メニュー

中學の校庭


前橋中学校舎 朔太郎が通った頃の前橋中学全景
朔太郎は前橋中学校(現県立前橋高校)に14歳のとき1900年に入学した。1年間落第・留年し21歳で卒業した。その後、第五、第六高等学校、慶応義塾を入学、退学を繰り返し上野音楽学校に入学を希望するも断念しているから、卒業できたのは前橋中学校が最後である。
 中学2年生頃から文学に惹かれ、はじめは短歌を作っていた。3年生に校友会誌「坂東太郎」などに投稿している。現在も「坂東太郎」は生徒会誌として発刊されている。

  53歳に刊行された「宿命」の中の「物みなは歳日と共に亡び行く  わが故郷に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた」によると
「ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ
 艶めく情熱に惱みたり 」
と歌つた中學校も、今では他に移轉して廢校となり(*1)、殘骸のやうな姿を曝して居る。私の中學に居た日は悲しかつた。落第。忠告。鐵拳制裁。絶えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくやうな苦しい性慾。手淫。妄想。血塗られた惱みの日課! 嗚呼しかしその日の記憶も荒廢した。むしろ何物も亡びるが好い。」

(*1) 中學校は、東群馬郡紅雲町分村(現在の前橋市紅雲町)にあり、朔太郎が入学した1900年に群馬県中学校から前橋中学校に改称された。昭和1934年に天川原町(二子山附近)に新築移転、昭和1979年現在地に。「宿命」が書かれたのは1939年である。

中學の校庭
われの中學にありたる日は
なまめく情熱になやみたり
いかりて書物をなげすて
ひとり校庭の草に寢ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに青きを飛びさり
天日てんじつ直射して熱く帽子に照りぬ。


「郷土望景詩の後に」
前橋中學
利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓窓より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、
四つ葉くろばあのいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。

前橋中学跡。群馬中央総合病院になっている(前橋市紅雲町)


メニュー