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帰郷


1955年5月、朔太郎13回忌に敷島公園ボート池の前に詩碑を設置したが、はじめての朔太郎の詩碑である。1983年9月現在地へ移転した。詩碑に隣接して朔太郎記念館、南に大渡橋がある。北を見れば赤城山、西を見れば榛名山、妙義山と上毛三山をさらに煙たなびく浅間山を遠望でき、緑に恵まれたここからの景色は見事である。
「帰郷」のはじめの六行をブロンズ製とし御影石にはめ込んであり、朔太郎の自筆ペン書き文字を拡大したのである。これを見る限りいかにも望郷の詩にみえるが、その後に続く部分はわずか十年間で破綻した結婚生活、重篤な病の父親と絶望、寂寥感におそわれていた。四十歳まで住んでいた前橋を1925年(大正14年)に上毛マンドリン倶楽部による送別演奏会の後上京。それから、わずか4年後の1929年7月、二人の娘とともに帰郷している。自註、帰郷の詩ともに季節は冬であるが、実際は夏であった。(朔太郎は1938年4月友人宅で見合い。見合い相手でなく友人の妹と再婚。1年で離婚している。嫁姑問題が原因のようである。長女は朔太郎没13年後に実母に再会した)
  同年11月単身上京するが、暮れに父密蔵の病状が悪化。再び帰郷。翌年7月父死去に伴い家督相続し、妹とともに上京し市ヶ谷に住んだ。

                           歸郷
昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へて故郷に歸る

わが故郷に歸れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔ほのほは平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を
さぐれるなり。
鳴呼また都を逃れ來て

何所いづこの家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫されきのごとき人生かな!
われ既に勇氣おとろへ
暗憺として
とこしなへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に獨り歸り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤
いきどほりを烈しくせり。

(氷島より。1934年刊 朔太郎43歳)


詩篇小解
昭和四年。妻は二兒を殘して家を去り、杳として行方を知らず。我れ獨り後に殘り、蹌踉として父の居る上州の故郷に歸る。上野發七時十分、小山行高崎廻り。
夜汽車の暗爾たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷す。聲最も悲しく、わが心すべて斷腸せり。既にして家に歸れば、父の病とみに重く、萬景悉く蕭條たり。

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