感すること・・・」
「僕の場合、いろいろあるけど、その内の一つは人の温かみを知ったときとか、人から日常的なものでなく”なるほどそういうこともあったのか”と知らされたとき。時々感ずることがあるけど、相手が憎ければ憎いほど哀れみを感じることがある。相手が自分を守りたいばかりに勝手にふるまう。これは君の言う第3番目のことと関係あるかな?こんどの日曜日に、また話そう」
「わかったわ」といったままS子は押し黙ってしまった。

  横浜駅。日曜の夕方であった。そこには家族連れ、山登りの姿をしたグループ。恋人と思える二人づれなどがが雑多なにぎわいを作っていた。M子はそんな中で、人目を気にしながらぽろぽろと涙していた。(M子はその後無事に佐渡に帰郷し元気にやっているとS子に便りがあったという)

4 生きることのへの自問
存在と無
  「ものがある、ということを考えたことがあるかい?」
友人にこう聞かれたときの驚きは大きなものがあった。「ものがある?」。なんと陳腐な問か。ものがあるからある。ただそれだけさ、と思えばそれで万事終わりである。
   しかし、よく考えてみるとそう簡単にも思えないのである。「ある」ということは、人が「知る」ことによってはじめて理解しうることであろうか。自分の前と後ろに1個のリンゴが置かれている。自分には目の前にあるリンゴは見ることによって、「リンゴが1個ある」と知るが、後ろにあるリンゴは振り向かなければ「ない」ことになるのだろうか。別の人が自分の後ろを見て、「後ろにもリンゴがあるぞ」と言えば、そのことで自分にリンゴがもう一つあることになるのだろうか?

  アリストテレスの形而上学においても「昔から、そして今も、また永久に探求されて問題とされているものは、存在とは何か、ということである。すなわち、存在の根本問題は何かということであり、それをある人々は一つの主張とし、ある人々は一つ以上と主張した・・・・」としている。
  「ものがある」ということについて、単にあるからあるという前提の下に、あるということの意味、意義を論ずる立場と、もう一つは「ある」ということが、「知る」こととはたして等価なことか、という根本的なことを論ずる2つの立場に別れるのではないか。
  いま、第2の立場では話しを進めてみようと思う。なぜなら、第1の立場は第2の立場での問題が解決してこそ、はじめてその意味が明らかになってくるだろうと思えるからである。人間が知りうる手段−−手で触り、目で見、鼻で耳で間隔することだけをもって「ある」ということと等価なのだとするなら、自分と彼の後ろにあるリンゴは「ない」ことになるのだろうか?いったい全体「ある」ということをどう考えればいいのだろうか。
  南極はかく々いう所である。アンペールの法則はこういうものである、とするとき、自分自身で南極に行ってみないと南極は「ない」ということになるまい。アンペールの法則の実験方法を知らなければ、それだけでアンペールの法則が「ない」とはいえまい。南極は、他の人が写真を撮り、地形がどうの、気象がどうのということから、そこに南極がある、と知ることができた、と普通は判断するだろう。

  だが、簡単に知り得ないことも多い。大空を仰ぎ、太陽は、アンドロメダはというとき、太陽までの距離を自らの手で測ろうとする人は多くあるまい。アリストファネスが、ピョートル一世が、コンスタンチヌスが、過去にいたといっても、現代人の誰一人として会った人間はいない。だが、歴史上の人物としての彼らの存在を疑うものはいないだろう。
  そう考えるならば、「ものがある」ということは、自分自身で直接見るだけでなく、「あることを証明」するものを通して、はじめて「ある」と断言できるのか?数千年前のことや人間がとうてい行くことのできない宇宙の彼方のことは、「あり、そしてあった」とすることができたとしても、今この時に、自分と彼の後ろにあるリンゴは「ない」ことになるのだろうか?否。二人にとって「ない」のだろうか。もう少し疑い深く考えるなら、歴史上の人物にしても、自然現象にしても、他人が調べたことを「信ずる」からこそ「ある」と断言できるのか。

  「知る」ことが「ある」ことと等価であることは疑うよりあるまい。しかし、「信ずる」からものが「ある」ということへの疑いは晴れない。もしそうであるなら、自分はアウグスチヌスの存在を信ずるから「いた」、彼を信じないから「いない」ことになろう。信ずることで歴史上の人物が現れたり、消えたりでは話にはならない。だが、本に書いてあるから正しいのだ、とすることも危険な要素を含んでいる。ニュートンがあまりにも偉大だったために「光」は「粒」と信じられ、ホイヘンスが無名だったために光は波として認められにくかったのである(ニュートンは後に自分の誤りを認めた)。

 「ある」ことは「知る」ことと等価ではあるまい。なぜなら、その逆を考えてみるといい。「ない」ということは「知らない」ということと等価ではない。自分と彼の後ろに<ある>リンゴは彼らにとって「ない」のではなく知ら<ない>のである。彼らの後ろにいる彼女はリンゴを目の前にして「ある」と断言するだろう。だが、彼女にも見ることができない位置にあったらどうなるか。いまだ、人々に知られてないことは、単に知りえてないだけであって、これから先、いつの日にか知られ、そして、「ある」といわれる可能性を十分持っているであろう。

  目の前にある1個のリンゴが、そこに「ある」ということは、ただその形、色つや、味わい、重さを賛美するだけで「ある」 と断言しうるのか?私は「ものがあるとはなんだ?」と聞かれた日から、1個のリンゴの重みに耐えかねている。

  トルストイの「人生論」のはじめに、水車小屋の粉ひきの話しがある。粉ひきの腕は確かだったが、粉ひきの原理を知ろうとした日から粉ひきの仕事はおろそかになっていった。人は自分の存在の何であるかを知らなくても、幸福な生活は可能であろうが、その存在を前進させるがために一度は否定し、原点に立ち戻って自らの生を吟味してこそ本当の味わいの感じられるものとなりうるのではないか。

狭き門への憧憬

    「ヒースの生い茂る沼地の中を
    はてしなく広がる丘陵を
    吹雪のうなりと 
    夏になれば ヒバリがさえずり
    ヒースに花の咲き乱れる 
    祝福された エミリーの地を
    私の足で踏んでみたい」  

  友人Y子は、いまエミリの地に全身で思いを込めているさなかである。私もいつも何かに打ち込んでいないときが済まないが、いまはただ時の流れに身を任せているだけではないだろうか?
  今までを振り返ってみると、自分でもいやになるほど日常的な些細なことで戸惑ってきた。病気もせず、特別困ることもなければ、気にもせぬことが、病んで床につき、終日天井をにらんでいると、あれこれ考え込んでしまうものだ。つまらぬことで争い、憤り、他人にとってどうということもないことが自分にとって大きな喜び、苦しみ、悩みになっている。ひもの付いてない風船のような生活の中で、家族との会話や趣味に精出すことで、「考えたくないこと」や「どうしようもないこと」から気を紛らしていることのなんと多いことか。「人生は揺れ動く影法師」とはよく言ったものだ。

  自分で長い間追い求めながらも、どうしても手にすることができなかったこと−−ちょうど青い鳥のようなものか−−それが風船のひもである。風船のひも、つまり「根」である。プカプカとあちこちに揺れ動く感情に戸惑うことなく、しっかりと自分を支え続けてくれる「根」である。

  人は他人のまなざし(眼差し)と無関係に生きてゆくことはできない。他人のまなざしの故に喜々とする者あり−−老人は特に他からまなざしなくしていられぬであろう。−−まなざしがあるが故に俯いたままの姿を余儀なくされ身を固くする者もあろう−−ある人は他からのまなざしを極端に嫌い、自分の犬を部屋から追い出した。次に外から覗かれていると思い厚いカーテンをおろし、また鍵穴からの光線を気にして明かりをなくした。人形も壁に掛かっている肖像画すら外したという。まなざしがある故に彼女は自分を否定しかけたのである。
   あたりに人影はまったくない、途方もなく広大な場所に自分だけが立っている。誰もいない。そうしたときにも、俺は「何者かのまなざし」を感じ意識しないわけにいかない。俺にとってそれは、厚いカーテンをおろした彼女のように迷惑なものではない。それは見られ、励ましになるという単純なものではあり得ない。いっときでなく24時間の影響を与える全宇宙的なものである。
   自然は地から生え地へ戻っていく。秋の日に一つの落ち葉が音もなく地に吸い寄せられる姿を見るとき、名も知らぬ生物のひたむきな姿を見るとき、また自らの心臓が誰頼むでもなく動いていると思うとき−−これはあまりに大きな驚きである。厳粛な事実である。呼吸することすら自分の意識とは無縁に続けられている。自分の不完全さをしみじみ思い知らされるとき、自分がここにいること、あるいは自分に代わってここにいるかもしれない者への恥ずかしさを感じ、自分が生き続けるために犠牲になってくれる生き物にあまりに無関心であると知らされたとき。−−「まなざし」はそうしたものへの感謝の対象でもある。ときとして頭を垂れ、視線を外そうとするがそれは無駄な抵抗である。まなざしは厳格である。自らが満ち足りた心情になるとき、ぬかずく対象である。

  人は誰しも不安や苛立ちと無縁ではいられない。また、そのピリオドたる死を避けることはできない。人生における岐路に立たされるとき−−肉親の不幸、重大な誤りを犯したとき、身分財産が目の前で壊されるとき、自らの生命の結末を知ったとき−−誰しも泣き叫び、もがくだろう。もし、自分の運命を生きることの「根」に結びつけることができれば、どんなにか安らかな気持ちでいられようか。
  この世から自分の肉体が滅びるとき、自らの魂があてどなく彷徨っているのではあまりに哀れではないか。−−人は、それぞれの「根」を持たなければなるまい。まなざしなき「まなざし」こそ俺にとって生きることへの「根」そのものであると意識するようになった。今、はっきりと「まなざし」こそ俺の「根」である、と言い切ることができる。俺のすべては「まなざし」にしっかりと結びつけられている。俺はもう「根なし草」出はない。

『兄弟たちよ、あなたがたが試練にあった場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。試されることによって忍耐が生み出されるからである。
  このことを知っておきなさい。人はすべて聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです。己を欺いてただ聞くだけの者となってはいけない。聞くだけで行わない人は、ちょうど自分の生まれつきの顔を鏡に映してみる人のようである。彼は自分を映してみて、そこから立ち去ると、そのとたんに自分の姿がどんなであったか忘れてしまう。
  あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたの命は、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間現れて、たちまち消えてゆく霧にすぎない。あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。人がなすべき善を知りながら行わなければ、それは、彼にとって罪である。』      −−ヤコブからの厳しい言葉である。
  言うは易く、行うは難しい。「なまざし」の前に背を伸ばし、しっかり応えることは容易なことではない。

目次  戻る  進む  Top