小栗上野介略年譜 | ||||
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文政10 | (1827)年 | 6月23日 | 江戸駿河台に生まれる。幼名 剛太郎。 | |
天保 5 | (1834)年 | 8歳 | この頃から漢学・剣術・柔術・砲術を学ぶ。 | |
天保14 | (1843)年 | 17歳 | はじめて登城、将軍に初見得 | |
弘化 4 | (1847)年 | 21歳 | 部屋住から城中出仕となる。 | |
安政 2 | (1855)年 | 29歳 | 父忠高病死。跡目相続し又一と改名する。 | |
安政 4 | (1857)年 | 31歳 | 12月16日 | 布衣従六位相当に叙される |
安政 6 | (1859)年 | 33歳 | 11月21日 | 従五位下諸大夫に任命される。豊後守に任ぜられる。 |
12月1日 | アメリカヘ条約批准の目付として命ぜられる。 | |||
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安政 7 | (1860)年 | 34歳 | 1月18日 | 条約文書交換のため米艦ポーハタン号で品川を出帆。 |
万延元 | (1860)年 | 3月28日 | ブキャナン大統領に謁見。 | |
(3月18日万延と改元) | 4月 3日 | 外国事務宰相レウス・カスと会見、条約の批准を交換する。 | ||
9月28日 | 横浜帰着。 | |||
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11月 8日 | 外国奉行に任ぜられる。 | |||
文久元 | (1861)年 | 35歳 | 4月 6日 | ロシア軍艦対馬を占拠したため対馬へ派遣される。 |
5月20日 | ロシア艦長ビリレフと折衝したが成功せず談判中止。 | |||
文久 2 | (1862)年 | 36歳 | 6月05日 | 勘定奉行(勝手方)に任ぜられ、上野介と改める。 |
閑8月25日 | 江戸南町奉行に任ぜられる。 | |||
12月 1日 | 初代歩兵奉行に任ぜられる。 | |||
文久 3 | (1863)年 | 37歳 | 7月22日 | 陸軍奉行に任ぜられる。 |
元治元 | (1864)年 | 38歳 | 11月10日 | 横須賀製鉄所(造船所)建設正式決定。 |
12月18日 | 軍艦奉行に任ぜられる。 | |||
慶応元 | (1865)年 | 39歳 | 8月 1日 | 横浜にフランス語学校を開校する。 |
9月27日 | 横須賀製鉄所の鍬人穴を行う。 | |||
慶応 2 | (1866)年 | 40歳 | 8月 | 海軍奉行に任ぜられる。 |
慶応 3 | (1867)年 | 41歳 | 12月 | 勘定奉行兼陸軍奉行に任ぜられる。 |
慶応 4 | (1868)年 | 42歳 | 1月15日 | 主戦論を主張し、破れて罷免される。 |
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3月 1日 | 権田村に土着。東善寺を仮住まいとする。 | |||
3月 4日 | 暴徒数千人来襲し、これを撃退する | |||
3月 6日 | 観音山の邸宅予定地を見分する。 | |||
4月22日 | 東山道総督、高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗追補の命令 を出す。 | |||
4月29日 | 東山道総督の命により三藩は追補の兵を三ノ倉に宿陣す る。 | |||
閑4月 1日 | 三藩、観音山等を検分。逆謀私心無き事を知り、銃など を押収して去る | |||
閑4月 2日 | 養子又一、用人塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助を随員として高崎藩へ 無実弁明のため出向く | |||
閑4月 5日 | 三藩の兵、東善寺裏山より侵入、上野介らを縛して三ノ倉の陣屋に引き上 げる | |||
閑4月 6日 | 水沼川原で家臣とともに斬殺される。 | |||
閑4月 7日 | 高崎藩牢屋敷処刑場で養子又一も家臣等とともに斬られる。 | |||
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