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山村暮鳥


ふるさと
淙々として
天の川がながれてゐる
すっかり秋だ
とほく
とほく
豆粒のやうな
ふるさとだのう

(1925年 「雲」より)
中央大橋西袂(南に200mほど)にある十字架をかたどった詩碑
1975年4月設置
  
ゆふがた
馬よ
そんなおほきななりをして
こどのものやうに
からだまで
洗ってもらってゐるんか
あ、蛍だ

    (1925年 「雲」より)
前橋子ども公園 文学の小道
1975年11月設置

山村暮鳥(1884−1924)は詩人・児童文学者。本名土田八九十(はつくじゅう)。現在の群馬郡群馬町棟高に生まれた。恵まれない家庭環境の中で刻苦精通して、明治三十二年、十六歳で郷里の堤ヶ岡尋常小学校の代用教員になった。同時に前橋聖マッテア教会の英話夜学校に通った。暮鳥はこの教会で学ぶことによって、初めて人間的自我に目覚めた。
  明治三十五年洗礼を受け、翌三十六年東京築地東京聖三一神学校(立教大学の前身)に入学。在学中文学に傾倒し、詩や短歌の創作にふける。短歌を雑誌「白百合」に発表。卒業後伝道師の職に就き、宗教と文学の間に苦悶しながらいわき市(平)、秋田、水戸、仙台市などで布教。萩原朔太郎、室生犀星と交友を重ね、詩集『三人の処女』(大正二年)『聖三稜玻璃』(大正四年)などを出版、詩壇に登場した。大正八年茨城県大洗に転じ詩集や童謡・童話など多数を残した。経済的に困窮する中、健康を害し四十歳で没した。それまでに二万行の詩を残した。
  暮鳥は生き物、自然を沢山書いている。没した翌年、詩集『雲』が刊行された。その中のよく知られているの次の詩である。病に倒れ身動きがとれない状況の中で、雲を見ながら遙か遠い磐城平(現 いわき市)にいる弟子を想った詩である。誰もが見ることのできる雲を見て、自分の残り少ない命を予感していたのだろうか。


おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いわきたひら)の方までゆくんか

次の「風景」もよく知られている詩である。同じ言葉を繰り返す斬新な表現の中で、あまりに見事な一面に広がる菜の花畑が目に見えるようである。この詩碑のある群馬町に今も同じ景色が見られる。一面の菜の花に感動し圧倒されながら、暮鳥は菜の花と一体になっている。雲雀の鳴き声が空高く聞こえていたのだろう。誰かが吹く麦笛が聞こえてくるのだろう。
  上州の冬の空っ風が強ければ強いほど、ある日訪れる春の暖かさ、それを祝福するかのように咲き乱れる花々を嬉しく感じることができる。この詩碑を前にして、暮鳥のふるさとの空気を感じてみるといい。暮鳥の生家も近くにある。季節は春がいいかもしれない。


土屋文明文学館(群馬町)
風 景
     純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

 詩集「聖三稜玻璃」

           
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