日々の抄

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  机上の空論にならないか

2007年06月05日(火)

 教育再生会議2次報告が出された。盛りだくさんの提案にある中のいくつかを取り上げてみる。
なぜ「10%増加」なのか
 ゆとり教育見直しの具体策の提言として
「夏休み等の長期休業日の活用、2学期制の導入、朝の15分授業の実施、40分授業にして7時間目を設けるなど、教育委員会、学校の創意工夫を生かした弾力的な授業設定による授業時数増を図る」
「学校週5日制を基本としつつ、教育委員会、学校の裁量で、必要に応じ、土曜日に授業(発展学習、補充学習、総合的な学習の時間等)を行えるようにする」
としている。

 小学校の標準授業時数(1校時45分)は現在、年782(1年生)から945(4〜6年生)。毎月2回、各4時間実施していた「半ドン」の土曜授業を2002年度に廃止した際、授業時数は7%減少。10%増達成には、これを復活させても不足する。同会議は春・夏休みの削減や朝の15分授業などの組み合わせを念頭に置いているらしい。
 授業数を増やせば、学力が向上するという根拠はどこにあるのか。もしあるなら具体的に示すべきである。その根拠が妥当なら、「ゆとり教育」を導入することにより、それよりも授業時間数が減少することが学力低下につながることを承知していたのではないか。たった5年間だけしか実施していない現行教育課程をなぜ拙速に事を進めるのか。また、10%の根拠はどこにあるのか。変更するなら、以前の週6日制に戻ることは考えないのか。児童・生徒の負担が増加すると共に教員の勤務時間が一方的に増加することになるはずだが、これについての言及がないのはおかしい。文科省の最近の教員の勤務実態調査の結果によると、『対象となった公立の小中高で、1日の平均勤務時間が10〜11時間、恒常的に1日約2時間の残業をしていた。小中教員はいずれも、夏季休業期間も8時間以上勤務しており、残業が生じていた(2007/5/23朝日)』という。教育再生会議ではこのような実態を承知して論議しているのだろうか。教員も確実に余裕がなくなることはみえている。土曜に授業が入り、子ども達の楽しみにしている長期休業期間を短くする必要があるほど、学力が低下しているというのだろうか。これでは、授業にのみ追われて精神的なゆとりが生じるはずがない。
 本サイトで以前記している(2007/5/5付)が、授業時数の少ないフィンランドの方が、国際的学力調査では上位にあることをどのように説明するのか。教育再生会議は「学力低下の原因」を究明していないのではないか。国際的学力調査のPISA(Programme for International Student Assessment=学習到達度調査)は生涯にわたって学習する能力を身につけているかどうかを見るための指標としているが、単なる詰め込み式の知識は授業時間数を増やせば上昇するかもしれないが、それがフィンランド式の「落ちこぼれを作らず、楽しんで学ぶこと」にはならないだろう。授業時数を増やすことが、かつて問題視されてきた詰め込み主義に回帰することにならないのか。
 いずれにせよ、「学校週五日制を基本」として授業時数を増やすことには無理がありすぎる。教育再生会議の委員が、自分たちがかつて「学習意欲」を刺激されたことが何であったかを論議してみるといい。根本問題は、どのような学力を求めるかを明らかにすることである。

なぜ「徳育」の教科化なのか
 第2次提案では、「心と体―調和の取れた人間形成を目指す」として
「徳育を従来の教科とは異なる新たな教科と位置づけ、充実させる」
「徳育は、点数での評価はしない」
「教材については、多様な教科書と副教材をその機能に応じて使う。その際、ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと、芸術・文化・スポーツ活動を通じた感動などに十分配慮したものが使用されるようにする」
「担当教員については、小学校では学級担任が指導することとし、中学校においても、専門の免許は設けず、学級担任が担当する。特別免許状の制度なども活用し、地域の社会人や各分野の人材が教壇に立つことを促進する」
としている。

 小中学校の「道徳の時間」を徳育と改称し正式な教科に位置付けるよう今年度中の学習指導要領改正を求めているが、「正式な教科とすれば、きちんと教えられる」(山谷首相補佐官)との主張によるようだが、「徳育教科書」がつくられる以外、現在の道徳とどこが違うのか。
 そもそも「道徳教育に不熱心な教師がおり、教材も充実していない」(小野副主査2007/3/30毎日)ことが「徳育」教科化につながってきたようだが、一部の不熱心を理由にしているなら、何も教科化しなくても、熱心に指導できるような方策を考えればいいだけのことである。「徳育」の教科化に妥当性を感じない。

 中教審の山崎会長が、倫理教育や道徳教育について「学校制度の中でやるのは無理がある。道徳教育は、いらない」と、授業で教えることに否定的な見解を示している。山崎氏は「人の物を盗んではいけないかは教えられても、本当に倫理の根底に届くような事柄は学校制度になじまない」と話し、妊娠中絶や、競争社会で勝者と敗者が出ることなどを例に挙げ「学校で教えられるような簡単な問題ではない」と述べ、安易な道徳強化論にくぎを刺した。その上で、「代わりに順法精神、法律を教えればいい」と話している(2007/4/27朝日)。
 教科化については、道徳教育を小中高校を通じた「正式な教科」と位置付けることで意見が一致(2007/3/30毎日)、徳育正式教科化を断念(2007/5/15朝日)と揺れ動いてきた。一次提案では、子どもの規範意識を高める方策として「民話や神話・おとぎ話、茶道・華道・書道・武道などを通じて徳目や礼儀作法、形式美・様式美」を掲げていた。復古調が目立ち、諮問した安倍晋三首相が絶賛した内容だったというが、文科省の検定を受け一定の枠にはめられた教科書で徳育を教えることが戦前の「修身」に似たものにならないかに注目しておかなければなるまい。「人のあるべき姿」を説く徳目は聞こえがいいが、知らぬ間に「国にとってのあるべき姿」にすり替えられやすい危うさが拭えない。子ども達にも多様な生き方があることを忘れてはなるまい。
 「徳育」は点数の評価をしないとのことだが、教科なら当然所見を書かなければならない。心の評価を記述式で記す苦しみは想像できるところである。

なぜ「9月入学の大幅促進」なのか
「海外からの帰国生徒や海外からの留学生の要請に応え・・・大学・大学院における9月入学を大幅に促進する」
「私立大学においても9月入学枠設定を促進する。9月入学枠を設定する大学について、運営費交付金、私学助成等により支援措置を講ずる。9月入学と合わせて、セメスター制(半年間の学期ごとに授業が完結し、単位の修得認定を行う仕組み)の導入を促進する」
と提案しているが、大学の入学を9月にすることで、高校の教育現場を考えれば、大学の入学時期だけで済む問題でないことは自明である。帰国生徒、留学生が大学生の何割占めるというのだろうか。大学の9月入学を考えるなら、小中高、企業すべてについてリンクさせて考えなければならないが、そのことについて触れていないのはなぜなのか。「運営費交付金、私学助成等により支援措置」をするから、「9月入学の大幅促進」せよと、いかにも札束で頬を叩くような方法は気分のいいものではない。「海外からの帰国生徒や海外からの留学生」の為だけに「9月入学」に変更する必要性を全く感じない。

 『21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を図るため、教育の基本にさかのぼった改革を推進する』が、教育再生会議の目的である。現状の教育現場のいかなるところの、いかなる内容を、いかように再生させる必要があるのか。現状分析の説明なしに何でもかんでも新しいことを思いつきのようにしてやれば、何かいいことが起こりそうな気がするよう錯覚して、再生させようしているように感じられてならない。
 そもそも、教育再生会議の報告内容は中教審に諮られて答申されることになるのだろうが、これらに教育現場の意向がまったく反映されてないことに大きな問題点がある。非公開で会議が開かれているのも理由が分からない。「問題は現場で起こっている」にも関わらず、現場の意向が反映されることなく、「力ずく」でああしろ、こうしろと言うことには所詮無理がある。児童・生徒の現状を最もよく知っているのは現場の教員であることを忘れているのではないか。報告全体は、現場を知る人が、しっかり論議を交わして積み上げたという印象は薄い。

 現状分析のないところに実のある議論は成立しない。政府が今までの教育の成果、問題点を明確にせず、未来への展望も示していない。こんなことで、いくら教育再生会議が提言しても、所詮教育現場を知らない机上の空論の羅列になりかねない。況や参院選へ向け安倍政権の浮揚を図る政治的アピールと思われても仕方ないだろう。

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