物理の歴史(熱)


ジュール(James Joule 1818-1889)   
  英国の物理学者。熱力学、エネルギー保存則の研究をした。当時発明されたばかりの電磁エンジンの効率を考察することから研究が始まった。1818年12月24日 クリスマスイブの日にイギリス、マンチェスター近くのソールフォードで、裕福な酒造家の次男として生まれた。身体が弱かったが、子供の頃から機械いじりが好きで、1833-1834年兄と共に家庭教師につき、数学、自然哲学、化学などを学ぶ。家庭教師の一人にドルトン(当時70歳にちかい)(1766-1844)もいた。
   1840年ジュールの法則として知られている「電流の発熱量が電流の2乗に比例、電気抵抗に比例する」という関係である QI 2RtI は電流、R は抵抗、t は時間)、つまり抵抗器によって消された熱が与えられることを発見した。
   熱の仕事当量について『私は1843年に「細い管を水が通過すると熱が発生する」こと、そしてこの方法で1ポンドの水を1度上昇させるのに必要な熱は機械的な力で表すと770フィート・ポンドであるという事実を発表した。続いて、1845年と1847年には、流体を摩擦するために羽車を使って、水、鯨油、水銀、を攪拌し、それぞれ当量781.5、782.1、787.6を得た。これらの結果は、互いに極めてよく一致しているし、・・・・・力と熱の間に当価な関係が存在することは、私にとって疑う余地のないものである。」(ジュール、熱の仕事当量の報告1884年より)』と発表した。これは1cal=4.15ジュールに(772のft lbs)(1.356J/ftポンド)に相当する。これを論文に発表したが、彼が「学者」ではなかったため、当時の科学者たちには気に入らなかったとのことである。ある科学者の集会で彼は自分の仕事の話をする機会を得たが、そのとき当時23歳のケルヴィンによって賞賛され、それ以来ジュールの実験は全学会の注目の的となった。このことについてトムソン(=ケルビン)の回想は次のようなものであった。「1847年のオクスフォードの大英学術協会のことは忘れられない。そのときある分科会で私は、ごく控えめな若い人が論文を発表するのを聞いたのであった。その人の態度には、これから発表することが偉大な考えであることを意識している様子は見られなかった。ところが、私はその論文からとてつもない衝撃を受けた。初めのうち私は、それは正しいはずがないと思った。なぜならそれはカルノーの理論とは食い違っていたからである。論文の発表が終わった直後に、著者のジェームス・ジュールと少し言葉を交わした。これが、以後40年にわたる親交と友情の始まりとなったのである。」
   また、気体の自由膨張で温度が変わらないことを発見。1861年にはケルヴィンと共にジュール-・トムスン効果の測定を完成した。ジュールは生涯醸造業者をやめず、大学教授の地位を受けなかったが、その功績によって1850年王立協会員に選ばれ、1872年には英国科学振興会の会長となった。

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 マイヤー(Julius Robert von Mayer 1814-1878)
   ドイツのハイルブロンで薬剤師の子どもとして生まれた医学者、物理学者。医者を志したが開業医の仕事が好みに合っているとは思ってなかった。船医としてジャワに渡っている間に熱量とエネルギーとの関係を研究した(1842 航海中に船が熱帯に入ると水夫達の静脈血が赤みをますことに気づいた。これは体温維持のための酸素消費量が少なくなると解釈した)。1842年ジュールより前に、熱の仕事当量の論文を発表。フランスの雑誌に載ったデータを元に計算し、J=3.58を得る。その結果はジュールの5年前に公表された。彼の議論は不明瞭で、厳密さに欠け、発表した当時は注目されなかったが、後になって彼の存命中に認められた。
  マッハの語る次の話はマイヤーの注意深さをよく示している。『ヨリー(1809−84)はハイデルブルグ大学であるとき慌ただしくマイヤーに会った際「もしもマイヤーの説が正しいなら、水は攪拌しただけで暖めることができましょうね」と言った。マイヤーは一言も答えないまま、その場を立ち去った。数週間後にマイヤーがヨリーのところに飛び込んできて「そ、その通りです!」と声高に繰り返した。マイヤーの説明をかなり聞いた後で、ヨリーにははじめてマイヤーが言おうとしていることがわかった』。自己の考えが理解されなかったこと、先取的に論争したこと、それに子供二人も死んだことでひどく傷つけられ2階から飛び降り自殺を図ったが未遂に終わった。
   ドルトンらの熱素説への反証のため、ゲイ・リュサックの「気体の自由膨張により、熱容量が変化しないこと」に対し、思索を通してエネルギー保存を考えた(「無生物界の力についての所見 Bemerkung uber die Krafte der unbelebten Natur 」(化学年報(リービッヒ・アナーレン)収録) が、マイヤーは哲学的に熱、光を含むエネルギー保存則を唱え受け入れられなかった。その考え方が、ドイツ哲学のロマン主義自然観に根ざすため、哲学が嫌いだった学会から論文掲載を拒否されてしまった。
  マイヤーに正しい歴史評価をしたのはジョン・ティンダル(ティンダル現象で知られる)であった。1862年英王立科学研究所でマイヤーについて講演した。
               

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ラムフォード(Rumford,=Benjyamin Thompson 1753-1814) 
 ラムフォード本名はベンジャミントンプソン。
アメリカ出身(ニューイングランド地方ノースウォーバーン。ベンジャミン・フランクリンの故郷から3Kmほどの場所)の軍人。政治家、物理学者。アメリカの独立戦争のとき軍人となった。彼は公立小学校教育を受けて、1766年には、彼がジョン・アプルトン(セーレムの商人 )へ弟子入りし、代数、三角法および天文学に関する研究した。15歳のときには「食」の計算をすることができた。1771年 ニューハンプシャーで、サラ・ウォーカー・ロルフと約13年間結婚した。
1776年 英国に渡り(妻と娘を米国に置き去りにした)、神聖ローマ皇帝選出侯に仕え、伯爵号を授けられた。王立学士院会員を創設した。1803年フランスに渡り、科学者ラボアジエ未亡人マリー=アンと結婚したがすぐに離婚。ランフォードは威圧的に尊大で、友達がいなかったという。、「ラヴォアジェはギロチンにかかって幸せだった」と彼が言ったという。
1798年 ミュンヘン滞在中、砲身に穴を開けるとき熱が多量に発生することに疑問を持ち、熱と仕事に関係のあることを考えるきっかけを作った。この実験で、『鋭くない鋼鉄の刃つきの穴あけ機の摩擦で発生した熱が、多量の水の温度を上昇させるようにした。第3回目の実験で、水温は1時間に華氏107゚(約41.7℃)に、1時間半内後には142゚F(61℃)、2時間半たつと、水は「実際に沸騰した!このときこれほど大量の冷水(約8.5Kg)」が火もないのに加熱され、沸騰したのを見て、まわりにいた見物人達の顔にうかんだ驚愕と仰天の表情を』と述べている。ラムフォードが、熱は物質によるのでなく、運動によるのだと結論した推論の筋道は、正確な測定に十分な根拠をおいたものではなく、定性的であると感じていた。 『私は十二分に長生きして、熱素がフロギストンと一緒に同じ墓の中に埋められるのを見て、満足することになるものと確信している』と考えたが、その後ほぼ半世紀にわたって熱が実体であるという考えが続いた。

         

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セルシウス(Andres Celsius 1701-1744)
  アンデルス・セルシウス(スウェーデン)は、地球の形が偏球の回転楕円面だったというニュートンの予測をチェックするためにモーペルチュイによってラップランドヘの遠征に参加した天文学者である。遠征の目標は、子午線に沿って経度の長さを測定し、赤道の近くでペルー(今日のエクアドル)へ同様の遠征と結果を比較することであった。
 彼の祖父は、両方ともウプサラで教授、父(ニールスセルシウス)は天文学の教授であった。アンダース・セルシウスはわずか42歳の1744年に結核で死んだ。

 摂氏温度はリンネ(デンマーク植物学者)とシュトレーメル、セルシウス、ウプサラ大学の人々が採用した。セルシウスは1742年、水の沸点を0゚に、氷点を100゚に目盛った。これを逆にして氷点を0゚にしたものは、セルシウスの同僚シュトレーメルが、8年後に導入した。したがって、現在の摂氏目盛りの形をとったのはセルシウスでなくシュトレーメルによるもので
ある。一方でリンネは手紙の中で『温度計で0を氷点、100度を沸騰水の温度とすることを考案したのは、私が最初だ』と書いている(コント・ランデュ第18巻)。これらの温度の使用を最も早く示唆したのはホイヘンス(ホイヘンスの原理で知られる)であった。。

  セルシウス度は、摂氏(せっし)ともいい、温度(セルシウス温度)を計測・表示する単位。欧米では考案者の名前からセルシウス度と呼ばれており、セルシウスを中国語で書いた摂爾修から摂氏となった。
  水の沸点と融点の間に100の目盛りがあることから、この体系のもともとの名称はcentigrade scale(「百分度」の意)であった。しかし1948年の第9回国際度量衡総会にて、名称が正式にセルシウスへと変更になった。これには、セルシウス氏自身の認知のためと、SI接頭辞であるセンチ (centi) との衝突からくる混乱を避けるという目的があった。その後の物理的な計測方法の進歩と熱力学温度の採用により、現在の定義は「水の三重点を0.01℃とし、水の三重点と絶対零度の温度差の273.16分の1を1℃」としている。また、セルシウス度とケルビンの目盛りの幅 (1度の温度差)は等しい。また、水の沸点は正確にはおよそ99.974℃である。

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ファーレンハイト( Gabriel Daniel Fahrenheit 1686-1736)

 ファーレンハイトはドイツの実験物理学者。ダンチヒ(現在のポーランドグダニスク)に生まれ、オランダで学んだ。温度計を研究し、種々の液体の沸点と氷点が大気圧によって変化することを調べた。1714年アルコール温度計にかわってはじめて水銀温度計を作った。
1724年ファーレンハイトによって華氏温度が決められた。華氏という表記は、ファーレンハイトの中国語における音訳「華倫海」から来ている。

 食塩水の凝固点を0゚F、人間の体温を96゚Fとして、その間を96等分し、低温領域、高温領域に伸ばしていた温度単位であったが、ファーレンハイトの死後、若干修正されて、一気圧における純水の凝固点を32゚F、沸点を212゚Fとしてそれ以外に延長されたものになった。

  ファーレンハイトの論文によると『気象学上の観測だけに使われるこれらの温度計目盛りは、0で始まり96で終わる。この目盛りは下記のようにして得た3定点の決め方如何による。第1定点は最低温で、氷、水、それに塩化アンモニウムまたは海塩でできた混合物で定められるが、この場合温度計をその混合液の中へ浸すと、この混合液体は、0と印された点まで下降する。この実験は夏より冬の方が一層巧くいく。第2定点は水や氷を上述の塩類抜きで混合すると得られる。温度計をこの混合液体に浸すと、温度計は32に止まるだろう・・・・第3定点は、96度上にある。この温度計を健康な人に口あるいは腕の下に挟むと、アルコールは第3定点まで膨張する(オストヴァルトの古典叢書第57巻)』

華氏Fとセルシウス度Cとの間には、次の関係がある。    
 ケルビンが水の氷点と沸点の間を100等分した1目盛を熱力学温度目盛として「1ケルビン」と定義する。目盛の大きさでいえばセルシウス度と同じ。考え得る下限の温度・絶対零度を0ケルビンとし、その温度は−273.15℃。その後、SI単位系が整備される過程において、ケルビンの基準には水の氷点より安定性の高い水の三重点が使用されることになった。すなわち、「水の三重点と絶対零度との間を273.16等分した1目盛が1ケルビン」という定義である。絶対零度が−273.15℃なのに273.16と0.01だけ数値が違うのは、水の三重点と氷点との間に0.01℃の差があるからである。ちなみに水の三重点というのは水蒸気と水と氷が共存する状態のことで、氷点とは、水と氷と空気が混じり合っている状態のことである。

  このほかに、列氏(れっし)温度目盛がある。水の氷点を列氏0°、沸点を列氏80°とし、その間を80等分したもの。1730年にレオミュールが定め、列はその中国訳に由来。同じ温度を摂氏、華氏、列氏で表した数値をそれぞれC、F、RとすればR=4C/5=4(F−32)/9。現在では、あまり使われない。

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ケルビン (Load kelvin 1824-1907) 
本名 William Thomson。ケルビン名は大学近くを流れる川の名前。アイルランドのベルファストに生まれた物理学者。1845年ケンブリッジ大学卒業1846年グラスゴー大学教授。
1866年ナイトの爵位を得る。1890年王立協会会長となる。
1846年電気伝導と熱伝導を研究し、ヒステリシス現象を発見。熱力学の研究では1848年絶対温度目盛りを導入し、1852年ジュ−ルと共同研究し、気体がノズルを通して膨張するとき温度が降下するというジュ−ル・トムソン効果を発見した。1853年クラウジウスとは独立して熱力学の第2の法則を導いた。彼は、もしエントロピーが常に増加すれば宇宙がどんな仕事も抽出することが可能でなかった一定の温度および最大のエントロピーの状態に結局達するだろうということに注目した。
 1853年から電気学の研究をはじめ、象限電位計、鏡検流計などを制作。高周波振動電流の研究。1875年潮汐の理論を発表、また海底電線の敷設に貢献した。電磁気諸単位の体系化に努力した。このほかに航海術、地球物理学関係の研究もある。


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ラヴォアジェ(Antoine Laurent Lavoisier 1743-94) 
パリに生まれたフランスの化学者。法律、天文学、科学、鉱物学などを学んだ。
ラヴォアジェは、彼以前にボイルによって始められた化学という学問を、あらゆる観点から発展させた人である。ブラック、プリーストリー、キャヴェンディシュのような先駆者によってなされた重要な研究成果のほとんどについて検討を加えるとともに、更に正確な実験を行なった。いろいろな化合物の重量を、天秤でわずかの違いも見のがさないように測定し、その重量の差から多数の重要な結論を導いた。
 1772年空気は1/5の酸素と4/5の窒素から成り立つことを認め(当時はまだ酸素、窒素という名は使われていなかった)た。これから、燃焼が酸素との化合であることを明らかにし、従前の燃焼がフロギストン説を否定した。1783年水の組成を明らかにし、1784年水素を得ることに成功、1787年新しい化学命名法を発見し、元素とみなせる物質を33種挙げて元素表を作ったが、その中には熱素もあり、熱素説の先駆けとなった。この熱素説を否定したラムフォードはラヴォアジェ夫人と結婚したのは因果な話しである。
   1788年化学反応における質量保存の法則を樹立した。 
  ラヴォアジェが「近代化学の父」と仰がれるのはその理論体系に対する貢献と、化学の世界に革命を引き起こしたことによるものであったが、ラヴォアジェ自身は徴税官をしていたために、ジャコバン政府によって「フランス革命」で処刑された。フランス革命の恐怖政治は「共和国に科学者はいらぬ」と告示した。



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ボイル(Robert Boyle1627-1691)
アイルランド南部リズモアの貴族の子として生まれた物理、化学者。1638年ヨーロッパに旅立ち、ジュネーブでのある晩雷混じりの暴風雨に、’世の終わりの最後の日’も近いと恐れた。このときにキリスト教徒になった。その後、神学について多くの著作をなした。
1644年  18歳で帰国。ロンドンで開かれた哲学協会(その後の王立協会)の会合から強い刺激を受けた。
1654年  オックスフォードに実験室を作り数人の装置操作者を雇い、ロバート・フックを助手として雇った。
1659年 ゲーリュッケの空気ポンプのこと知り、フックに専念させ完成させた。
1660年 音の伝播に関する空気の重要性を「空気の弾性に関する」論文を発表。
1668年 ロンドンに居を移し、40年間虚弱体質ながら多くの著作をこなした。
 
ボイルは、空気ポンプの受器の中に気圧計を置いて排気の際、熱せられた液体が沸騰し水が凍結するのを観察した。
 1660年気体の体積と圧力の関係を示す、ボイルの法則を発見した。
当初ボイルはこの結果を公にするつもりはなかったが、フランシスクス・リヌス(1595-1673オランダの数学者)がボイルの結果を知り、「大気は29インチ(約73.6cm)もの水銀柱とつり合うような大それた仕事をするには、あまりにも力量不足」と断言した。リヌスは「水銀が、管の上端から目に見えないいくつかの糸でつり下げられているのを発見し、また管の上端を指で閉じたらそれらの糸に振れた」と主張した。ボイルはこの批判をきっかけに詳細な実験を重ねボイルの法則として発表した。ボイルの法則の公表から14年後、後にフランス科学の指導的立場になったエドメ・マリオット(1620-1684)により、独自に同じ法則が「空気の性質について」発表され、フランスではマリオットの法則と呼ばれる。
 ほかに、弟子のフックとともに燃焼の実験、定性分析の基礎を確立した。また、空気、水銀の密度の測定も行った。


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シャルル(Jacqes Alexandre Cesar' Charles 1746-1823)  
フランスのボージャンシに生まれた物理学者。
1787年パリの高等工芸学校の物理学教授のときにシャルルの法則を発見したが、公表しなかった。1802年ゲー・リュサックがシャルルに独立して発見した。偶然ゲー・リュサックはシャルルの結果を知った。
 
 シャルルの気体研究は気球の設計と関係し、彼は改良と飛行家としてしられている。当時知られたばかりの水素(1766年キャベンディッシュが発見)を気球を上げる為に使われた。1783年それまでの熱気球に変わって、はじめてパリで水素気球で3Kmまで上がった。
 他に、光学器械、気体系、太陽儀、温度計つき浮きばかりなどを発明、改良に貢献した。

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