人はなぜ生きるのか


目次  戻る  進む


人はなぜ生きるか
2001/01

はじめに

  自分がここに生きており、生きようとしていることは当然のことのように誰しも思っている。しかしなぜ自分がここにいるのか、ここにいることの意味は何なのか、そもそも生きるということはどのようなことなのか・・・・・・・・
  自分が意識的に今を考え、前に進もうとするなら一度はこのような問題に自分を対峙させて、現在の解答を得ておくことは無駄なことではあるまい。一年後にその解答を幼稚なものと考えるなら、自分が一段階成長した証拠である。
 何も考えなくても時間は過ぎ去って行くものである。砂浜に残した自分の足跡が時間という波に洗われて消え去って行くのではあまりに寂しいものである。これから暫くの間、これらのことに拘っていきたい。

1.何を出発点にすればよいのか

 人は日々の生活の中で喜び、悲しみ、苦しみ、楽しんで時を送っている。人は感情の流れの中に生きていると言ってもいいのかもしれない。人生のある時期には、朝の自分と夕べの自分が別人であるかのように思うことがある(高校生はこの傾向が強いように思う)。

人間は「揺れ動く影法師」なのかもしれない。

病気、身近な人の不幸、戦で家族を失い生きて行く基盤を喪失したとき、夢や希望を失うような場面に、人は悲嘆にくれ我を失う。
人は苦しみ、悲しみにあるとき信仰心がいつもはなくても神仏を頼りにすることが多い。しかし、神仏を信じられない人々は何を頼ればよいのだろうか。何を生きていくことを考える上での原点にしたらよいのか。すべての人に共通するこれに対する唯一の解は「自分が生きていること」である。
  ある哲人は言う。「現在だけが唯一の真実で、また現実なのだ。したがって現在は事実に満たされている時であり、私達の存在は現在の中に限定されている。・・・・そして全ての人は必ず死ぬ」
 人は未来に夢を託して生きる、過去の栄光に生きるなどということもあるが、生きているのは、現在、それも今のこの瞬間にしかすぎない。
 身近な生き物に目を向けて見よ。蟻を見よ。陽が昇ると、誰に命令されるでもなく陽が落ちるまで、自分よりはるかに大きな獲物を運び続ける。それも仲間と争うことなく、協力さえしている姿をしばしば見ることができる。蜂もしかり。害虫と称する虫たちもひたすら、餌を求め続け子孫を残している。彼らも生きている。人も生きている。彼らのひたむきさだけを見れば怠け者の人間が彼らを下等と笑うことはできまい。

2.投げられ与えられた生

  自分の心臓は自分の意志に無関係に動いている。呼吸もしかりである。体温より低い環境では鳥肌を立て震えることによって体温を上げる。また暑ければ、汗をかいて体温を保つことが知らぬ間に行なわれている。そして、すべて人の生は「生まされ」て始まる。生まれ出ずることには、全く本人の意志は関係していないのである。つまり、人は投げられることでこの世に現われ、何らかの理由によってこの世に生を与えられ続けているのである。  

 我々が生きている宇宙に満天の空に、輝く星空に目を向けてみるといい。悠久の歴史を背負っているこの世界は、光の速さをもって一生をかけても達することのできない壮大なものである。その果ては、光よりも速く膨張しているのである。
そうした想像を絶する大きさの宇宙の中で、微々たる大きさの一つの存在としての人間である自分は、

     「蜉蝣を天地に寄す。渺たる一粟のみ」 蘇軾

の如く限りなく小さな存在なのである。小さな存在だからこそ、その存在の意味や自分がここにいることの不可思議さを考えないわけにはいかないのではないだろうか。

ある人は、「喪失は目覚めである」といった。肉親や親しい友人、長い時間をかけて築いた財産を失ったとき、失ったものの大きさを知る。また、怪我をしたり長い病床につくとはじめて健康のありがたさを知る。体を自然に動かすことができるありがたさは、失って初めて知ることが多い。
 自分が生を与えられたこと、生かされていることには必ず意味や目的があると信じたい。そう考えることが、意識的な生き方をはじめる第一歩ではないだろうか。

3. 投げ返す生

(1) 生きていることは当然なのか
 学校を卒業して何年かすると同窓会の集まりを持つことがある。熱心な世話役がいると毎年のようにそうした機会が作られる。20才を過ぎるころにでもなると同窓生の中に櫛の歯が欠けるように一人、二人と物故者が出てくる場合が少なくない。
 私の場合も例外ではなかった。気持ちの悪いことに高校の同級生が私の出席番号の次から順に、であった。理由はそれぞれ異なるが、20代で二人続き3人目は行方不明になり、その後の消息は誰も知らない。4人目には、さすがに出席番号に規則性はなくなっていた。

 以前の職場においても、同様にして同僚を立て続けに失ってきた。車ごと海に飛び込んだ者もいれば、末期の癌で壮絶な最後を迎えた者もいた。自分のまわりに不幸が続くと他人事には思えない。
  私も「喪失による」目覚めを考えざるを得なくなってきた。私も危ない目には何度か会ってきた。埋め立てたばかりの海岸での真夏の実験で、素足のまま砂地を歩いていたところ、目の前で大きな火花が立ち上がった。高圧電圧がリークしていたのだ。すんでの所で黒こげになるところだった。  
  また、仕事が早く済んで予定より一つ前の列車で帰宅したときのことであった。翌日の新聞を見て愕然であった。予定の列車が崖崩れで日本海に落ち、死傷者が多数出ていたのだった。私の乗った列車には’金の卵’と呼ばれていた、幼さの抜けない若者が多数、家族との悲しい別れを惜しんで、押し黙ってまま身動きをしようとしていなかった。
 爆発事故現場に赴き、深夜に亘って轟音の中で調査が行なわれた。高温の流体を50mもの高さまで上げる過程でのトラブルであった。幸いにしてその時は何も起こらなかったが、翌日多数の死傷者が出たと報道された。自分が故あって生かされているらしいと感じたのはそんなときだった。

  もう一つ足先の震えが止まらなかったことに触れなければならない。それは佐賀県でのことだった。誰かが、高さ20m長さ30mほどの幅が何とも心許ないことに20cmしかない鋼材の上を、重さが10kgもある測定器を持って渡らなければならなかった。まわりに囲いや手掛かりになるものは全くない。落ちれば確実に結果が見えている。私にその役が割り振られた。はじめの高さに達するまでに脈拍は高まりきっていた。一歩また一歩とそろそろと前進する。下にいる者は、気をつけてやれなどど言っていた。
 一歩を進めるにはたかが靴の大きさが自分を支えてくれれば十分だが、無理矢理に次の一歩の位置を決められるのは辛いものである。いつもなら次の一歩には多くの選択肢が用意されているのだが・・・・。
  投げられた生をいかに投げ返すか、それが問題である

(2) 流れる生    自分の生はどこへ向かうのか

 自分とは何か。自らの生はいずこから来て、いずこに行き着くのか。いま物事に感じ喜び感動を持ち悲しみ、苦しみを思う自らの意志は最後にはいずこに行きつくのか。きのうまで元気でいた人が突然この世から消えてゆく。肉体は滅んでゆくとしても、その人の意志も単に’消えていった’のだということで納得できるものだろうか。自分の意志もしかりである。
 生物は地から生え地へ戻って行く。秋の日に一つの落ち葉が音もなく地に吸い寄せられる姿を見るとき、名も知らぬ生物の生きてゆくためのひたむきな姿を見るとき、これらはあまりにも驚きであり、また厳粛な事実である。

 人は誰しも不安や苛立ちと無縁ではいられない。またそのピリオドたる死を避けることはできない。それが宿命というには余りあることではないか。人が人生の岐路に立たされたとき・・・・・肉親の不幸、重大な過ちに遭遇したとき、自分の身分財産が目の前で壊されるとき、自らの生命の結末を知ったとき・・・・・・誰しも泣き叫び、あがくことだろう。
   人々に道を説いていた高僧が自らの不治の病を知った直後に、自ら命を絶ったという。煩悩具足の凡人はどうすればいいのか。 経験が豊かでない若者にあっては、少しのつまづきに苛立ち、目先を暗くしたり、自己本位に走り、自分を押さえ切れないことが多いのではないか。朝の自分と夕べの自分があまりに違いすぎて、戸惑いを隠し切れないのもこの時期である。
 この世から自らの肉体が滅びるとき、自らの魂があてどなく彷徨っているのではあまりに哀れではないか。人の生は流れている。自らの生をしっかりと不動のもに結びつける「根」は果たしてあるのだろうか。

4.人間とは何か

  オオカミ少女の話を聞いたことがあるだろうか。今から80年近く前、インドのある村の洞穴に二人の姉妹が発見された。彼らはオオカミに育てられたらしい。人間の体をしているが、することはすべてオオカミであったという。昼間寝ていて、夜には遠吠えをする。食べ物を手で食べることはせず、二本足で立つことができなかった。この姉妹をなんとか人間として育てようとした牧師夫妻は、相当の努力をした。その結果、喜びや悲しみを表わすようになったが、死ぬまでに45語しか使うことができなかったという。そして、彼らは短命でこの世を去った。

 このように、人は形はそうであっても人間にはなれないのである。人間としてはじめから育てられないと人間にはなれない。では、人間とは何なのか。人間の本性とは何か、それが問題である。人間とは何か・・・・・・・・・・
  自分がなぜここにいるのか、ここにいることの意味を考えようとするとき、先達が人間がいかなる生き物と考えてきたかを知ることは無駄なことではない。ここにいくつかを抜き書きしてみよう。

            「人間は自然の失策であって、我々は死によってそれを償うのだ」          アナクシアンドロス

            「人間は考える葦である」                   パスカル

            「未知なるもの」                              アレキシス・カレル

            「愚かなるもの」                           シャルル・リシュ

            「それ自らに背くもの」                     ガブリエル・マルセル

            「社会生活をする動物」                   アルストテレス

           「理性を持った動物」                       ソクラテス

           「ことばを操る動物」「道具を作る動物」 カッシラー

           「人は明るみに向かう」            島崎敏樹

   私は、「人間は考え、惻隠の情を持つ動物」ではないかと思う。考えるとは、単にものを知り理解するだけでなく、知らないことがあることも知り、よりよき生き方を求めようとする。その存在が渺たる一粟であっても、その小ささを知っている。

 また、考えることを言葉に表し、言葉で考える。考えることは目前のことを即断的に判断するのでなく、そのことがどのような意味を持ち、自分がどのようにそのことと関わってゆけばよいかを導いてくれる。
 
  同時に、感情それも惻隠の情という固有の特性を持っている。他の動物にも感情を示すものがあるが、それは本能に基づくものである。人間の感情には、種族保存や生命維持を越えたものが日常的に示されている。人間はこうした本性を持って生まれてくるが、その後の環境によってより人間らしくなってゆくのだ。

5.何のために生きるのか

 人は誰しも幸福な人生を送りたいと思っている。ここに素朴な疑問がある。一人ひとりの人間は確実に自分が幸福になりたいと願っているに違いない。しかし、集団としての人の集まりである社会、国ができると互いに争い憎しみから戦争になることもある。自分が幸福になることと、他人が幸福になることは本来矛盾するものなのだろうか。これらの根本問題の多くは「Self Evidence =自明の理」に関わっているのではないだろうか。自分にとっての自明は隣人にとってのそれでない場合が多い。つまり、自明の理が異なる限り全ての人の同時の幸福はなさそうである。
  幸福とは自分の生きようとする意志の嘆息なのだろうと思う。つまり積極的に生きようとする意志のない者には、明示的な幸福はあり得ない。名状し難き幸福感があっても、たいしたこともないことで水泡に帰することになりかねない。

  あなたは何のために生きているのか?と問われたらなんと答えることができるだろうか
私の答えは至極簡単である。「生きるために生きる。生きることの意味を知るために。何のために、誰のために生きることで命が満たされるかを知るために」である。

  残念ながらその意味はいまだ確たるものではない。「これでいいのだ」となるのは当分先になりそうである。そのためには生き続けなければならない。自分がこれでいいと思える内容、時期がいつになるのかわからないからこそ人生は面白いのではないだろうか。

6.いかに生きるのか

    「産みいださむ はた見いださむ
     われらが幸いは自らになお委ねられぬ いずくにありとても」
                O.ゴールドスミス

  自らが幸福になろうとし、いかに生きようとするかの全ては、自分に始まり自分に終わる。いかなる生き方ができるかは、何のために生きようとするかによって違ってくる。自分の生を充たすための目的、方法は何だろうか・・・・・・
  生徒諸君の殆どは衣食住足りて、自分の道を自分の意志で選択できるという恵まれた状態にある。だが、将来への可能性はそれぞれに応じて有限である。また命も然りである。
  目前にある全てのものの価値は自分次第であることを意識し、一歩でも前進できる毎日でありたい。

今が大切」なのである。

(本稿は95年LHR資料および学年新聞掲載の「人はなぜ生きるか」の記録である)

目次  戻る  進む  Top