倉渕の神社・もろもろの神仏

 戸春名神社・権田の椿名神社・裾野神社(榛名山信仰に関係ある神社)
 三ノ倉の戸春名神社・権田の椿名神社・それに明神の裾野神社は、共に榛名信仰に関係ある神社といわれる。榛名神社、は平安時代末期から江戸時代にかけて広い信仰圈をもち、霊験あらたかなりとしてその影響力は大きかった。したがって、榛名山周囲の山砦こ帯にはこのような神社が数多くある。これらの神社は、その原始的創始は別なものであったのであろうが、中世以降において、榛名信仰の影響を受け、榛名神社に関係あるものに変わったと考えられる。
 榛名信仰というのは、榛名神社の神徳を信じこれを尊崇するもので、その起源は平安時代末期であり、この頃巌殿寺(中世以降の榛名寺の名称)の僧正を座主とし、神仏混合の神社として名を広めた。江戸時代中期に入っては、五穀豊穣・火伏せの神として一般庶民の信仰が厚く、県内外からの参詣者引きも切らず、山内には社家町ができて数多くの坊をもち、これが榛名講の代参にくる人たちを迎えて非常に栄えた。この榛名信仰をつくり出した榛名神社は、延喜式にその名が出て居り、もとは古来の神道に基づく神社であったが、仏教の普及によって神仏混交の神社に変えられた。中世における呼び名を榛名山満行権現と呼び、とくに武士の信仰か厚かった。
 榛名神社が本来の神から神仏混合に変えらたのは、榛名の山岳が持つ神秘性が、当時の密教の教義と結びつしたからで、密教を奉納る山伏・修験者の修道の場所として充実し、同時にこれらの人達によってその信仰圏を拡げて行った。椿名神社の由来に出てくる天台修験者正福院もその一人と思われる



 諏訪神社
 倉渕の各所に諏訪神社とかお諏訪さまとかいって祭ったところがあるが、これはかつて諏訪信仰が全国的に拡がった時代の名残りと見られる。諏訪信仰のもとぱ長野県諏訪の諏訪大社で、祭神は建御名方命と八坂刀売分の二神である。建御名方命今は大国主命の子で、出雲の国から諏訪に来てここに長くとどまったと古平記に記されてあり、その子孫である諏訪氏によってまつられたという。その民問信仰には時代によって変遷があり、大昔は狩猟神として崇敬され、農耕時代に入ると農業神、そして武家時代になるとさらに武神として全盛をきわめた。この諏訪信仰は全国的あり、分社は北海道から鹿児島まで五千余社もある(『世界大百科辞典』武田政一)諏訪神社は、川浦堀ノ沢の諏訪神社のように明冶年間に村社に指定されたものや神社統合で別のところに合祀るされたもの、或いは小さな祠として存在しているものなどいろいろである。


 浅間神社
 川浦、宮原部落の西に浅間神社がある。社地は裏山を含め一町九反と非常に広く、また社地内には多くの老杉が生い茂っている。
 この神社はその名の示す通り浅間信仰に基づくものである。浅間信仰というのは、富土山の神霊をまつるもので、静岡県富士宮市の浅間神社を総本社とする、古代の人は強力な活火山である富士山そのものを神としておそれ崇拝した。後に権力者が神を利用するにあたって、その祭神を本花咲耶姫と設足したもので、浅間神社本社は延喜大で名神大社に列してしる。中世武家の崇敬厚く、他方への分祀が行なわれ、その数は千三百を数えるに至った。浅間信仰は神社神道を本位としながらも仏教との習合、修験者との提携が行なわれて加持祈祷を修し、江戸を中心に東日本の民衆の信仰を集めた。(世界大百科辞典)



 石上神社・水沼神社
 奈良県山辺郡の石上神宮(いそのかみ)の分霊を勧請した神社に石上(いしがみ)神社と水沼神社がある。石上 (いそのかみ)信仰の祭神は経律主神(ふつぬしのかみ)で、経津主神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と共に国譲りの神話にあらわれ、武神として崇敬されている神である。石上神はまた布瑠神(ふるのかみ)とも呼ばれ御神体は剣である。物部大社(もののべおからし)家が祀ったといわれ、上野国の物部連は、上古、上毛野国を治めた上毛野国に従い大和地方から移住してきたが、のち石上朝臣となり石上部の君を名乗り、更にその後上毛野坂本君の姓を賜わった。物部の分布範囲は高崎の八幡・剣崎方面に多く、戦国時代に箕輪に築城した長野氏も石上神を崇敬し、その城の鬼門に石上寺を建立し、鎮守に布瑠明神を祀ったという(この頃、尾崎喜左雄氏の貫前抜鋒両神社の研究による)。なお尾崎博土は本村の神社のうち水沼神社は旧名古布仕で「ふるの」とよんだが右岸社の転訛であろうといい、また石上神社は、足利持氏の榛名山寄進伏の中に「石神」と書いてあるので、石神様との混同とも考えられるが、水沼の古布社と合せて石上神(いそのかみ)布瑠神を祀ったものと推定されるといってしる。おそらく物部氏系の部族たちが島川上流に武器の原料である砂鉄をさがし求めてこの地域に移住し石上神を伝播分請したものと推測される。


 神明信仰と大神宮
 三ノ倉の東方宿はづれ、高野谷戸部落との問に神明宮がある。この神社は、またの名を大神宮と呼び、神明信仰によって始められた神社である。神明信仰というのは日本の国を開いた天照大神をまつるもので、本社は伊勢神宮である。国の統治の中心を天皇におく思想はは、明治になって強く取り入れられたことであるが、それににおいても、伊勢神方を尊崇する思想は国民の聞に流れてレて、伊勢詣り・伊勢講を行うことが習俗のようになっていた。


 天神信仰と北野神社
 天神信仰というのは、菅原道真を祭神とするもので総本社は京都の北野神社である。天神様は学問の神であると共に、雷除けにも霊験あるものとされ全国各地に勧請された。倉渕にも岩氷上野の北野神社のほか、桑本・堀之沢・西ケ渕・陣田・亀沢・長井等に社があり、また石宮・石碑だけのものは各所にある。


 熊野神社
  俗におくまんさまという。和歌山県熊野にある熊野新宮・本宮・那智宮の三社を尊崇するもので、五穀豊穣の神として.平安時代以降全国各地にその分霊が勧請された。本社熊野三社は山岳重畳の神秘的な山地にあり、早くから霊地として神を祭っていたが、平安時代以降仏教と習合して修験道との提携が行なわれ、御帥・先達・山伏の活躍により全国に熊野信仰が広められた。
 群馬県と長野県の県境碓氷峠に、中世熊野神社が勧請され、ここは山岳重畳の地形が熊野に似ているところから、神社も歌山県の本社に視して三宮をつくり、ここを拠点として関東・信州方面に信仰を広めた。この神社のことを峠神といい、全盛期には十万五千の講員がいたという。当倉渕地域もその信仰圏内にあり、毎年正月になると峠の御師が来て、毎戸にお札を配り米や金を集めて行った。お礼には千羽烏が印刷してあって、農家ではこれを苗代のみな口にさすと害鳥を除け豊作が得られると信じていた。峠の御師のお礼配りは昭和四・五年の頃まで続いたがその後はなくなった。



 八幡宮 
 八幡宮は応神天皇を祭神とすることから皇室の祖神として尊ばれ、また中世以降は一般武士の守護神として信仰を集め各地に勧請された。日本の神社のうちもっとも数が多いといおれるが、倉渕内には極めて少ない。長井・大谷戸・水沼神社内諏訪平・浅間神社内・大反・桑本・西ケ渕・川浦後沢に小祠石宮・石碑がある。


 白山神社 
  三ノ倉森下、川浦石津、及び浅間神社内に白山神社がある。白山神社は、石川県と岐阜県の県境山頂の白山比盗_社を総本社とし、祭神は「菊理姫命」、これを勧請して分祀した神社が全国各地にある。
 倉渕にある白山抑社はいづれも社殿は大きくなく、またいつこの地に分祀されたものか由緒は明らかでないが、浅間神社内のは元は桑本にあって、のち現在のところに移されたものという。


 お天狗さま
  川浦山角落山頂に、天狗をまつった石宮がある。また、川浦小学校の南にそびえる高尾山の頂上にも三体の石見宮があり、雨降山小天狗・雨降山中天狗・石尊大権現と呼んでいる。建立は宝暦十年(一七六〇年)施主川浦中と石に刻まれている。このほか、岩氷の上村と宮原には天狗山という山があり、三ノ倉・下水沼・中尾・中郷・大谷戸などにも天狗をまつった小祠がある。
 天狗は想像上の怪物で、顔が赤く、鼻が高く、人間の形をしていてしかも羽が生えていて自由に空中をとびまわることができる。異常な怪力をそなえていて、強烈な感情、極端な清浄を好み、俗衆の近接を嫌う。隠顕自在、常人の意表に出る行為をするものと信じられ、奇驕な天狗伝説が多い。人が深山に入って仕事をする場合、しばしば災難にうのは天狗のしわざと信じた昔の人々は、天狗の社を建ててまつり神意を慰めた。天狗をつくり出しだのは、深山幽谷の霊地を好んで修行の場とした修験道山伏の人だちと考えられ、その発生は中世の神仏習合以降のことであろう。角落山の天狗社はかなり古くからあったらしく、川浦木の下の塚越家に伝わる古文書「寺社来歴並古蹟書上控」に記されている。
 天保五年、江戸城御用材の伐り出した当ってば、天狗の禍いを免れるため、水沼村役人が同村の修験者月蔵院を連れて高芝の会所に赴き祈祷をした。会所の役人たちもこれを見て、山仕事をする者たちが災難に遭わぬようにと、角落大権現に鳥居の額を奉納すると共に、十両の大金を投じて宮原に郷宮(さとみや)を勧請し、ここに大鳥居を建立したという。この大鳥居はその後腐朽したので、昭和五年に至り地元の人からか世話人となり、寄附を集めて現在のものを再建した。



 稲荷神社と屋敷神
 稲荷社は、京都伏見の稲荷神社の分霊を勧請したもので、伏見稲荷は、はじめ農耕の神として信仰されていたが、後には開運出世・商売繁昌の神として、町人社会の開に広く信仰されるようになった。この神の勧請は中世の頃から行なわれたが、江戸時代になって交換経済の発展に伴い、いよいよ庶民の間にさかんにまつられるようになり、全国各地に稲荷社がつくられた。倉渕内のそれがいつごろのものかはわからないが、現在木造の祠をもち、数戸から数十戸の日落でまつっているものが次のようにある。
 下郷上久保・三ノ倉森下・伊勢森原・暖井・水沼大谷戸・岩氷稲荷木・上村・川浦桑本・梨子本・木の下・西ケ渕・赤竹・権田長井・陣田・山田等
 このような村落の共同でまつるものとは別に、普通どこの家でも屋敷の隅に屋敷稲荷を祭り、これを屋敷神としている。屋敬神は、古いしきたりを守る家では稲荷と共にお死霊様を並べて祭ってある。お死霊様というのは家の先祖を神として祭ったもので、古代の人は家の先祖かその家を守ってくれるものと信じていた。死霊を屋敷内に祭るなどということは仏教的感覚では異様に思えるが、古来の日本神道からすれば先祖を神として祭ることには何の不思議もなかったのであろう。
 昭和四十三年一月に、国学院大学民俗研究会の人たちが本村に入って民俗調査をしたことかあるが、その調査によると、「お死霊様はオシリョウ様・オシロー様・オショロイ様・オシロイ様・オショー様・セイレイ様などと呼ばれ、所在は、畑のふちとか墓などに里芋のような形の石塔にしてあるものもあるが、多くは屋敷の隅に稲荷様と並べてまつられ、自然石をおいてこれをお死霊様としている。お死霊様をまつっているのは古い家に多く、最近は屋敷神をまっる場合も、稲荷様だけでお死霊様はおかないのが普通である。
 このことから、屋敷神は本来お死霊様であったが、近世になって稲荷信仰が盛んになり、家の繁栄を守るものがいつしかお死霊様から稲荷様に代ったと考えられるがたしかなところはわからない。
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上記 昭和50年発行『倉渕村誌』より抜粋
〈関連〉日本における寺院・神社の歴史
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