日々の抄

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  火文字は燃えたが元気ない

2002年11月16日(土)   ジャカルタに住む若者への便り

 雨天のため予定されていた運動会が、一日延期して開催されました。懐かしい火文字の写真を貼付します。火文字係長の経験者としては、出来映えが気になるでしょう。競技種目は毎回いろいろ変わっていますが、開会式の「おふざけ」は相変わらずです。以前に比べ生徒のやっていることは即物的で、知性や「ひねり」というものを感じさせるものは皆無に近くなってきたといっていいでしょう。火文字は以前と変わらず燃えても、「撃滅」に元気がなく(私も撃滅されました)、後夜祭も生徒の中に冷めたものを感じ、少し寂しい気がしました。
 
 先日、久しぶりに「出家とその弟子」を読み直しました。善鸞が父親の入滅の瞬間まで「信じる」と言えなかったのは、あまりに善鸞が潔癖にして純粋だったためなのでしょうか。一方で親鸞の、「わたしには裁くことはできない」という言葉はあまりに暖かいものです。第2幕で、親鸞が唯円に対しての、「淋しい時は淋しがるといい。運命がお前を育てているのだよ。只何事も一すじの心で真面目にやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。何が自分の本当の願いかということもすぐには解るものではない。様々な願いを自分でつくり出すからな。しかし真面目でさえあれば、それを見いだす智慧が次第に磨き出されるものだ。」という言葉は救われる。これが26歳の時の作品だったということも驚きだね。

 全編を通してどろどろした人間的な苦しみ、悩み、もがきが描かれていますが、これらが現代日本人の中の「内なる」問題としてどれだけあるのかを考えさせられました。つまり、多くの人々はその場の雰囲気、周囲の流れの中で飛び出さないことだけに気を遣い、自分のあるべき姿をもつことなく過ごしているのでないか、と。欧米の人々の多くは、意見を求められると、人生観に基づいたと思われる考えをしっかり主張することができる。これに対して日本人は、「・・・・とみんな言ってるよね」と、自分の考えを述べることを避け(たぶん言わないのでなく言えないのだ)、他人に依存し自分が傷つくことを避ける傾向が強い。

 自分のあるべき姿は、宗教と無関係ではいられないのでしょう。

 仏教国と言われる日本は、多神教、ないしは無神論者が多い。神仏混淆が生活の知恵の故なのか不明だが、少なくとも仏様がどのようなことを教えているかは、キリスト教における聖書のように明らかな形で人々に流布しているとは思えない。お寺さんとは冠婚葬祭の中の葬祭だけが数少ない接点で、難解な仏典がどのようなものかを知る人を多くあるまい。少なくとも法事などで語られる法話だけが、仏教の教えとは思えない。一つひとつはいい教えでありながら、自分が死の淵にいるとき、限りなく心の空白を感じているときに、どのような救いが与えられているのか、そもそも仏様が人間をどのようにしてこの世に置いておられるのかなどは、なかなか知ることはできない。

 倉田百三は、病に伏しているときに多くの著作を残したという。生死の狭間でこそぎりぎりの人間的な心の限界をみることができたのでしょう。ただ、亀井勝一郎氏の解説に対して、百三の家族が「出家・・」を著作したときは病ではなかったと反論しています。「愛と認識の出発」も一読に値する書物でしょう。伊藤整が「近代日本人の発想の諸形態」で、明治以降の文学者を分類している中で、破滅型と称する太宰治、北村透谷、芥川龍之介などをあげているが、生き続けられるかどうかのぎりぎりの生活の中で書かれた文章は胸打つものがあることは確かです。高校生が太宰や竜之介に惹かれるのは、彼らの危うさによるものかもしれない。

 きょうはこれまでにしますが、君に話しておかなければならないことはまだ沢山ありそうですが、またの機会にします。
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