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オーストリア紀行
2006.07.21−07.28


はじめに
  ケッヘル番号だけの数の会員をもつモーツァルト協会に20代に属していたときからモーツァルトの音楽に惹かれ、生誕地のザルツブルグ、活躍の場のひとつであったウィーンに憧れをもっていた。現職のときは仕事に追われ、到底長期間の休暇をとることなど思いもよらず、「いつか、彼の地を訪れたい」と願っていた。はじめてザルツブルグの地を自分の足で踏み、夜のミラベル庭園のざわめきの中、ホーエンザルツブルグ城を眺めたときの喜びは忘れ得ぬものである。「今ここに自分はいる」と感じた気持ちは忘れまい。「願いなば叶えられん」の言葉を実感した旅行だった。
  初めての訪墺だったため、余儀なくされたツァー旅行は、一通りの名所旧跡は見ることができるものの、自分で見たいところをじっくり見る時間が不足し、心残りが多かった。現地の人びとは、観光客に対して実に親切で、たど々しい独語を話しても、「理解しよう」と努力していることが分かり好感をもてた。仮に独語が使えなくても殆どは英語が通じる。会話が通じなくても、ジェスチャーや片言の英語、独語で大抵は通じる。ただ、こちらが話しかけても、早口で説明されると分かりにくいことは確かだがなんとかなる。今回の旅行のひとつの目的は、「自分の独語が通じるか」だった。少なくとも日常生活に不足しない程度の独語を習得したいとの努力の多くが生かされたことは大いに自信になり、今後の学習への刺激になった。

  オーストリアの人びとは社会ルールに対して自他ともに厳しいと聞いていたが、それが当たっている部分とそうでない部分を感じた。そのひとつは、私が迂闊にも車道の端を歩いていたところ、通りすがりの人に「歩道を歩け」と指摘された。安全を考えれば当然のことだが、日本だったらこんな親切な行為をするだろうか。一方、歩行者用の信号の「青」の時間が実に短いことに驚かされた。道幅5m程度の横断に、青信号になってから、「信号は短いぞ」と思いながら渡っても、道の半分も渡らないうちにいきなり赤信号になってしまった。オーストリアの人はどれほど早足で歩くのか。そんなことはなかった。赤信号でも明らかに車が来る気配がなく、安全とみると見事に信号無視をして渡っていた。まさに「自己責任」である。第3日目の夜、ウィーン市内で交通事故を目撃。被害者が血だるまになって救急車が出動している姿を見た。やはり交通ルールは守るべしである。

  今の日本では考えられないことがいくつかあった。そのひとつは喫煙である。くわえ煙草の男女が石畳の古都を闊歩しているのである。街中に紫煙をまき散らしているといってもいいかもしれない。喫煙に対して多くの国で受動喫煙、健康対策がなされているのが世界の動向と思えるが、オーストリアは鷹揚なのか、時代遅れなのか。健康被害が多発するに違いない。この点だけは失望である。
  ただ、日本と何かが違うと思っていたことは、空気がいいということである。旅行中は体温ほどの記録的な気温だったが、乾燥しているためか暑さを感じただけでさほど不快感はなかった。空気がいいのはそのことと、排気ガスの匂いがないということだった。確かにウィーン市内でも日本ほどの交通渋滞は見られなかった。東京の山手線をこじんまりした規模のリンク内は、車がなくても市電、バス、地下鉄を使えば不都合はない。むしろ駐車場の心配をするより公共交通機関を使った方が便利なようである。

  もうひとつは「飲料水」である。日本では食事をすれば何も言わなくてもコップに入った冷たい水が出されるが、オーストリアでは頼まないと水は出てこないし、有料が常識である。特別な銘水以外の「飲み水を買う」という習慣のない日本人にとって違和感が少なからずある。ペットボトルに入ったミネラルウォーターには2種類ある。ひとつは炭酸入り、もうひとつは炭酸抜き(これはohne gasといえば通じる)である。現地の人の多くは炭酸入りを飲むらしいが、試しに飲んでみたものの到底飲める代物ではないし、炭酸抜きのミネラルウォーターも、なま暖かいものは旨くもなんともないが、水分補給のためにはいた仕方なかった。ペットボトルを手に街を歩く人を沢山見た。1本のミネラルウォーターの値段も、売られている場所で大きな違いがあった。200セント(=0.2ユーロ)から2ユーロを越えるものもあった。人が集まる場所で高価なのは仕方のないことか。旅行中いつも水のことを心配していた。日ざしの強い時期の旅行中、無料で水を飲める日本はありがたい国と実感した。自動販売機で売ればよさそうに思ったが、煙草以外の自動販売機は見あたらなかった。日本では食べ物、飲み物をはじめとしていろいろなものがいつでも買える便利さはあるが、店舗の多くが18時頃に閉店しても、慣れれば特段不都合はなさそうだ。むしろ、のべつ幕なしに便利さを求め過ぎている日本の方が怠惰なのかもしれない。レストラン、カフェーに面する路上にテラスを設けて悠々と食事をしている姿を見ると、「そんなに急いでどこに行く」を地でいっている感じで、ゆったりした気持ちになれるのはいいものだ。

  7月の日没が21時過ぎのためか、一日が長い気がした。音楽会も開演が20時頃はざらで、終演は22時を過ぎる。だが、朝8時から仕事を始める人が多く、遅寝早起きの生活を送っている人が多いらしい。朝6時には市内の清掃をする人、工事をする人、通勤のためか足早に歩く人が目についた。これも、寒くて湿った長い冬から開放されてのことなのだろうか。
  旅行中の外貨レートは1ユーロ(オイロと呼ぶ)が150円だった。物価は日本より少し高め。通りにはワーゲン、ベンツが多数走っている中で日本車も走っていた。最近法令が変わって、車は日中でもライトを点けて走行している。街のあちこちに駐車している車が目立っていた。税金は高く、ベンツなどの高級車を購入したときの税率は30数%と聞いた。その代わり小中高生の学費は無料、大学生は年に10万円程度で済むというから、高税率が国民の生活レベルアップに直結していると感じた。税金を湯水のように無駄遣いして、咎められることのない様などこかの国は大いに見習うべしである。

  以下の日程のそれぞれについて、画像をご覧いただき各地の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。

2006年07月21日 出国、ウィーン、インスブルック
 成田を午前11時過ぎに出発してから12時間後、ウィーン空港で乗り継ぎのため5時間ほど待たされ疲労だった。空港の外に出るわけに行かないから無駄な時間でしかなかった。その後インスブルックへの乗り継ぎが21時過ぎ。到着が22時過ぎ。インスブルック空港は市内の上空を飛行する、地方の小さな空港であった。遅い日没の中、地平線に走る一条の光が、旅に来たことを教えてくれた。
 航空機預けの荷物が行方不明になった同行者がいて、しばらく空港で待機を余儀なくされ、ホテルについたときは疲労困憊。やっとの思いでシャワーを浴びただ寝るのみ。部屋は蒸し暑く1時間おきに目覚め、明け方4時には起床を余儀なくされた。本日は出発から約12時間後に到着したはずだが、時差が7時間あるから、都合19時間以上を移動に費やしたことになる。体力がないと旅行など楽しめるものではない。
2006年07月22日 インスブルック、アルプバッハ、ザルツブルグ
 オーストリアは日本より緯度が北にあるので涼しいから、それなりの用意をした方がいいと聞いていたが、全日程にわたって記録的な暑さとつきあわされ閉口した。インスブルックの名の由来が「イン川にかかる橋」だと何度も聞かされた。アルプスの麓だけに山が近い。頭を白くした山が迫っている地域だが、いずれも石灰岩の色とのこと。かつてこの地は海だったということか。オーストリアの水が飲料に適さないといわれるのはそれが原因のひとつのようだ。しかし、アルプスの天然水などといって売られている水はどうなのだろうか。旅行中の都市の水は「飲用できるが、ミネラルウオーターが望ましい」との指摘があった。
  インスブルックは古代ローマ時代から東西ヨーロッパを結ぶ交通の要所だったという。12世紀チロル伯の統治下にあったものが14世紀になってハプスブルグの領土となり発展。15世紀皇帝マクシミリアンT世が本拠地とした。ナポレオン時代8年間にわたりアンドレアス・ホーファー率いる農民軍が抗し、チロルの英雄とされている。
 朝一番でオリンピックのジャンプ台下の高台から市内を一望。アンドレアス・ホーファー像の下で記念写真を撮る人が続いていた。スキージャンプ台から飛行する選手は眼下の「ヴィルテン教会の墓地」に落ちる気がして怖いという。歴史を感じさせる街並みの中で場違いな建物が見える。宿泊したよそ者が造ったホテルであり、住人には不評だと聞いた。
 市内の王宮、黄金の小屋根などが観光名所になっているが、モーツァルトがブレンナー峠を経て父とともに馬車でイタリアに向かったときに宿泊したWeisses kreizはよく知られているところだ。街じゅうに敷き詰められた石畳、石作りの建造物は歴史を物語っていた。
 ザルツブルグに至る途中に立ち寄ったアルプバッハは実に綺麗な田舎町であった。木造ばかりの、ベランダを花で飾った町並みは、「ヨーロッパ一番の美しい村」と称されることがわかるが、今の時期はともかく、冬季はさぞかし寒さの厳しい地域なのだろうと感じた。ベランダも農作業の都合で、南面のみの場所もあり、四方に置く場所もあるという。見るにはいいが、住むには大変そうな村である。村の教会は、ステンドグラスこそ違っても、なぜか日本の寺院を思い起こされるものがあった。
 夕刻、ザルツブルグに到着。街を一見して気づいたことは、電信柱がないことであった。電車用の電線は沿道の家屋の壁面に整然と取り付けられていた。電信柱がないことが街をすっきりと見せてくれるが、電線は景色を見るには邪魔になるが生活をしていくためには致し方ないことか。ホテルからホーエンザルツブルグ城が見えていた。とうとうザルツブルグに来ることができたと実感。
 夕食後ミラベル宮庭園を散策。日没が21時近くのためか、遅い時間でも子どもがあちこちで遊んでいるのが不思議だった。庭には夏の色とりどりの花が植えられ周囲の建物、彫刻と調和して見えた。ミラベル宮殿がライトアップされ、色鮮やかだった。遠くに照明で照らし出されたホーエンザルツブルグ城が見える中、沢山の人のざわめきが聞こえてきた。庭園の中央にステージが設けられ、ジャズの音楽会が催されていた。この庭園ではいろいろな音楽会が催されているという。夜風は爽やかだった。
2006年07月23日 ザルツブルグ
 ホテルを出てから、観光ガイドがひっきりなしに説明を続けていた。次から次への抑揚のない説明は、分かるようで分かりにくい。ミラベル庭園をはじめとする「サウンドオブミュージック」の撮影地を紹介していた。ミラベル庭園の入り口で「ここでマリアが・・・」と説明し、記念撮影が続いた。庭園にアムゼルが一羽餌を啄んでいた。このクロツグミに似る別名クロウタドリは日本にも渡ってきているらしい。この鳥の鳴き声でけさは目覚めた。モーツァルトの住居からザルツァハ川に至り、旧市内を遠望したが、沢山のドーム、尖塔が見られた。
 マカルト橋(Makart-steg)から旧市内に入った。東にシュターツ橋(Staats-bruecke)、モーツァルト小橋(Mozrt-steg)と続いている。同じ橋でも、大きさで小橋(steg)と橋(bruecke)といい分けているようだ。同じことは、城でもSchloss(王侯貴族の居城),Brug(城塞の機能をもつ中世の城)の違いがあるが、ホーエンザルツブルグ城はFestung(要塞、城塞)Hohensalzburgという。Festung Hohensalzburgの大砲は今でも使えそうで、立派な城塞の風情がある。モーツァルト生家、ゲトライデ通り、大聖堂、レジデンツなど旧市内には時間をかけて見学してみたい所が多い。サンクト・ペーター教会前の、花で飾られた墓地を前にして「こういう墓なら入ってもいいかも」という声が聞こえてきた。
 ホーエンザルツブルグ城からのザルツブルグ市内の遠望は一見の価値がある。この景色を長いこと見たいと思っていた。ザルツブルグ音楽祭初日の本日は恒例の「イエーダーマン」がドーム広場で催される。ここには、世界各地からやってくる人びととともに、地元の議員などの名士が招待されているという。これを見られないまでも、祝祭劇場を含め、ザルツブルグ音楽祭の雰囲気を味わえた気がした。
 モーツァルト広場に立つ、本人に余りにも似てないモーツァルト像が彼の息子立ち会いのもと建立されているが、司祭コロレドに追われ、この地を離れたモーツァルトが見たらどう思うだろうか。モーツァルトが生地ザルツブルグにいい印象を持っていなかったことは確かだろうが、それはこの地ではなく、受け入れてくれなかった人びとに対してだったのではないか。現在のように自分がザルツブルグの名士として観光の材料に使われていることを愉快に思っていないかもしれない。それは、故郷を捨てざるを得なかった萩原朔太郎が、自分の像を街の真ん中に建てられ困惑していることに似ているように感じた。
 フィアカー(辻馬車Fiaker)の集結しているレジデンツ広場を後にし、昼食後に交響曲、協奏曲などを200曲も作ったという「モーツァルトの住居」で長い時間を過ごした。夕食後、ミラベル宮殿コンサートにいった。「MINETTI QUARTETT」という音大生の演奏だった。曲目は、ポピュラーなものでなかったので、音楽に多少の関心のない人には重く感じられたかもしれなかった。演奏は軽快かつ深みのある若さ溢れる演奏だった。音が宮殿に響き渡り快かった。モーツァルトの音楽をやっとザルツブルグの地で聴くことができ満足。
2006年07月24日 モントゼー、ザンクトギルゲン、ザンクトボルフガング、ハルシュタット、バートイシュル
 岩塩で栄えたザルツブルグを後にして、本日は風光明媚な観光地遊覧である。モントゼーをはじめとするこの地にはゼー(湖see)の名のつくところが多い。造山活動で造られた湖、またバート(温泉Bad)の名のつくところも多い。この一帯をザルツカンマーグート(Salzkammergut)と称するのは塩の御料地の意である。ここを13世紀ハプスブルグ家が岩塩が採掘できる一帯を管轄したことから始まるという。
 モントゼーの地区教会はBasilika Mondseeバジリカ風教会堂という。トラップ家の結婚式の撮影に使われたことからよく知られている。ザンクトギルゲンはモーツァルトの母の生地かつ姉の嫁ぎ先として知られているが、モーツァルトは訪れたことはないという。なのに何故少年モーツァルト像が市役所前にあるのか不思議だ。母姉の彫刻の施された「モーツアルト記念室」は現在簡易裁判所になっている。ザンクトボルフガング湖を経てシャーベルグ山頂までアプト式の登山列車で登った。アプト式は日本でも信越線にあった。山頂からの眺望は見事の一語。ヴォルフガング、トラウン、フッシュル、モント、アッター湖とともに本日の宿泊地バートイシュルを眺めることができた。
 ついで、ケルト文明発祥地のハルシュタットに至る。ハル(Hall)はケルト語で塩を表すという。ここでは現在も岩塩が採掘されているという。カソリックとプロテスタントの教会が隣接している珍しいところである。ここにも立てられているペスト記念柱はウィーンにもあるが、ペストの猛威は各地で深刻な社会問題で、ペストから逃れるため、逃れたことを感謝するために立てられた建造物を散見することができる。避暑地として古くから利用されてきたことが容易に理解できる。日本の軽井沢とは比べようがない。ハルシュタットを含めこの地域一帯の景色、空気、彩りは見事。ハルシュタットに到着していくらもしない内に、今回の旅行中唯一の降雨にあった。古い街並みを潤す夕立を、教会に至る祠の中で雨音を聞いているのも風情があった。
 宿泊地バートイシュルに到着したのは18時近くで、街中を散歩しても商店は閉まった後で人通りもあまりなかった。ホテルの従業員が私を日本人と見て、「コンバンハ」、と日本語で挨拶され悪い気はしなかった。この辺鄙な保養地にも日本人が沢山訪れているらしい。ホテルは暑くても冷房がなく、窓を開け放たなければ到底眠れる状況ではなかった。すぐ目の前にある教会の鐘が23時まで時を知らせていた。大型の置き時計がすぐ目の前にある感じで寝付けない。翌朝は4時から、それも30分間隔で鳴っていたから堪らなかった。
2006年07月25日 メルク、ドナウクルーズ、ウィーン
 メルクの語源はスラブ語の「ゆるやかな川」という。ドナウ川ヴァッハウ渓谷クルーズの基点だが、修道院前の川はメルク川である。メルク修道院は11世紀バーベンベルグ家に創設されたベネディクト派の修道院で、膨大な蔵書、見事な天井画をもつバロック建築様式の勇壮な建物である。幾多の変遷を経て現在の姿になったのは1745年というから、モーツァルト生誕の11年前である。 
 昼食は修道院近くで「ウィナーシュニッェル」であった。プリオンを心配していたが、ここの牛肉はオーストリア産と聞き安心。名物料理と聞いていたが、何のことはない「煎餅カツ」である。特別旨いというものではなかった。ま、名物にうまいものなしか。河畔のいわれのある古城を眺めつつ1時間半のクルーズを経てウィーンに至る。
 ウィーンに到着したのは17時を過ぎていた。各自で夕食を摂ることになっていて「ホイリゲ」への誘いもあったものの、できるだけ早く夕食を済ませてあちこちを見たいと考え、ケルントナー通りの海鮮料理屋でビールを一気飲みしてひと心地。終日汗をかいていたためか、酔う気配はなかった。ケルントナー通り沿いに北上し、まずはシュテファン寺院に向かった。手前の対照的は近代的建物ハースハウスのガラスにシュテファン寺院が映っていた。寺院に近づくにつれその偉容に圧倒され言葉がなかった。いままで建物を見て鳥肌が立つような感動を覚えたことはなかった。奈良の大仏を見たときは「大きいね」の程度だった記憶があるが、シュテファン寺院は違う。その高さ、大きさは圧巻である。シュテファン広場では東洋系の人びとが打楽器とともに演舞を繰り広げ人だかりができていたが、しばらくの後、警官がやってきて中止を命じられて終了。
 アンカー時計が近くで見られるのでしばらく見入った後、人の流れや街じゅうに広がるテラスで歓談する人びとを眺めているうちに薄暗くなっていた。最後に市立公園のシュトラウス像などを見学して一日が終了。市立公園には風体の知れない集団がたむろしていて、危険なものを感じ早々に退散。
2006年07月26日 ウィーン
 午前中シェーンブルン宮殿見学、午後自由時間、夕食後シェーンブルン宮殿オランジェリーコンサートと無駄な時間がある感じで流れがよろしくない。
 市立公園見学からシェーンブルン宮殿へ。シェーンブルン宮殿はハプスブルグ家の由来、豪華絢爛の構造物、調度に圧倒されつつ、宮廷で繰り広げられていた豊かな生活の中で、当時の下々の人びとの生活は如何ばかりだったのかと思った。王宮にしても歴史的建造物にしてもハプスブルグ家がなければ現在にその姿を残すことはなかったろうが、それを支えていたであろう人びとの姿は、絵画でしか見ることはできない。ブリューゲルの絵画然りである。しかしモーツァルトの音楽も宮廷に仕えるために作られたものが殆どだったのではないか。シェーンブルン宮殿からバスでリンクを時計回りに一周し解散。
 オーストリアに来てから肉料理が続いた。海に面してないオーストリアでは致し方ないのだろうが、体中に油脂が溢れそうな感じがしてきている。たぶんコレステロール値も上昇間違いなし。再びケルントナー通りにある日本料理店に入り、何日かぶりの「そば」を食した。旨い。日本と違うのは、支払いの時にチップを払うことだ。区切りのいい金額を払って、「Das is fuer Sie」、または「Stimmt so schon」などと言えば通じる。チップは面倒だが、歴史的にもそうしたことが必要な賃金体系が継続してきたことを考えなければなるまい。
 午後のはじめは、モーツァルトが1784−87まで居住し、ここで「フィガロの結婚」を作曲したという、モーツアルト記念館(フィガロハウス)に行った。ここはモーツアルトがウィーンに居住して残る唯一の建物である。みっちり見れば一日がかりになりそうだった。続いて、お目当ての美術史博物館へ。入り口の「ミノタウロスを殺すテセウス」、天井画に圧倒された。ブリューゲル、レンブラント、デューラー、ルーベンス、クリムトなど、どれほどあるか分からないほどの絵画を目の当たりにして感動しきりだった。「やっと本物のルーベンスを見ることができた」。ネロ少年の気持ちが分かるような気がした。「Darf ich fotografieren ?」「Sie duerfen den Blitz nicht benutzen.」の会話で安心してストロボをたくことなく何枚かの写真を撮ったが、館内は暗くてブレたものばかりだが仕方ない。
 その後ミュージアム・クォーターを経てリンク沿いにゲーテ、シラー、モーツァルト像などをリンク沿いに見学。急がないと音楽会に遅刻しそうだった。
 オランジェリーコンサートは馴染みのあるモーツアルトとシュトラウス一家の作品で、音楽を楽しむ雰囲気で一杯だった。冷房のないオランジェリー館で蒸し暑い中、扇風機の音が邪魔だった。休憩時間、遠くに薄ぼんやり映るグロリエッテのある丘を夜風に吹かれ、ざわめきを聞きながら、かつてこの場所でサリエリと対決していたモーツァルトを想った。
 最後は定番のラデッキー行進曲で終わる予定が、更にアンコールがあった。僅か16人の演奏だったが、魔笛、フィガロともソプラノ、バリトンの声に圧倒された。会場を震わす声量に頭の芯が刺激された感じ。それが、馬に涙を流させるというモンゴルのホーミーを想起させた。ウィンナワルツの独特の拍子が快く、今夜は安らかに眠れそうだった。ホテルへの帰途、22時を過ぎた暗い夜道を馬車が規則正しい音を立てながら走っていた。馬はこんな遅くまで働かされているのかと思うと悲しい気分だった。
2006年07月27日 ウィーン
 10時30分ホテルを出発し出国予定。それまでの時間を有効利用と考え、朝食前に市電を使ってリンクを一周。朝食後シュテファン寺院を再び見に行った。最後になるので内部の各所の撮影をした。「歯痛のイエス」は聞いていたが、なるほどこれは痛そう、と思った。薄暗い内部にステンドグラスから差してくる光を忘れまい、天に突きさす尖塔を忘れまいと思って見入った。時間が来た。ホテルでチェックアウト。ところが、部屋のカードキーが見あたらないことに気づいた。「Entschuldigung. Ich habe den ZimmerschuluesselKarte verloren !」と訴えたところ、「very good ! verloren ?  Ok ! 」との答え。どうやら部屋のカードキーは毎回新しいものに変えているらしい。一安心。
 ウィーン空港まではあっという間だった。空港内で昼食。最後のエスプレッソを堪能。出国審査の後、狭さの気になる直行便に搭乗。日本人が空港に多いのにびっくり。14時に離陸した機内で翌朝8時半までに、食事が3回出された。真夜中の3時にはカップラーメンが出された。もちろん真夜中のラーメンなど体が受け付けないところだが、まわりで食べている人が少なからずいたのには驚かされた。私ははじめに配られた軽食を口にしたきり、静かに窮屈な座席で眠るのみだった。
2006年07月28日 帰国
 定刻に成田到着。湿っぽさが気になる。旅行中の日本は梅雨明け前で気温が低かったと聞いた。現実に引き戻された瞬間だった。
 今回の旅行での感想をいくつか。もっと見学したいところがあちこち見つかったことは収穫のひとつ。何も考えずに出かけるのも旅の楽しさなのだろうが、事前の周到な準備のないところに印象的な旅行は望めなさそうだ。気温の高い時期は飲料用に日本茶、麦茶、健康飲料などの用意が必要。話せなくても困らないとしても、現地の人との会話を円滑にできるよう語学の研鑽が必要と感じた。
 旅は非日常的な経験である。自分が行き詰まったり、行きたいところへの思いがあれば旅に出るべし。自分を覆っていた天蓋のひとつが空けられた気持ちにしてくれるのも旅だろうと思う。最後に、「本物に出会う」ことが大事なことをこの旅行で再認識した。これからも本物に出会う機会があれば幸いである。