群馬県医師会報平成14年1月第642号
平成13年度 群馬県医師会定時総会特別講演会
「小栗上野介に学ぶ」
曹洞宗東善寺住職
村  上  泰  賢
 8年間の業績


 小栗上野介が幕府で大きな活動をしたのは8年間です。あとは上州の権田に引き上げてきて東善寺に仮住まいをし、居宅を建設していたら、2ヶ月経ったところで西軍のちの明治新政府軍がやって来て何の罪もないのに、取り調べもなく首を斬ってしまったわけで、繰り返しますが小栗さんの生涯で残る仕事をしたのはこの8年間であるとご理解下さい。今日はこの8年間の主なところをご紹介します。  最初の仕事は遣米使節としてアメリカヘ行ったことです。今から141年前、万延元(1860)年にアメリカヘ参りました。その時のコースは横浜〜ハワイ〜サンフランシスコ〜パナマ。パナマにはまだ運河がなかったので汽車に乗って大西洋側へ出て、迎えに来ていたロアノーク号という軍艦でカリブ海を渡てワシントンに上陸し、ワシントンのホワイトハウスで渡した条約の批准書が、正式な名前が日米修好通商条約、別名安政条約といわれている条約です。
 その時の使節は正使、副使、目付これは別名監察と言っておりますけれどもこの3人が使節です。この当時の幕府の職制というのは目付がいないと正式な仕事は出来ません。軍事政府から始まっております徳川幕府は、いくさの時に俺が手柄を立てたという自己申告だけではだめで、必ずいくさ目付が承認して初めて正式な褒美の対象となる。ということで目付制度が幕府の中に組み込まれています。今の行政監察官のようなものでしょうか。このときの目付役として、小栗豊後守(のちに上野介)という名前で行きましたが、今日のお話では「小栗上野介」ですすめます。正使新見豊前守、副使村垣淡路守、監察小栗豊後守忠順です。小栗上野介はその時34才で、井伊大老に抜擢されてアメリカに行ったわけです。他にいろいろな役職の人も付いていって全部で77人もの日本人がアメリカに行っております。
 ワシントンで用事が済みますと、フィラデルフィア〜ニユーヨークヘ行きまして、大西洋周りでアフリカ喜望峰〜インド洋〜インドネシア〜香港と周って、日本に8ケ月かかって帰って参りました。地球を一周して帰国したという大旅行でした。


 ボウハタン号

 ポーハタン号日本を出てハワイ、パナマまで行った船がこの船、ポウハタン号です。咸臨丸の名前を皆さんはご存じかと思いますけれども、遣米使節はじつは咸臨丸ではなくアメリカの軍艦ポウハタン号に乗っていきました。これは2400トンで船体は木造、ペンキで黒く塗ってあり、普段は石炭節約のため帆で走り、風がないときだけエンジンを使って両側の車輪を回す構造でこれがいわゆる黒船です。私どもの寺は山の中にございますので、町からおいでの方にポーハタン号という名前を申しましても、教科書にも載っていませんから、どうも信用してもらえなくて「田舎の坊さんだから、よく知らないのでは?」(笑)と、疑いの目で見られることがありましたので、誰か模型を作ってくれる人はいないかと捜しまして、3年前にホームページで帆船模型を作る趣味の方が見つかったので、訪ねていってお願いして作っていただきました。今この写真の模型船は東善寺にございます。今日はまず、ポーハタン号という名前を覚えてほしいと思います。余談ですが、作ってくださった方は宮城県の古川市の岡崎英幸さんで、後でわかったのですが世界的な帆船模型作りの腕前の方なのだそうで、横浜の氷川丸で去年から岡崎英幸帆船模型展という特設コーナーができていてあと2,3年展示する予定とのことです。横浜に行った際には行ってみて下さい。


 咸臨丸はお供の船

 又寄り道しますが、皆様ご存知の或臨丸のことについて申します。咸臨丸は確かにアメリカヘ行きましたけれどもポーハタン号のお供で行ったわけです。随行船というか護衛船という名目で日本人だけで行ってみようではないかということで、でかけました。お供といっても名目だけで、咸臨丸はポーハタンが出る3日前の1月19日に浦賀を出発しています。
 咸臨丸のコースを申しますと浦賀を出てサンフランシスコ、帰りにハワイに寄って浦賀、これでおしまいです。
 ではどうして有名なのかと申しますと、明治以後、咸臨丸にはかっこいいキャッチフレーズが付きました。「日本人初の太平洋横断」です。これが受けたのですね。でもよく調べると日本人初の太平洋横断というのはどうも眉唾ですね。日本人初の太平洋横断はポーハタン号の一行でも咸臨九の一行でもなく、さらに200年前に済んでいます。それは石巻から出発してメキシコヘ行き、ローマまで行ってローマ法王に会って戻ってきている日本人、支倉常長がおります。とっくに日本人初の太平洋横断をしているのです。
 でも咸臨九は日本人だけで太平洋を横断したから立派じゃないか、使節がポーハタン号に乗せてもらって運んでもらったのではみっともないじゃないか、という方もいます。実は私も若い頃はそう思っておりました。よくよく調べてみますと咸臨丸は日本人だけで横断したとはとても申し上げられない。咸臨丸にはアメリカ人が11人乗っておりました。ブルック大尉ほか10名で、これは日本近海を測量に来ておりましたら横浜付近で台風にあって船が難破してしまいました。直して帰ろうにも部材が古くて無理だということで、アメリカ海軍からそれでは売り払って帰ってこいといわれ横浜に滞在しているときに、日本から使節がアメリカに行く、さらに日本人だけで別に船を一艘出すという話になってきている。行く船が咸臨丸に決まったときにその責任者木村摂津守が考えた。「どうも日本人だけでは心配だ」と。いくらオランダ人に習ったといってもいきなり日本人だけで太平洋横断は不安だ、自分の責任上どうしてもということでブルックさんたちに同乗を頼んだところ、ブルックさんは英語がわからない日本人の船に私一人が乗ってもどうにもならないから部下を10人乗せてもよければという条件で、ブルック大尉を含め11名が咸臨丸に乗ることになりました。
 ほとんどの日本人が最初は反対します。「自分たちはオランダ人に習っているから大丈夫だ」と、勝海舟も反対します。しかし木村摂津守は責任上アメリカヘ到着することか第一だから、操縦に対しては口出ししないこと、などという条件も付けて乗ってもらうことを納得させた。ですから、明治以後の歴史家の中にはアメリカ人が帰りたがっていたので乗せてやった、などと書く方もいます。


 ジョン万次郎

 さて乗り出してみますとポーハタン号も咸臨丸も、1月2月の北大平洋を横切って行くわけですから大変な目にあいます。ものすごい大シケにあうわけです。冬は北太平洋で低気圧が発達しますから、これに巻き込まれましてポーハタン号も救命ボートがもぎ取られてしまうような大シケです。咸臨丸も揉みに揉まれました。咸臨丸は292トンですからすごく小さいのです。オランダから買った小さな船です。それでもまれますから、嵐の中で咸臨丸に乗っていた日本人はほとんどが船酔いでダウンしちゃって甲板に出てこない。
 ブルック大尉の日記には日本人が船で改善すべき事を書いています。まず悪い点について、
・気が付いたものが仕事をして気が付かないものは仕事をしない。
・当番制度をとっていない、誰がどこを分担するということを決めていなかったから気が付かないやつは煙草ばっかり吸っている。
・船の中で一番怖いのは火事なんですね。逃げる場所がないですから。ところが提灯を持ち歩いて、どこでも煙草を吸ってしまう。
 こういうわけで、嵐の中で甲板まで出てきて動けた日本人は3、4人だったと書いてあります。そのうちの一人がジョン万次郎でした。
 ご存じのジョン万次郎は四国の土佐の中浜村で生まれ、16才で船の下っ端の漁師見習で乗り込ませてもらったら、その船が難破して鳥島まで運ばれてしまい、死ぬか生きるかという思いをしているところヘアメリカの捕鯨船がやってきて拾い上げてくれました。当時アメリカの捕鯨船は太平洋で鯨をいっぱい捕っていました。助けた日本人を日本に送り届けようとすると、鎖国令により外国の船が近づくと大砲を放つ命令が出ているためにうっかり近づけない。船に日本人を乗せたまま操業し、それからアメリカに連れて行ってくれる、というか連れていってしまうわけですね。
 万次郎は漁師の中でも利発で積極的である、この少年は見所がある、ということで船長がうちに来なさい、学校にも出してあげるから、と言われて他の仲間と別れて万次郎だけ船長さんの家に連れていってもらう。アメリカの東海岸のフェアヘブンという町でした。
 そこで16才の少年が小学校3年生くらいの所へ入れてもらったらしいです。初めは英語が話せないのでからかわれたようですが、次第に言葉がわかってきてまじめに勉強して、一生懸命努力しますからそのうち模範生になりまして、町で今でも言い伝えられているそうです。万次郎は町の模範少年だったと。悪ガキがたしなめられる言葉として、万次郎を見習いなさい、これが当時の町の合言葉だったそうです。
 アメリカの学校を出た後、商船学校も出ると捕鯨船に乗ったりして一生懸命お金を貯めまして、どうしても日本のおフクロこ会いたい。このままアメリカにいるのはイヤだということで、恐る恐る琉球に上陸してみますと、牢屋にぶち込まれるどころかそんな貴重な者がいたのか、というので薩摩の殿様や土佐藩の殿様もアメリカの事情を聞いております。また幕府に江戸へ呼ばれますと、おまえは武士になれ、ということで漁師の息子が突然上級国家公務員になったようなもので、今回は咸臨丸には通訳として乗っていました。アメリカの捕鯨船の船長までしておりましたから、もちろん船に強いです。しかもブルック大尉の英語を日本人にどんどん伝えました。
 でも万次郎さんの立場は微妙でして、日本的な教養というのはほとんど身に付けないままアメリカで学校教育を受けてきて、日本でいきなり侍になってしまった。これは中途半端な立場ですね。ですから日本人たちに、漁師あがりなのに偉そうな口を利いてと、みんながら嫌がらせも受けました。瀬戸内海の荒くれた海の男たちも咸臨丸に乗り込んでおりまして、お前の言うことなんか聞けるかといわれたり、でいやな立場にもなりました。


 船酔いで動けない勝海舟


 ブルック大尉の言葉を正確に日本人に伝え、日本人が操縦法を身に付けていくというのが咸臨丸での万次郎の本当の役割でした。さて肝心の勝海舟は何をしていたかというと、ブルック大尉の日記によると船酔いがひどくてほとんど寝たきりだった。「勝海舟は今日も寝たきりで出てこない」、たまに機嫌がよいと「今日は甲板まで上がってきた」わざわざ書いてありますから、よほど珍しかったから書いたのだと思います(笑)。
 実は咸臨丸は、サンフランシスコからの帰りにもアメリカ人にまた乗ってもらいたいと木村摂津守が頼みました。すると4人が承知してくれました。ただし4人は条件を出しました。何だと思いますか。それはごく日常的な条件で、コックを雇ってくれということでした。日本人の食事で一番嫌われたのはお香こう、タクアンでした(笑)。例えばポーハタン号に乗っていった日本人77人は、原則的に自炊でいきました。米のほかに、味噌、醤油、漬け物の樽ををどっさり詰め込んで、臭いと嫌われました。
 さて咸臨丸は、コックを一人雇うことになりまして、アメリカ人船員が前払いしてもらった給料から食費を渡すと、コックは町で食料を買って乗り込んで来ました。こうして5人のアメリカ人に乗ってもらって日本へ帰ってきました。帰りは日本人もかなり上達したので咸臨丸を動かせるようになっていたようですが、ともかく日本人だけで行って来たとはとてもいえない。
 ところが帰国後咸臨丸は、勝海舟や福沢諭吉が「日本人だけで太平洋を横断して行って来た、といってほめられたよ」と言ったり書いている。その耳ざわりのいい言葉を明治以降の日本人は信用して、日本人だけで行って来た咸臨丸と、吹聴されています。
 その反面で、ポウハタン号で渡米した遣米使節が運んだ安政条約は不平等条約であとで改正するのに明治政府が苦労した。そんな条約を結んだ連中なのだから学校でていねいに教える必要はない、という傾向で私たちは教育を受けてきたように思います。ですから教科書にはこの遣米使節一行のことがよく出てこないのです。本や辞書で遣米使節のことを見ると、万廷元年アメリカヘ派遣されたと1行あって、次の3行くらいは咸臨丸に話が移ってしまっている。ポイントがずれてしまっているのですね。


 福沢諭吉

 私は勝海舟に反発して、ひがんで言っているわけではございません。例えば、いま発行されているこの本は週刊の「再現日本史」といって講談社発行のグラフィックで非常におもしろい本です。今年7月31日号の表紙の大きなタイトルは「37日間の大冒険、咸臨丸アメリカヘ」と書いてある。次のページは勝海舟、木村摂津守、福沢諭吉の3人の大きな見開き写真です。
 この福沢諭吉について申しますと、このとき木村摂津守の従者として付いて行った。論告はそれまでオランダ隠を習っていたのですが、どうやらオランダ語よりも英語でなければだめらしいと気づいた。英語をもっと勉強しようと思っていたところ、日本から船を派遣するということを聞き、何とか自分も連れていってほしいと考えた。
 そこで木村摂津守のお宅へ出入りしている医師桂川周甫に紹介状を書いてもらって木村を訪ね、勉強したいのでどんなことでもしますからとお願いしたところ、木村は変わったやつが来たと思った。そして「いいよ」という返事で従者に加えてもらえた。実におおらかな話ですが、この当時の一般的な考え方として、主人がアメリカヘ行くと決まると家来は戦々競々として、なるべく自分は従者として指名されないように努力した時代です。


 咸臨丸症候群

 さてこの本ですが、咸臨丸の3人と後ろの風景は古いサンフランシスコの町の写真、次のページがアメリカの町の中で歓迎されている様子で「サムライ熱烈歓迎」と言うタイトルが書かれていて、大勢の人だかりかあります。馬車に乗せられた日本人一行と日の丸が写っております。日の丸は一つではありません。この大きなホテルの各階の窓すべてに日の丸とアメリカの星条旗です。大歓迎されたのです。
 かっこいい写真なのですが、ただこの場所が問題です。じつはここはニューヨーク・ブロードウエーのメトロポリタンホテルの写真です。ですからここに写っている馬車の中の日本人はサンフランシスコから日本へ帰った咸臨丸の勝海舟たちではなくて、メトロポリタンホテルの前で歓迎を受けている小栗さんたちの一行なのです。けれども表紙から順に見ると、咸臨丸アメリカヘ、勝海舟たち3人、そして熱烈歓迎という写真、とくれば誰だって勝海舟たちが歓迎されている写真と錯覚してしまう構成です。さらに次のページでやっと載っているのが、小栗さんたち一行の本当の使節です。こういう描き方が明治以後されてきた。名づけて咸臨丸症候群とでも申しましょうか。


 パナマで株式会社を理解

 さて使節一行は、咸臨丸一行と離れてサンフランシスコから更に南へ下がります。パナマでポウハタン号を降りて、汽車に乗ります。乗った汽車の絵がこれです。
 このとき正使、副使、監察の3人は家来を9人ずつ連れていきました。その小栗上野介の従者9人の中に私どもの村、倉渕村権田の名主佐藤藤七がいて、藤七の書いた日記の汽車の絵がこれです。この当時の汽車は上等席は後の方でした。前の方は煙たくて音もうるさかった。後ろに乗った小栗さんたちは何を見たり聞いたりしたのか。残念ながら小栗さんの記録したものはわかりませんが、一緒にいた幹部クラスの人の日記に小栗さんの質問ではないか、と思われるアメリカ人の答えが載っております。
 「この鉄道の施設はいったいいくらかかって、どのようにして資金を工面したのか」という質問の答えです。「鉄道建設の総費用700万ドル、金はアメリカ国内の裕福な商人から資本を出してもらって組合をつくって、その鉄道組合で鉄道施設を建設し、出来上がると利用する人から利用賃をもらって運営して、利益は資本を出してくれた人に分配する。これをコンペニーという」、カンパ二ーですね。株式会社をここで具体的に理解した場面だと思います。


 日本最初の株式会社・兵庫商社

 小栗さんは江戸にいた頃から外国人の商社や株式会社を知識では知っていたと思います。しかし、そういう組織でこのような事業や施設もつくれるとなれば、幕府が少ない予算を苦労しなくても、民間資本を使えば新しい事業を興せるということに気がついた。日本に帰国すると、日本で最初の株式会社を設立しました。兵庫商社といいます。今の神戸の港を外国人に開くにあたっての商社の設立です。その趣意書にこうあります。
  「こんど兵庫の港を開くについて、これまで横浜・長崎の港を開いてやってきたのはやり方がまずい。どの国も港を開くと、その国の利益になっている。ところが日本の商社は薄元手、つまり小資本の商人が、元厚手(大資本)の外国人商社組合の商人にぶつかるから日本の商人同士が競争させられて、利権は外国商人に持って行かれている。これは商人個々の損得の問題ではない。ひいては国の損得に関わる問題だからやめさせたほうがいい。今度兵庫の港を開くにあたっては大阪の商人20人ほどを選んで資本を出させ、商人組合を設立し、役員・定款を決め、加入したい人は−株いくらで誰でも入れるようにして、その組合を通して貿易をするようにしたい。その利益でガス灯・電信設備を設ける、鉄道を敷く」と提案します。認められて日本で最初の株式会社兵庫商社が設立されます。ただ残念なことに明治維新によって半年ほどの活動で解散してしまったので、写真もなくお話だけになってしまいました。


 小布施の船会社

 次は長野県の小布施町です。この町には葛飾北斎の絵がたくさん残っており、北斎館という美術館もあります。岩松院という曹洞宗のお寺では本堂の天井に赤い鳳凰の大きな絵がありますね。本堂の真ん中に寝そべってみて、どこにいても目玉がそちらをにらんでいる、と説明を受けて「ホーオー」(笑)、とご覧になったでしょうが、町にたくさん残っている北斎の絵を核にして、町づくりをしたところ有名になりました。その小布施になぜ北斎の絵が残っているかというと、北斎を迎えた人物が高井鴻山。町の豪農で豪商で、若い頃京都や江戸で勉強した絵描きであり学者であるスーパー人間。その高井鴻山が北斎と知り合いだったので、晩年80歳を過ぎた葛飾北斎を呼んだために絵がたくさん残っているのです。
 小布施岩松院の説明看板さてその高井鴻山が幕末に松代藩に出したの提案書がございます。
  「最近外国との貿易が盛んになって、日本の物産で好まれるものが多い。ついては幕府の船、官船を借りうけ新潟の港を使って船会社を起こし、新潟の財力と信州の人材で、‥・ちょっとここのところは新潟の人が怒り出しそうですが(笑)、‥・船会社を設立してこの地域の物産を売れば外国人に売れる。そうすれば地域の物産振興につながるし、ひいては国民利福の道へつながるからぜひつくりたい。このやりかたは小栗上野介から示唆を受けた」とはっきり書いてあります。
 先程の岩松院の本堂の横の方へ行くと高井鴻山の顕彰碑が建っています。碑文を読みますと小栗上野介の名前がしっかりと彫ってあります。ただしこの船会社は明治維新によって徳川慶喜が引っ込んでしまったので、小栗上野介は勘定奉行を免職となって、権田へ引き上げてしまったから実現を見ないままに終わって、幻の船会社になってしまいました。
 高井鴻山ががっかりしているところへ、小栗さんが勘定奉行をやめた後の会計総裁となった大久保一翁から高井鴻山宛に手紙が届きました。江戸は今大変だから、重病の患者を診るくらいの気持ちで至急に出てきて手伝ってほしい、とあります。ところが高井鴻山は江戸へ行きません。小栗さんのいない江戸には行きたくない、として代わりにお使いの者を行かせ、神田駿河台の小栗さんの屋敷へ挨拶させています。


 築地ホテル
 株式会社の三つめは築地ホテル、日本で最初の本格的なホテルです。いま広重が描いた築地ホテルの錦絵が私どもの寺にございます。この築地ホテル建設のてんまつは「こんど江戸に外国人が住むようになるので外国人向けのホテルが必要だ。ついては土地は幕府が無償で貸すから誰か民間資本を集めて建設して運営すれば、利益は自分達で分配してよろしいから、やる者はいないか」という呼びかけが小栗上野介の指導であった。私にやらせて下さい、と名乗り出たのが清水建設の二代目清水喜助という人物でした。
 ホテルの場所は築地の魚市場へ入っていく途中の左側で、ここに総二階建、和洋折衷の建物で、三層の展望台がついている。水洗トイレ、部屋は102室、ビリヤード室、バーがついていました。設計はアメリカ人がやったけれど、最初からこういう規模でやりなさいと小栗さんが示しました。どうして小栗さんにホテルの規模を示せる知識があったかといいますと、小栗さんがアメリカで泊まったホテルが超一流のホテルでした。慶応3年に着工し、慶恚4年の明治維新の時には完成しております。残念ながら明治5年に火事で焼けてしまって今はありません。


 ワシントン海軍造船所見学

 パナマから大西洋側へ出るとロアノウク号という軍艦でワシントンヘ到着しました。
 まずホワイトハウスで日米通商条約の批准書を渡しますがこの話は省略します。ワシントンで、色々なものを見た中で小栗さんにとって一番役立った見学だ、と思われますものをお話します。
 この写真はワシントン海軍造船所を見学したときの記念写真です。造船所を見学すると言うので行ってみますと、船だけ造っていると思ったらそうではなかった。たくさんの建物があって、案内されますと建物ごとに日本人の進行に合わせて一番大事なところを見せてくれた。最初の建物では大砲をくり抜いて作っていた。キリでたちまち穴をあけてしまう。次の建物へ行きますと大砲の弾がどんどん作られている、ライフル銃がどんどん組立てられている。小銃の弾がいっぺんに100発も作られる。鉄を曲げる、延ばす、たたく、そういう作業が、日本で何十人もが何ケ月もかかってひっぱたいているのを、蒸気の機械で数人でたちまちこれを行ってしまう。呆気にとられて見ている。ある文章では、鉄を切るのにさながら豆腐を切るがごとし、と書いてあります(笑)。もうとにかく驚いた。
 ニユーヨークタイムズなどの新聞記者がその模様を取材しておりまして、「日本人は大変熱心に見ている」「中でも小栗は、近い将来こういう施設を日本にもぜひ作りたいと語っている、彼は新しい文明の利器を導入することに大賛成だと言われている」と書かれている。そうやって造船所を見学してきました。
 ついでにいいますが、さきほどのこの本「再現日本史」では同じ写真を「ワシントン上陸後の記念写真」としています。こんな説明はないですね。ひどい説明です。上陸後は間違いないですけど、そんなもんじゃなくてこの造船所の見学が日本に戻ってきてから横須賀の造船所、日本で最初の本格的な造船所につながっていくわけですから、もっとこれは意味のある写真です。
 そして、この写真は大変いい写真だと私は思っています。何がいいかというと、日本人が毅然として写真に撮られています。こんなにいい顔や態度をしているのかというくらい毅然としていますね。司馬遼太郎さんという作家をご存じかと思いますけど、あの方がこの写真を見て誉めています。この十年後に日本人を撮った代表的な写真が岩倉使節団の写真です。岩倉さん達がアメリカに行きまして写真を撮っておりますけど一口で司馬遼太郎さんの文章で片付けられています。なんて書いてあるか、「品下がる」、品がない、と書いてあります。小栗さん達は誠に堂々としており、いい写真だなあと私も思っております。


 ドレイの絵


 ワシントンからニューヨークに移りましてフィラデルフィアでも色々なことがありましたけど、このあとの時間の都合もありますので省略いたします。フィラデルフィアからニューヨークに出まして、ニューヨークからアフリカのロアンダ(アンゴラ国)に来て見たものは、黒人が数珠つなぎ、首鎖でつながれて荷物運びをさせられている姿です。これは小栗さんの家来の一人としてついていった肥後熊本藩士木村鉄太という人の日記に絵が残っています。何人も数珠繋ぎになって荷物運びをさせられ、鎖の端はポルトガル人が握ってコントロールしている様子を描いています。驚いたのでしょうね、奴隷をこの様に使う、人間を牛馬のように使う。アメリカにも奴隷はいたけれどこれほどの姿ではなかった。


 ヨーロッパの植民地・香港

 それから香港で見だのは、アヘン戟争で20年前にイギリスに負け、ここを借りるよ、と借りられちゃいまして、香港はイギリスの島になっている。向こうから白人が歩いてきますと、中国人は横へぱっとよけて道の真ん中を白人が歩く島になっていた。日本人が珍しいものですから大勢の中国人がわっと寄ってくると、道をあけろとイギリス人の警察官が注意する。もたもたしていると、どけ、といきなり鉄のこん棒でぶちのめしたというのです。仙台藩の藩士で玉虫左太夫という人の文章を見ますと胸が痛む、と書いてあります。中国は自分たち日本人にとって長いこと先生の国。今でもそういう面がありますね。ところがその中国の島が、もう中国人には手を出せない島になっている。白人の島になっているわけですから、いつ日本がこうなるかわからないという思いで帰ってきますと、帰ってきた日本は大変なことが起きていたのです。


 明治の父・小栗上野介


 万延元年3月3日サンフランシスコに到着する6日前に、日本ではご存知の桜田門で井伊大老が暗殺される事件が起こっています。そうすると、自分たちを派遣した責任者が殺されちゃっている。それで国内の情勢としては攘夷、攘夷。外国人は追い出せ、ぶち殺せという運動が盛んになっています。明治維新まで言っていましたね、攘夷というのは。明治政府になりますと、コロッと黙っちゃった。こんな公約違反はないと思いますけど。日本の歴史上最大の公約違反は「攘夷」でしょうね。幕府を倒したら後は黙っちゃった。
 司馬遼太郎 『明治という国家』とにかく、日本では外国のこと、見てきたことを公然としゃべる人はいなかった。率先してしゃべるとあいつは毛唐かぶれだと、夜中にこっそりブスッとやられちゃった。そういう時代だったんですけど、そういう中で、咸臨丸とポウハタン号を併せて100人を越える日本人がアメリカを見てきて、その中で後の日本の近代化に役立つ仕事を残した人物が三人いる、とあげたのが司馬遼太郎さんの本「明治という国家」です。まず、小栗上野介、そして勝海舟、福沢諭吉この三人が後の日本の近代化の骨組みを作った。中でも小栗上野介は日本近代化のレールを敷いた日本近代の父とも言える、「明治の父」だというネーミングをいたしました。そこまで言ってくれたんですけど、残念なことに司馬さんはそれだけで亡くなっちゃった。あの方が若い頃もっと早く気がついてくれればよかったんですけど。ちょっと遅かったでず。


 横須賀村から 


 少し途中を省略して帰国5年後1865(慶応元)年の横須賀の話をいたします。
 まず申しますのは「横須賀市に造船所を作った」のではないというお話です。言葉のあやですけど「横須賀村に造船所を作ったら、明治以後名前が広がって横須賀市になった」のです。横須賀というのはこの付近だけのことで、ここに造らなかったとすれば、隣の長浦湾が第1候補でした。ですから長浦に造船所が作られればこの辺一帯はいまは長浦市だったんです。もし、長浦にも作らないで千葉県にでも作っていれば、たぶんこの辺の名前はもっと歴史のある町の名前、浦賀市になっていたんじゃないかと思います。
 ところが横須賀村に造船所を慶応元年に着工、明治以後どんどん全国的に有名になって知られていくと、廻りの市町村の名前を飲み込んでいって横須賀が広がって、今は横須賀市浦賀と逆転しているわけです。


 富岡製糸工場

 同じようなパターンの町が群馬県にもございます。明治以後こっちが有名になったんで隣の歴史のある町が飲み込まれちゃって、新しい名前の町がそのまま市の名前になっている‥・それが富岡市ですね。江戸時代に富岡藩はなかった。藩があったのは七日市。七日市藩があった。前田家という加賀の前田藩の分家が治めていました。藩邸の跡地は今でも富岡高等学校の敷地になっています。  富岡という場所は明治以降桑畑を切り開いて製糸工場が作られた。七日市の方は家が建て込んでいるから、富岡の広い桑畑を開いて工場にしたら全国に知られて、富岡に七日市の名前が飲込まれちゃった例ですね。横須賀市と同じパターンです。しかも富岡の製糸工場の建物を遣るのには、横須賀で造船所建設を指導していたフランス人技師が建物の設計をして、富岡製糸工場が作られていく。


 中島飛行機

 もう一つ群馬県に縁のある話をいたします。群馬県で自動車を作っている会社、富士重工です。
 もとは中島飛行機。中島飛行機を始めたのは・‥中島知久平。中島さんは飛行機を始める前何をしていたか‥・海軍技術将校で横須賀にいたのです。そしたら、飛行機が飛び始めて、中島さんはこれは武器になるんじゃないかと考えたんですね。船と同じように武器になると。そこでお偉いさんにこれは武器になるからもっと研究したいから予算附けてくれといっても、海軍の幹部は船で偉くなったんだから、そんな訳の分からないものになかなか予算を付けてくれない。新しいパソコンが入ってオタオタする中高年と似ていますね(笑)。それでしょうがない業を煮やして中島知久平さんは、これはもうだめだ、俺は海軍を辞めて自分で飛行機を作る会社を興そうとして、尾島町に興すわけですね。
 それが中島飛行機の始まり。横須賀造船所で働いていた職工さんの中で、エンジン関係に強い男、鉄板に強い男、溶接に強い男、色々な人間をピックアップして、スカウトして尾島に送り込んで、自分はなかなか退職を認めてもらえないで、半年後にやっと正式に海軍を退職できて後から駆けつけて本格的に尾島の飛行機作りが始まっていく。こういうふうに聞いております。そういう意味では横須賀は群馬県とも縁は深い。そういうことを各県ごとにあげるときりがないくらい、横須賀は日本の原動力になっていった。


 ドライドック

 これが1号ドックです。慶応元年に着工してフランス人の指導によって作られました。続いて2号ドック、3号ドック。これらは今でも使われています。ただ簡単に入って見られないのはここが全部現在はアメリカ海軍横須賀基地です。米軍横須賀基地が小栗さんの建設した造船所なのです。そして今でも全部活動しております。ドックの写真をお見せいたします。これが1号ドックで古いもので床も壁も全部石でできています。
 ドックの機能は船を造るのではなく修理です。船は別の船台で造って進水式をする。
 そして使っているうちに船底に穴が空いたり、スクリユーが曲がったり、あるいはほっといても船腹にフジツボがくっつきそのままにしておくと海草もくっついて、最後にはモップみたいになっちゃうんです(笑)。ですから時々クリーニングしなければならない。ドックヘ水を入れて引っ張り込み、ふたを閉めて、水を出して空っぽにしますと、船底まで全部掃除して船底やスクリユーを直し、また水を入れて浮かべてゲートを開けて出してやる。このイメージからできた新しい日本語が皆さんのお仕事の分野の人間ドック。船のドックはふだんは水を入れていないからドライドックと言います。ですから人間ドックも英語の訳で、正式にはhuman dry dockとなります。真木病院さんの看板にもちゃんと書いてあります(笑)。human dry dockは直訳すると「人間を干すdock」となります(笑)。それじゃ恐ろしくてだれも行かないかないから(笑)、人間ドックと言ってます。


 マザーマシン

 5、6年前のこと、横須賀にまだ幕末に買い込んだハンマーが残っているというので、私たちは見せてもらいに行きました。案内されたらこれ(写真)だったんです。半分のアーチがありまして、何だこれはと思いました。ハンマーというから金槌の大きいものかと思ったら、全然イメージが違います。どこがハンマーですかと言ったら、真ん中の金槌みたいなのがハンマーだと言うんです。重さが3トンあるこの金槌が上下して鉄を鍛えている。持ち上げる力はスチーム、蒸気の力によって行なう。あのワシントン海軍造船所と同じです。スチームの力によって落とす。
 呆気にとられて見ておりましたら、工場長さんが「今日は仕事が入っているので動かします」と言うのです。えっ!、130年経ったものが動くんですかと聞いたら、動くという。たちまち真っ赤に焼いた鉄の塊を持ってきて、この下に据え込んで打ち始めました。驚きました。どんどん成型されていきます。打っている写真がこれです。しまった、ビデオを持ってこなかった。まさか動くとは思わなかった、と感激して私は見ておりました。
 ふと思いついて、何を作っているんですかと聞くと、何だと思いますかと工場長さんからクイズか出されました。写真に見えるのは頭の部分だけで、いま頭を打って延ばしている。この台の中に柱ほどの丸い棒が入っていて、キノコのような形になるという。何かなと思ったんですがネジですか、と冗談で答えたらそうです、ネジです、ボルトです、と言うのです。こんな太いボルト何に使うんですかと聞くと、秘密ですよと言って、教えてくれました。今はもう退役して空母キティフォークに入れ替わりましたが、その前の空母インデペンデンスのボイラーに故障が起きて、ボルトの注文が入っていました。皆さんがこのハンマーを見学に来るというので、じゃあボルトを打って見せてあげようと待っていた。我々が行くのを待って打ってくれたというのです。有り難かったですね。感激しました。
 このハンマーのフレームの下部に浮き彫りで1865と年号が打ってありました。ロッテルダムとも彫ってありましたからオランダ製ですね。130年前にオランダ製の機械を購入して、横須賀の原動力になったということです。私は感激していました。そうしたら工場長さんが「これですぐ船を造ったんじゃないです」というのです。私はいやなこというなあと思いまして、横須賀のシンボルじゃないですか、これで船を造ったんでしょう、と言うと、工場長は「考えてみて下さい。この時代に日本製のボルト一本、ドライバー一本なかったのですよ」と。まず、このハンマーで造ったのはドライバーを造る機械、ボルトを造る機械、部品や工具を造る機械を造っていった。それから部品や工具を造って、それから船造りに入る。一番はじめにこういう大きいハンマーがないと何事も始まらない。ですからこのハンマーのことを職場ではただのスチームハンマーと言いません。他の小さいスチームハンマーとは区別してこれだけは別の名前があるんです。何と言うんですかと聞きますと「マザ−マシン」。「母なる機械」ですね。全ての機械の大本だと言うのです。マザーマシン、いい言葉を教えてもらいました。そうだったのかと、私も感激しました。


 土蔵つき売り家の栄誉

 小栗上野介はたしかに横須賀造舶所を造ったけれども、あれは徳川幕府を強化するために造った、といってけなす歴史家が多いのです。横須賀建設の現地責任者をしたお医者さんで、後の幕府の勘定奉行もした栗本鋤雲という人がいます。もとは喜多村という姓で、『夜明け前』にも喜多村瑞軒という名前で出てきますが、幕末に栗本鋤雲という名前で活躍しています。
 栗本さんはフランス語ができて若いときから小栗さんと友達です。あなたはフランス語が出来るんだから、横須賀の現地責任者をやれと小栗に頼まれます。明治以降はジャーナリストになりまして、報知新聞を興したりしています。明治中ごろに彼が書いた『匏庵遺稿』という文書が残っています。「俺はドックなんか見たこともないのに造らされた。苦労した」と書いてあります。その中で、工事が始まるめどがついたころ俺は小栗に聞いた,,おい幕府は金がなくて大変だろう、どうするんだ大丈夫か。すると小栗は、まあ幕府はたしかにいまやりくり身上だよ、そのままやりくり身上でほっておけば、あっちに無駄に使い、こっちに無駄に使ってだめになっちゃう、無くなっちゃうから、今どうしても必要だから横須賀造船所を造るんだといって始めれば、節約された金が集まってきて形があるものが残る。そうすればいずれ土蔵付売り家の栄誉が残せるよ」と、おもしろいことをいう。
 土蔵付売り家。‥・とは母屋が売りに出るとき門がついたり蔵がついたりしていれば立派な売り家です。この造船所は売家につけてやる土蔵だとなる。母屋はなにが、これは徳川幕府が預かっている政権を意味します。もうだめだ、徳川のこの所帯は保たない。人事的にも、組織的にも行き詰まってしまっていることはアメリカヘ行って来てよく分かっている。けれども、新しい家主が住むについても今造っておけばいずれこの土蔵が役に立つだろう、と言って彼は笑っていたのです。栗本さんは明治の中頃にそれを思い出して、私はその時は一時の諧謔、つまり冗談だと思った。ところが、明治の今になってみると、彼の言ったとおりになって横須賀は役に立っている。そうするとあの時の彼の心中を思うと誠に胸が痛む、と書いています。


 先見力

 9月末に群馬会館で講演された作家童門冬二さんが、シンポジウムで小栗さんは先を見ていた、勝海舟も先を見ていたというけれど、どう違うのですかと質問がありました。童門先生は、確かに勝海舟は先を見る力は強かったけれどもそれはこの辺まで、小栗上野介はもっとはるか先を見ていた。その違いが出てきた。今130年経ってようやく彼の業績が人に認められ、もう一度見直す必要があるといわれるのはそこですよと言ってます。


 農民の義の心

 さて、そろそろまとめをさせていただきます。小栗さんの顕彰についてはいろいろ申し上げたいこともいっぱいあるのですけれども、例えば小栗夫人について申し上げます。
 小栗さんが倉渕村の河原で殺されてしまいますと、小栗夫人と、小栗さんのお母さんと、それから高崎で殺された養子の又一さんのお嫁さんとして来ていたよき子さんという15歳のお嬢さん、この3人の女性を守って権田の村人は六合村から野尻湖を越え、山を越えて、秋山郷へ出ました。苗場山の真後ろです。それから新潟へ出て、新潟から会津へいった。会津戦争さなかに小栗夫人は女の子を産んでいます。
 会津戦争には権田の農民が何人も参加して戦い、2人の若者が戦死しています。戦争が終わると村人は明治二年に小栗夫人たちを守って東京へ出て静岡へ送り届け、村に戻ってきています。よくやってくれたな、と私は思っています。それだけのことを農民があの時代にやってくれたから、今私がこうして小栗さんのお話を皆さんの前で胸を張って出来るのです。時代が時代ですから、山の中へ放り出して逃げてきても、言い訳をすればその時は済むことだと思います。ただしそのときは言い訳ですんでも、100年経って私達残された村の者は大きい声で小栗さんの「オ」の字も言えない村になっていたと思います。そういう意味ではあの時代の人たちがよくやってくれたなと思います。村へ帰ってきても、主人の小栗さんは殺されてしまっているわけですから、一銭にもならない。金にならないことでもきちんとやるべきことをやった。これはありかたいことだと思います。


 東郷平ハ郎の書

 小栗さんの功績を最初に認めたのが実は東郷平ハ郎です。明治政府は殺してしまったままだった。 明治45年の夏に小栗さんの遺族を呼んで、東郷さんはご馳走をして挨拶をします。日露戦争でロシアの艦隊バルチック艦隊を完全に打ち破ることが出来たのは、小栗さんが横須賀の造船所を造っておいてくれたお陰です。一言お礼を申し上げたかったのですと、礼を言う。ただそれだけだったら作り話ではないか、と言われそうですが、有り難いことに証拠が残りました。お手元のカラーのパンフレットの写真の書額で、これを書いて贈った。横額で仁、義、礼、智、信と書いてありますこの額は、4年前までは子孫の方がもっておったんですが、平成9年130回忌の法要をしたいからと案内をしましたら、子孫の方がこれを見てもらえれば、私の曾祖父の名誉回復につながるだろうからお寺に寄附するということで贈ってくださり、今本堂に掲げて見てもらっています。


 五常の徳目

 書かれている仁義礼智信・・・は儒教の徳目ですね。五常とも言いますけど。人間は仁の心をもちなさい、義を重んじなさい。まさに権田の村人の行った行いは人間として見拾てておけない気持ちになって損得抜きでやった行動、これを義と言います。この義の行いをしてくれたんだなと思います。そういった意味でようやく最近になって、多くの方か小栗さんのことに関心を持って下さっている。有り難いことだと思っています。


 群馬会館のレリーフ


 誇るべきことには、群馬県でも昭和5年から顕彰しておりました。証拠は群馬会館で、二階ホール入口のところに、昭和5年に群馬会館が出来上がったときに、完成祝として当時の上毛新聞の篠原さんという社長さんが記念にレリーフを贈り飾られました。群馬の偉人として小栗上野介と高山彦九郎の像をレリーフにして2枚贈って、はめ込まれていました。ことばが過去形になりましたが、赤城国体の時に会館を大改修したらそのまま外して、地下の物置に保管してありました。今年の国民文化祭に際して、私は国民文化祭自主企画参加で寺で借り出して展示し、新聞にも書いてもらいましたら、またはめ込んでもらえるような動きが県に出始めてよかったと思っています。


 めぐり合わせ


 もう一つ因縁話をして終わりにしようと思います。その篠原さんという社長のことです。先程鈴木理事さんに紹介していただいた、上毛新聞社からきのう発売になったばかりの私がまとめた本「小栗忠順従者の記録−佐藤藤七の世界一周−」は、権田村の名主佐藤藤七の世界一周の日記と、もう一冊のメモ帳で英語の単語帳などが書かれている冊子をまとめたものです。その原本を持っている方が中島さんという東京にお住まいの方ですが、中島さんのご主人の先祖を辿ると、会津へ行って来た護衛隊長の中島三左衛門の分家になります。
 その中島未亡人の娘さんが昭和の30年代に結婚したお相手がなんと上毛新聞の篠原社長の息子さん、こういう繋がりになっていることがわかりました。篠原さんからも電話を頂戴いたしまして、とにかく不思議な縁だった、私も戦後に篠原のところへ嫁に行ったときはレリーフのことは知りませんでした。今度レリーフのことを知って驚いた。不思議な縁だと思います、とこんなふうにおしゃっていました。最後は因縁話になってしまいましたが、巡り巡って来た話だと思っています。ともかく群馬でも古くから小栗さんの顕彰をしてきたのですけれど、途中で途絶えてしまった部分もある。最近ようやく大勢の方に認知してもらえてきた、また童門先生が上毛新聞にこの一年間、「小説小栗上野介」を連載して下さったのも大変有り難いことと思っています。
 今日は貴重な機会を頂戴いたしまして、時間をオーバーして申し訳なかったのですが、お話申し上げました小栗上野介の業績の一端をご理解頂けたら有り難いことだと思っております。私共の寺はここから約50分位ですのでどうぞ軽井沢、草津のお帰りでも寄って頂けたらと思います。山のおいしい清水も庭先に出ていますので、どうぞ飲んで頂ければと思います。ありがとうございました。(拍手)
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