日々の抄

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 ザバリッシュのブラームス交響曲1番  

2004年12月12日(日)

 N響アワーでブラームスを聴いた。指揮はザバリッシュであった。彼は1964年の初来日以来何度もN響で棒を振り、1988年の定期演奏会1000回記念演奏会をはじめ、N響の節目のときには必ず来日し、N響の育ての親というべき、日本の音楽会に少なからぬ影響を与え続けている音楽家である。

 ブラームスの交響曲1番は私にとって思い出深い曲である。はじめて家を出ての生活がはじまったばかりの時に読売日響が誕生した。できたての読売日響の演奏を聴いたのがこの曲との出会いであった。

 あの勇壮なティンパニーの連打が自分を励ますように感じられ、ぐいぐいと引き込まれている。その後何度となく聴き続けてきた。今回のザバリッシュのコンサートの出し物は以前来日したときと同じものであるという。彼は単に指揮者でなく、哲学者でありピアニストであるという。

  この曲の冒頭のティンパニーの連打は、ブラームスがベートーベンのあまりにも偉大なことに、曲を作ることができずに悶絶した後に作られたもので、ベートーベンの第5交響曲の冒頭部分の有名なフレーズに触発されたと聞く。第一楽章はゆったりとではあるが勇壮さが漲っている。ブラームス独特の弦楽器の憂いを込めた美しい旋律が続く。弦楽とくにバイオリンの奏でる旋律はたまらない。テーマ部分は大河の流れを俯瞰している気分に引き込まれる堂々たるものである。あの旋律は何度聴いても涙ぐみそうになってくる。第4楽章のピッチカートの後のユニゾンの後、ホルン、フルート金管楽器のハーモニーが続いた後の一瞬の空白の後、再び主題が堂々と続く様は見事としかいいようがない。オーボエは随所で見事な旋律を奏で、この曲の管楽器はあまりにも見事な響きを輝かせてくれる。

 私にとって、この曲を聞くたびに世間知らずではあったが、これから社会に出て夢と希望に燃えていた青年の血潮を思い起こしてくれる。いろいろな曲を聴くたびにある年代の、あの日に自分を誘ってくれる音楽が、形にならない他に比べようのない貴重な自分の財産である。

 小澤征爾氏が、新潟地震被災者を励ますために水戸交響楽団と被災地でミニコンサートを開いた。彼は聴衆に「音楽は演奏する人、聴く人が同じ場所にいて、同じ空気を吸っている。そう感じられるだけでいい」と言っていた。音楽は生で聴くに限る。いくら優秀な再生機材を使っても生の音にかなうものはない。きょうは同じ空気を共有できなかったが、民族、言語に関係ない「世界語」としての音楽を感じられたのは嬉しいことだった。

 音楽はいい。音楽は副作用のない、快さを齎してくれる薬のようなものだ。きょうは、この曲を聴けただけでいい一日だった。

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