日々の抄

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  どのような学力を望むのか

2007年05月05日(土)

 4月24日小学六年と中学三年を対象にした文科省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が全国の約三万二千校で実施された。学年全員を対象とした調査は43年ぶりで、児童生徒合わせて約233万人が、国語、算数・数学の二教科のテストを受けた。学力テストの目的は、学力や学習状況を把握して授業などの改善を図ることにあるというが、1950−1960年代の実施で、地域間の競争激化を引き起こし、中止された経緯がある。しかし、2003年の国際的な学力調査で学力や意欲の低下傾向が見られたなどとして同省が再開を決めた。布石として2004年当時の中山文科相の「全国学力テストを」、「土曜事業容認」、「総合的学習見直しに言及」などがあったのだろう。(中山氏は「(慰安婦は)もうかる商売だったことも事実」「教育委員会が日教組支配でゆがめられている」などの過激な発言をしている)。
 学力テストに公立小中学校が参加するかどうかは市町村の教育委員会の判断によるというが、参加校の内訳は小学校99.64%、中学校97.54%、中高一貫教育の中等教育学校88.00%、特別支援学校(旧盲・聾・養護学校など)99.65%、国立は154校全校が、公立は不参加を表明している愛知県犬山市立の14校を除き、1908教育委員会の3万2068校がすべて参加。私立は61.52%が参加した。犬山市の不参加の理由は、「競争原理を教育現場に持ち込むことは市の教育理念と相いれない」としている。
 テストは、それぞれの教科で「知識」「活用」に分けて出題。別に学習習慣や生活習慣なども尋ね、学力との相関関係をみる。各設問ごとの正答率などの結果を9月までに各教委や学校に返却する予定。児童生徒本人にも成績が通知される。結果の公表は、学校間の序列化や過度な競争を避けるため、国全体と都道府県別のみを公表するとしているが、各市町村教委や学校は、市町村や学校の成績を保護者などに説明することはできるという。
 今回のテストには前年度と本年度予算合わせて77億円余が投じられ、各都道府県教委が結果を分析、授業の改善などの計画策定に充てる予算も約3億円が計上されている。来年度以降も4月に実施される予定という。

今回の学力テストでいくつかの問題を感じる。
 その1。学力テストと言っておきながら国語、数学(算数)だけしか実施されないのはなぜか。片手落ちではないか。中学、高校の現場では数国英の三教科を主要教科などと言って憚らない教員がいる。それ以外の教科科目はおまけなのか。たった2教科だけのテストなのだから、国語と数学(算数)の学力テストと称すべきではないか。2教科の出来不出来で学力が上がったの下がったと言うのは客観的な物言いではない。

 その2。学力テストに加えて「質問紙調査」が同時に実施されている。小学六年生は99項目、中学生には101項目あり、その内容は、起床時間、学校以外の学習時間、「家人と食事を一緒に食べる」、「今住んでいる地域が好き」、「人の役に立つ人間になりたいと思う」などを当てはまるかどうかを4段階で聞いている。これらの質問事項と学力テストの相関を見ようとするつもりなのだろうが、家庭の中をのぞくような、かなり個人的な質問が果たして必要なのか疑問である。「学力の高い児童の家庭は健全な生活をしている」などとして、「結果の分析によって理想の家庭像」を国が示し、「家族で観劇することが望ましい」などという、訳の分からない家庭のあり方を指導する材料になるなら考えものである。そうしたことが教育の質を高める方向を向いているとは思えない。
 氏名を記入することが個人情報保護の観点から問題になるとして、記名せず「番号方式」も認めることにしたが、番号方式を採用しなければならないようなことはしないことだ。

 その3。学力低下が語られ、「ゆとり教育」への批判の大合唱が聞こえてくる中の今回の学力テストだが、2005年に実施された全国の高校3年生約15万人を対象にした教育課程実施状況調査(学力調査)の結果について文科省は「理数に課題は残るが、全体的に学力低下に歯止めがかかり、改善傾向といえる」、「学習意欲の向上も見られた」と評価している。結果の評価は同省が正答すると予想した「想定正答率」によるというが、「ゆとり教育」を掲げ「自ら学び、考える力」の育成を目指した現行学習指導要領下で学んだ高校生への初めての大規模な学力調査を見る限り、「ゆとり教育」で学力低下を来したとすることは妥当なのか。「想定正答率」なるものがどのように作られたかは知りたいところだ。
 そもそも、「ゆとり教育」への総括を文科省はどのように行ってきたのか。学習指導要領が変更される場合、以前の内容についての設定の趣旨、現状の問題点、改善点などの総括がなされて当然である。同時に致命的な課題が残った場合、責任の所在が明らかにされるべきである。学習指導要領の変更は、やってみたがうまくいかなかったでは済まされるような問題ではない。児童にとって一度しかない学校生活が実験台にされたら堪らない。「ゆとり教育」の総括なしに授業時間の10%増加が提言されているのは如何なものか。

 その4。国際的な学力調査での学力や意欲の低下傾向が学力テストを行う動機と考えるなら、根本問題を解決しなければなるまい。それは「本当の学力とは何か。どのような学力を目指すのか」ということである。学力テストの結果、学力の低下が教育改革のひとつの方向を決める動機なら、文科省の考える「学力観」を示めすべきである。なぜなら、上記の全国の高校3年生の学力調査で「全体的に学力低下に歯止めがかかり、改善傾向といえる」としているのも関わらず、「拝啓」の漢字を書けたのが全体の4分の1にしか達していないことは信じがたい。学習指導要領が、学力の上限を示すのか、最低限の内容を示すのかが問題であるが、少なくとも、進級、卒業するため国民として最低限の知識を明確に示し、それに届かない場合は義務教育といえども留年としなければなるまい。
 一方で「授業時間を増加すれば学力が上がる」と信じることの誤りは、フィンランドの教育と比較すると明らかである。フィンランドでは、手厚い補習授業で支えていく「特別補助教育」の制度が浸透し、自分で卒業成績が低いと思えば、もう一年余計に学校へ通うことも可能で、そうすることが「落ちこぼれ」と言われるどころか、むしろ「長い期間、勉強した」というとらえ方をされるという。因みに、年間平均標準授業時間を比較すると、7〜8歳で179時間、9〜11歳で88時間、12〜14歳で60時間、7〜14歳の合計327時間日本はフィンランドより時間数が多い。(OECDインディケータ・2004年版による02年現在)
 以前、日本や韓国が高得点をあげていた従来の国際調査は、詰め込まれた知識量をみるものだったが、PISA(Programme for International Student Assessment=学習到達度調査)は生涯にわたって学習する能力を身につけているかどうかをみるための指標としている。したがって以前に比べて国際的に学力が低下していると考えることが適切かどうか。単に暗記中心の教育で授業時間を増やすことで問題解決はできなだろう。
 「落ちこぼれを作らず、楽しんで学ぶこと」がフィンランドの教育の特徴と言われるが、日本の教育の特徴は子ども達に学ぶことの喜びを与えているだろうか。

 その5。学力テストの結果が現場におよぼす結果はどうなるか。教育再生会議は「教育の質の高い学校や、学校選択制を前提に児童・生徒が多く集まる学校を予算配分で優遇する」としており、学力テストの結果が「成果」の判断材料にされる懸念はないのか。予算は学力の低いところに配当され全体のレベルアップを図るべきであり、再生会議の方式は教育格差を肯定し、学力の低い学校に意欲的な指導を促すものにはならない。成果に応じて予算配分するなどということは、教育関係者の考えることではない。何かにつけ競争原理云々という議論を耳にするが、民間に見ならえという考えが根底にあるのだろう。ただ競わせればいい結果につながるという単細胞な考えは、教育現場で起こっている困難さがすべて学校教育、教員の努力だけで解決できるという考えから起こっているのだろう。価値観の大きな違い、子ども達の荒んだ心、生活習慣の問題などの諸問題が現代社会に大いに関わっていることを知らなければならない。それらが学校だけで問題解決できるはずはないし、教育現場以外の社会的背景への論議が緊急に必要である。例えば、きちんとした生活習慣が作れず朝食を摂らずに登校する児童がいる。前日の夜更かし、親との夜間徘徊が原因である場合が多い。こうしたことに対し、夜間の商業施設、TV放送の時間短縮は考えないのか。そんなことは親が躾ればいいというだろうが、その親を誰が躾るかが今日的な大きな問題なのだ。
 また、学力テストの結果が「公立学校教員の給与を査定によって80〜120%の幅で決められるよう」することに利用されるなら大きな問題を残すことになる。一部の学校では「学力テストに向けた準備」も行われているという。競争が広がれば、テストに役立つことが授業で優先される心配もある。だいたいにおいて、PISAでの「学力」が日本で望む学力と考えていいのか。バウチャー制度などというものを考えられているようだが、それが学校の序列化につながることは間違いないし、学力テストの結果がそうしたことに利用されるのは公正な教育を歪めることにならないか。「地域間の競争激化を引き起こし」て学力テストが中止になってきた経験は生かされなければなるまい。

 国際的学力調査の結果を気にすることは、「日本はいつも一番でなければならない」との思いが強いのではないか。仮に国際的に一番でなくとも、「相手を大事に思い、ねばり強く物事に対応でき、知ることを楽しいと思える」ような子ども達を育てることができればいいのではないか。教育についての論議は目先の緊急事態に対応しなければならないことがあるとしても、いつも遠くを見据えた論議をしなければならない。パッチワークのつぎあてをするような施策ではなく、「日本はかくあるべき学力を目指す」とした指標が論議されるときが来ているのではないか。

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