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小出新道


小出新道という名は朔太郎がつけたもので固有名詞ではない。「小出新道」の詩から、現在の大渡橋の南にある上毛会館から住吉町交番へ向かう道と考えられる。
  前橋は製糸業が盛んになり、街は活気づき道路が広げられた。前橋で作られた生糸は横浜経由で輸出された。朔太郎がそれまで親しんできた小出新道に茂っていた楢や櫟などが切り倒され、朔太郎は自分では抗えないふるさとの変貌ぶりに心を痛めていたに違いない。
  左の写真は、小出新道と呼ばれていた道路の現在の姿である。市街地から西を眺めたもので、正面に見えるのは榛名山である。朔太郎には現在のような姿は想像だにできないだろう。

小出新道
ここに道路の新開せるは
ちよくとして市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき
四方よもの地平をきはめず
暗鬱なる日かな
天日家竝の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。



「宿命」の中の「物みなは歳日と共に亡び行く  わが故郷に歸れる日、ひそかに祕めて歌へるうた」によると

  「われこの新道の交路に立てど
   さびしき
四方よもの地平をきはめず。
   暗鬱なる日かな
   
天日てんじつ家竝の軒に低くして
   林の雜木まばらに伐られたり。」
と歌つた
小出こいでの林は、その頃から既に伐採されて、楢や櫟の木が無慘に伐られ、白日の下に生生《なまなま》しい切株を見せて居たが、今では全く開拓されて、市外の遊園地に通ずる自動車の道路となつてる。昔は學校を嫌ひ、辨當を持つて家を出ながら、ひそかにこの林に來て、終日鳥の鳴聲を聞きながら、少年の愁ひを悲しんでゐた私であつた。今では自動車が荷物を載せて、私の過去の記憶の上を、勇ましくタンクのやうに驀進して行く。

  「兵士の行軍の後に捨てられ
   破れたる
軍靴ぐんくわのごとくに
  汝は路傍に渇けるかな。
 
天日てんじつの下に口をあけ
  汝の過去を哄笑せよ。
  汝の歴史を捨て去れかし。」

    昔の小出新道にて

  

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