日本における寺院・神社の歴史
古代中世のころ

 古代未開のころはひとたち、神は神秘的な形をした山や岩に宿るものと考えた。目に見えない神のいるところはそこがふさわしかったからである。この素朴な自然崇拝に発生した神の信仰も時代が進むにつれ人工的に神社という神の宿る場所をつくり出し、これを氏族の結合や大きくは国家統一という政治的要素を加えて、権力者が人民支配の具に利用するようになった。日本の古代の政治は原始的信仰の力に頼って行われ、神の意志を動かし得る力即ち呪術をそなえた人が最高権力者についたという。つまり政治と祭礼が表裏一体であり、中央では天皇家が、地方では氏族の中心的勢力をもつ氏族の長が祭礼と政治をつかさどった。それは弥生時代後期のころからといわれ、祭政一致の下に国を統率する上には祭神を同じする必要から、神社の祭神には皇室ゆかりの人物が配せられた。日本の神道はこうして形成されたという。


このような形の日本古代の信仰も、やがて仏教の伝来と普及によってその影響を受け次第に変化して行った。


 仏教は奈良時代に日本に伝わり、初めは王朝貴族の間だけ信仰され一般庶民にまでは行きわたらなかった。それはその頃の仏教が造寺・造塔・出家・学問修行・戒律・というように難しい条件を信仰者に要求したからである。それが平安時代末期になって法然上人が現れ、この人が新しい仏教の道を開き、人はただ「間六阿弥陀仏」と口に唱えるだけで極楽浄土にゆけると説いたのが仏教大衆化の糸口になり、多くの人々を仏教の世界へ導き入れるようにになった。即ち古代仏教は、天台・真言宗によって代表され、上流階級だけのものであったが、、法然が生んだ新仏教浄土宗は、庶民のものとして法然の教えを受けた後継者によって、更にまたいくつかの宗派をつくりながら、仏教を民衆の仲に広めて行くた。一方古代仏教の天台・真言宗もこの影響受けて民衆の仲に入る方法がとられ、修験道を開いて神道と結びつき深く民衆の世界に入って行った。こうして鎌倉時代のころになると、新旧ともに新しい数々の分派を生みながら日本人の精神生活の中に定着して行った。


仏教が日本社会に浸透するに当たっては、古来の信仰である神との融合がはかられた。もともと日本人の心の底にながれていたものは神への信仰であり、その中の仏を迎えいれることには抵抗があった。そこで神と仏の信仰を融け合わせ、神の仏も本来一つのものであるという説を立てた。これを本地垂迹(ほんじすいじゃく)説という。本地というのは本体のことで、信仰の本体は仏であるが、日本では仏が人を救うためにかりに神という形になって現れた(垂迹)というのである。たとえば天照大神の本地は大日如来(密教ではこれを宇宙の根源と説く)で、この如来が日本に渡ってきて仮に天照大神に姿を変えたようなものである。


 こういう巧みなせつめいをして、古来からの神道に凝り固まった人々の頭を和らげ、仏教は広く国内に浸透していった。とくに密教系の天台宗は、その教義が神秘的なところから深山幽谷の神社と結びつき、これを根拠地として布教活動を広め、中世以降急速にその勢力を伸ばして行った。このような神仏混合の神社は同じ社域内に神社と寺院が同居していて、一方では菩薩をまつり、一方では神をまつっていたが、この場合明神といわず、権(かり)に姿を現したものつまり権現と呼んだ。これらの神仏混合の神社は、従来の神道に基づく神社と異なり、山伏・修験者・神人(じにん)等を多く抱え、この人達による布教活動が活溌に行われたので、その神社の名声を高めると共に、地方に分祀もおこなわれるようになった。地方民の請に任せて分霊することからこれを勧請(かんじょう)という。いま全国に諏訪・浅間・八幡・熊野・天満・稲荷などの同じ名前の神社が無数にあるが、これははみなか勧請によって生じた神社である。



権力者の宗教支配

 中世以降武士の勢力が抬頭し、祭礼者の権力関係はかわったが、その伝統は失われることはなかった。そして江戸時代に至り、乱世を収拾して統一政権を打ち立てた徳川氏は、国内の叛乱を防ぎ、平和を維持するために各種の法度を出したが、寺社についてもこれを統制し、寺社の勢力を完全に掌中に収め、これを幕府の意のままに支配できる政策をとった。即ち慶長一八年(1613)幕府は江戸に東叡山創立し、天台宗の本山である比叡山延暦寺の勢力を削ぐために関東天台宗法度を出し、東叡山に比叡山をしのぐ特権を与えた。また、各宗・各派に対しては個々に法度を出して、僧侶の世俗的勢力の拡大を禁止した。次いで寛文五年(1665)諸宗寺院法度・諸社禰宣神社法度を定めて、本寺・末寺・本社・末社の関係を明らかにさせた。本寺・末寺・本社・末社の制度は、すべての寺院・神社を本と末の関係につなぎ、階層的構成に組み立たえたもので、末寺・末社は何事につけても本社の命令にしたがわなければならないものとした。こうすれば幕府は、本寺・本社を押さえることによって、その宗派全体の寺社を統制に服させることができたのである。


 このような統制の下に以後二百余年の歳月を経過し、その中で寺社は推移してきたのであるが、慶応四年徳川幕府が崩壊し、新たな新政府が樹立されると寺社の政策にも転換が行われた。明治維新をなし遂げ新政府を樹立したひとたちは、国粋主義者の意見をとり入れ廃仏毀釈を行った。即ち慶応四年(1868)三月布告を発し、「このたび王政復古、神武操業の始に基づき、諸事御一致の御制度にかえる」と宣言、神を祭ることを政治の重要な部門とした。そしてその四月神仏混合の廃止令を出し、神社から仏のしめだしを命じたのである。これより、これまで神社に仕えていた僧形の別当とか社僧には還俗を命じ、また仏像をもって神体としていた神社はこれを取り除かせた。このため、中には暴力的に仏像を破壊し、貴重な文化財を失ったものもあった。 


 政府は、更に神社制度を集権化するため、慶応四年五月政府内に神祇官をおき、全国の神社・神主はすべて神祇官の指揮下に組み入れた。そして明治四年一月になると「社寺領上知令」を発し、これまで御朱印・墨印等によって保証されていた社寺領は、境内地を除きすべて返上を命じた。その代わりとして、その年の五月「社寺録制」を定め、全国の寺社と諸社の二階級に分ち、また、各町村の代表的神社に村社の社格を与えてその保護当たらせた。よく五年布達をだし、維持困難な小社を合併整理を促した。


 明治初年の欧米勢力侵攻の脅威を脱し、その後日清・日露の両戦役を経験した日本は、一層国粋主義に徹し、国民精神涵養のため益々政策を強めて行った。即ち明治三十九年命令を発して、府県・市町村に対し、神社の維持管理祭礼の方法を指示し、氏子の少ない神社を統合させたり、統合せず存置するものについては、その運営に足る基本財産を積み立てさせ、祭礼を完全にするように監視した。


 このときの措置より、神社に村社・無資格の区別ができた。村社というのは村費から神饌幣帛料が供進されるもので、春秋の例祭には村長が供進として参拝した。各大字、つまり合併前の旧村単位に一社を基準とし、氏子数の多い神社がえらばれたから、旧村の区域に二ないし三社あった場合、指定された以外ものは無格社となった。無格社といっても氏子と氏神の従来の関係は変わらず、祭礼は従来通り行われ、その上大字単位の村社の氏子も加えられたものであるから産土神として親近感はなく、ただの形式的な氏子に過ぎなかった。


 こうして、もともと土地住民の地縁的信仰対象であった神社は、国の政策により中央集権的に統制され、軍国主義・国家主義づくりのための精神・思想の高揚のために利用されて行った。



 信仰の自由

 昭和二十年八月、終戦と共に日本を占領した連合軍は、日本の軍国主義が日本古来の神道を大きく利用していたことを改めさせるため、よく二十一年一月「神道と国家の分離令」を出し、国が神社に対して保護、支援する行為を禁止した。


 この指令の実施により、明治四十年つくられた官弊・国弊・県社など社格は廃止され、どの神社も全く同じ扱いを受けることになった。そして二十二年五月から施行された新憲法でも、第二十条において信教のことを規定し、「信教は自由である。いかなる宗教も国から特権を受けない。何人も祝典・儀式・行事に参加することを強制されない。国は宗教教育、宗教活動をしてはならない」といって永年にわたって特殊的地位を保って来た神社・神道は一般宗教並に扱われるようになった。


上記 昭和50年発行『倉渕村誌』より抜粋
倉渕の神社・もろもろの神仏
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