日々の抄

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  大きなお世話だ

2007年05月12日(土)

 教育再生会議は「親学」の緊急アピールの見送りを決定した。世論の批判に配慮してということがその理由という。
 その「親学」なるものは
(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児
(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
(3)早寝早起き朝ごはんの励行
(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
(6)企業は授乳休憩で母親を守る
(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
(9)遊び場確保に道路を一時開放
(10)幼児段階であいさつ、うそをつかないなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める
などの他に「3世代同居による子育ての重要性」を訴えたいというものだそうだ。
 いずれも至極当然の内容であるが、文科相の「提言のようにしたいと思ってもできない人がたくさんおり、あまり感心しない」という言葉を待つまでもなく、子育てに真剣に取り組んでいる親にとって「大きなお世話」な内容ばかりで、恵まれた人にとって何でもないことを、多くの親がどれほど悩みながら子育てをしているかを斟酌しようとしない理想論が、恰も井戸端会議で語られたことを列挙しているように見えてならない。
 母乳がでないで悩んでいる母親は「私は駄目な親なのか」と思わせるし、「企業は授乳休憩で母親を守る」、「3世代同居による子育て」など個人でどうしようもないことをアピールしようとする気がしれない。「3世代同居」できるような恵まれた家庭がどれほどあると考えているのか。「親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞」を提言する前に、親子で見られないようなテレビの低俗番組をやめるよう提言したらどうなのか。教育再生会議は、そのようなことを現実にしようと思ってもできない社会構造を具体的に改善し、安心して子育てできるようなシステムを作るための具体策を提案する立場にあるのではないか。

 政府関係者は「内容がアピールになじまない。国民の理解も得られない」と指摘しているようだが、理解を得られないのは、これらの内容のほとんどが個人の努力ではどうしようもないことだからなのではないか。会議を重ね、日本の教育の今後の方向を考えようとするときに、教育に関する諸問題が、単に個人や学校現場だけでは解決できないことを承知して議論を進めるべきだろう。理想論だけを言いたい放題でいくら語り合っても説得力はない。
 教育再生会議の議論に対し、自民党内からもさすがに批判がでているが、官房長官は「いろんな意見があるのは分かっているが、結果を見て判断してもらうのが一番いいのではないか」と反論している。結論が出てからでは遅いことに気づくべきだろう。また、「自民党はいろんなことを言う人がいるのが特徴で、誰か一人に従うような党ではない」と指摘しているが、郵政国会で一人に従わないために辛酸をなめさせられた議員が多数出たことを忘れるには早すぎる。郵便局しか金融機関がない過疎の地でどんなことが起こっているか、終わってしまえば思いを馳せることはないのか。呆れた話しである。

 教育再生会議は「学校間や地域間でも競争原理を働かせるため、教育の質の高い学校や、学校選択制を前提に児童・生徒が多く集まる学校を予算配分で優遇する」「公立学校教員の給与を査定によって80〜120%の幅で決められるようにし、あらたに'上級教職'をつくるなど、成果を反映させる新制度を提言」「競争原理の導入は、教員間の切磋琢磨を促し、やる気と能力のある教員を厚遇することで公教育の質の向上を図ることが狙い。今後、一般行政職の地方公務員より教員を給与面で優遇することを定めた人材確保法の見直しも検討する」としておきながら、「公立学校の義務教育費のうち8割弱が人件費にあてられる現状を重視し、公教育の高コスト構造を見直す、として人材確保法の改正と給与や退職金、年金水準の見直しを求める」(4月9日報道)としている。
 給料を上げればやる気と能力がでてくるという発想はいかがなものか。そもそも教員の能力と何か。「子どもの気持ちをくみ取り、子どもの能力を引き出して建設的なものの考え方を持たせる。学習意欲を高めるられるような刺激が与えられる」などを教育者としての能力と考えるなら、それは専門職として当然のことだろう。教育現場には点数にならない努力、例えば不登校の子どもと何時間も話し合う、悩みを親身になって聞く、学力の低い子どもの個別の指導を添削など長い時間をかけて続けるなどがあるが、そうしたことを「給料が上がるからやる気をだそう」と考えてやっている教員がいたら、考え違いとしか思えない。「経済的に厚遇するから」という発想でやっていけば、目立つことだけ、すぐに評価されやすいことだけに時間をかけ、悪くすれば「ゴマすり」的な見え透いた努力をしようと考えてもおかしくない。
 教員の「充実感」は、目の前の生徒が以前より意欲を持ち、成長している姿を実感できること、子どもや保護者から「ありがとう。あの時の先生の一言が生きている」などと言われる、ただその一言で持てるのではないか。学校現場は民間に倣うような能力主義はなじまないのではないか。高給が望みなら、民間企業に転職し、目に見える業績を上げて評価されればいい。

 健全な日本国臣民を育成するためと思えるような今回の緊急アピールが見送りになったのは当然と思うが、教育再生会議で議論を重ねた後であるにも関わらず、政府関係者が同意しなかったので見送られたことに疑問を感じる。教育再生会議は首相の諮問機関なのだろうが、いちいち政府関係者の顔色を見ながら答申したのでは答申の意義を感じない。教育再生会議は、目先の諸問題に対応することだけでなく、日本の将来の教育像、学力観がいかなるものかを明らかにし、「個人」でできることと、「社会全体」でなすべきこと、「政治」がなすべきこと、「学校教育」でできることを明確に区別して提言していくべきだろう。
 「思いつきで言っている」などと足下を見られるような提言はもうやめにしてもらいたいものだ。現実的には、子どもを教育する前に大人を教育しなければならないことが多い昨今である。「うそをつかない、などの徳目を」などということを、誰が見ても「法に従ってやってますから」などと嘘つきの標本のようなことをしている政治家やそれを擁護している政府関係者に言われたくない。それが先決問題である。

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