日々の抄

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  答申は出たが

2008年02月03日(日)

 『ヨーロッパからの新しい風「教育で国の未来を切り開け」』(NHK2月1日)を視聴した。その概要は次のようなものであった。
 ヨーロッパでは各国とも教育改革に力を入れている。英国では競争力の導入を20年前に行い,「読み,書き,計算の能力」を高める「基礎学力戦略」を打ち出している。教育予算を2倍,教員の数を20万人増員しているという。成績の悪い学校に重点的に配置している。小学校では,一クラス20人の生徒に対して教師が5人で授業を行っている。PISA(Programme for International Student Assessment=学習到達度調査)で求めている能力は,単なる知識でなく,問題を科学的に考える能力である。人生では答えはひとつでなく,状況によって複数あるものだ。知識をつなぎ合わせて科学的に導く能力を図ろうとしている。

 フィンランドでは「教師は知識を教えるのではなく,自ら発見し考えることを手助けしている。自分で行動し発見していくことが大事と考えている。かつては知識を身につけることに重点に置かれていたが,1991年ソ連の崩壊で深刻は不況に襲われ失業率20%にもなった。このため,子ども一人ひとりが考える教育へと転換していった。情報通信など新たな産業を興す人材を育成し自立した国を目指した」という。
 当時の教育相オッリペッカ・ヘイノネン氏は『教育は投資。国の競争力に関わる問題だ。不況当時,人に投資することが最もいい選択と考えた。学ぶということは本来繊細で個人的で非常に複雑なことだ。本来の教育を受けさせるために,多くの権限を現場に委ねた。国が阻害してはならない。自立した国になるためには,国民一人ひとりが新しい出来事に対処する能力,将来思わぬ問題が起きたときに解決する能力を身につけなければならないと考えている』と語る。以前は教材の選定,指導内容,カリキュラムを細かく定めていたが,その権限を学校と地方に移譲し現場の裁量で決められるようにした。そうしたことが出来たのは質の高い教師の存在があり,社会的地位が高く憧れの職業で,教育実習は半年に亘って行われる。教師は大学院修士課程卒業を条件としている。フィンランドは子ども達に考える力を身につけさせることで国の未来を切り開こうとしている。それは幼児教育から始まっている。ヨーロッパ諸国取材で何度も耳にするのはコラボレーション(collaboration=協調),イノベーション(innovation=革新・刷新)という。

 OECD教育局指標分析課長アンドレア・シュライヒャー氏によると,
 『これからの社会は簡単に暗記できたり,テストで簡単に計れる能力はどんどん必要でなくなってきている。若い世代は状況に応じて臨機応変に対応しなければならない。大人になって求められるのは,幅広い事柄に適応できる能力だ。さまざまな人々と協調し合いながら,ともに働く必要がある。状況に応じて問題を解決していく能力こそが最も大切である』

 日本の現状について。『フィンランドの子ども達は科学に対して非常に前向きに向き合おうとしている。科学は生活に直結するものと考えている。科学の授業に強い関心と興味を示す。日本では科学離れが進んでいる。科学が個人の生活や将来の仕事にとって重要だと考えていないようだ。大変憂慮すべき事態だ。子ども達が科学に興味を持つようになるために,フィンランドのような就学前の教育がかならずしも重要とはいえず,教育プロセス全体の問題である。科学の知識を教えるだけでは科学的思考力はつかない。身の回りに楽しいことがあふれている今の子ども達に,科学に興味を持たせるには魅力的な学習環境が必要だ。これは教師にとって難しい仕事だ。かつては決められた知識を子ども達に伝えるだけだったが,今は子ども達一人ひとりの能力とやる気を把握し,その子にあった教育を行うことが教師に何よりも求められている』。

  教育システムがうまく機能している国では,『1.生徒にどのような能力を身につけさせれたらいいのかのビジョンや目的が明確に定まっている。教師はどんな知識を教えるのかではなく,子ども達の人生をどう導くかを大切にしている。さらに教師だけに任せるのではなく,行政が支援していく体制が出来ている。
2.教育に関する権限や責任が学校現場に任されていること。学校は教育に対する沢山の責務を担っていて,その結果を引き受ける。行政が介入するのは教育の現場で大きな問題が起こったときだけでいい。基本的には学校の自主性を尊重し,支援してゆくスタンスが大切である。
3.子ども達が進みたい将来に対し門戸が広く開かれていること。そして一人ひとりにあった支援体制が整っていること。PISAの学力調査でよい成績をおさめた国はいずれも,これら3つの要素を充たしているのが特徴である』
 世界の明日が見えない今,子ども達を取り巻く環境は一層厳しくなっている。子ども達はまた『自分の能力を知り見極める力が求められている。しかし見方を変えれば今の世界は面白いかもしれない。適切な能力を身につければ,自分にあった仕事や職場を見つけられる可能性は大きく広がっている。より充実した人生を送れるチャンスは広がっている。その為には能力を身につける必要がある。だから教育はかつてないほど大きな役割を担っている。』と語っている。


 国内では,教育再生会議が最終答申を提出した。提唱者の首相が頓挫し足場を外された上,現首相が明確な再生会議に対する熱意を示しているとはいえない終焉であった。一方,中教審の最終答申が発表された。(下注参照)
 それによると,次の時代を担う子どもたちに必要な力は「生きる力」であるとしている。「生きる力」とは「基礎,基本を確実に身につけ,いかに社会が変化しようと,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力。自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性。たくましく生きるための健康や体力など」であるとしている。「生きる力」の基礎となる学力の重要な要素は,@基礎的・基本的な知識・技能の習得,A知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等,B学習意欲,であることが明確化された。
 現状についての分析で,
 『平成17年度に実施した高等学校教育課程実施状況調査でも,我が国の高校生は約4割が平日学校の授業時間以外に全く,またはほとんど勉強をしていない』。『非正規雇用者が増加するといった雇用環境の変化の一方で,18歳人口の減少に伴う「大学全入時代」が到来する中で,子どもたちが将来に不安を感じたり,学校での学習に自分の将来との関係で意義を見いだせずにいたりして,学習意欲が低下し,学習習慣が確立しないといった状況が見られる。このような変化についての認識は保護者の意識調査にも現れている。このことも,自らの知識・技能を活用して,未知の問題や課題についてねばり強く考え,表現しようという姿勢が子どもたちに乏しいとの国際学力調査の結果の一因にもなっている。また,将来の備えよりも今を楽しむ社会風潮もこれらの状況を助長している』などが述べられている。

 授業時数を増加しなければならなくなった元凶の「ゆとり教育」の「ゆとり」の文字は,18万文字もある文言の中で『教育については,「ゆとり」か「詰め込み」かといった二項対立で議論がなされやすい』とあるのみで,明確な「ゆとり教育」についての理念に対する反省の文言は述べられてない。

 現行学習指導要領に対する具体的な反省点として,「学習指導要領の理念を実現するための具体的な手立て」において,以下の5点の課題があったとしている。
1.子どもたちに「生きる力」がなぜ必要か,「生きる力」とは何か,ということについて,文部科学省(文部省)による趣旨の周知・徹底が十分ではなかった。
2.子どもの自主性を尊重する余り,教師が指導を躊躇する状況があった。「自ら学び自ら考える力を育成する」という学校教育にとっての大きな理念は,日々の授業において,教師が子どもたちに教えることを抑制するよう求めるものではなく,教えて考えさせる指導を徹底し,基礎的・基本的な知識・技能の習得を図ることが重要。
3.総合的な学習の時間は,学校教育全体で思考力・判断力・表現力等を育成するための各教科と総合的な学習の時間との適切な役割分担と連携が必ずしも十分に図れていない。
4.子どもたちの思考力・判断力・表現力等をはぐくむため,教科において,基礎的・基本的な知識・技能の習得とともに,観察・実験やレポートの作成,論述といった知識・技能を活用する学習活動を行うためには,現在の小・中学校の必修教科の授業時数は十分ではない。現行学習指導要領においては,学校週5日制の完全実施に伴って総授業時数が小・中学校の各学年を通じ70単位時間(週2コマ相当)減少した。さらに,総合的な学習の時間の創設や中学校において選択教科を重視した結果,ほとんどの必修教科の授業時数は減少した。しかし,今後,教科において,基礎的・基本的な知識・技能の習得とともに,それらを活用する学習活動を充実させることにより思考力・判断力・表現力等の確かな学力をはぐくむ必要があり,そのための授業時数の確保が求められる。
5.学校教育における子どもたちの豊かな心や健やかな体の育成について,社会の大きな変化の中で家庭や地域の教育力が低下したことを踏まえた対応が十分ではなかった。

 新学習指導要領では,ゆとり教育」の象徴だった総合学習の時間を削減し,小学5年から英語活動の時間を新設。国語や算数・数学など主要教科の授業時間数を小学校で301時間,中学校で360時間増やすとした。授業時間は小学校1,2年で週2時間,3年以降と中学で週1時間増加する。また,学校週5日制は維持するものの,土曜日を「総合的な学習の時間」などに活用することを認めている。
 政府の教育再生会議が教科への格上げを提言している「道徳」については,内容や教材の充実が必要と指摘。教科化については賛否両論を併記するにとどめ,事実上の見送りとしている。

 答申にある「生きる力」「思考力・判断力・表現力等の確かな学力をはぐくむ必要がある」などは,はじめに述べたヨーロッパでの教育改革と共通点があるが,アンドレア・シュライヒャー氏が述べている「教育改革に重要なこと」の3点には耳を傾けるべきものである。第1の点について。授業でどれほど「生徒が思考し問題解決できる」ような授業がなされているか。少なくとも受験を考えると知識偏重にならざるを得ない現状がある。入試制度も再考の時が来ているのではないか。仮に教育理念が同様であっても,第2の『教育に関する権限や責任が学校現場に任されていること』が,日本においては大きく異なる。つまり,文科省,教委の指示を受けて現場が動いているのが現状ではないか。日本独自の方法だといえばそれまでだが,教育現場にいる子ども達の息づかいを最も感じているはずの教員が,何をどのように教育していくかを自らの判断で決めにくい。教科書も選択の余地がなく,お上の意のままという状態では,目の前の子ども達の未来を考えながらの教育はしにくい。日本は行政が出しゃばりすぎていることは間違いない。がんじがらめに教育内容を縛りつけておいて,問題が生じれば現場だけに問題があるかのようにされたのでは,「事なかれ主義」で「そこそこ」のことしかできまい。教育現場での自主性がもっと認められることによって,教育現場の責任感,意欲が違ってくることは確かだろう。

 新学習指導要領で復活した学習内容を「ゆとり教育」で教わることがなかったり,時間数が少なかったことの不都合に対し,「ゆとり教育」を発案した行政担当者はその不都合の原因を公言すべきである。誰も反省の弁を述べることなく「やっぱり授業時間が少ないとだめだったね」などで終わらせるべき話ではあるまい。生徒は教育の実験台ではない。

 新学習指導要領で授業時間数が復活したことは結構なことと思うが,週5日制で実施することには所詮無理がある。答申にある『土曜日を「総合的な学習の時間」などに活用することを認めている』とはどういうことなのか。「総合的な学習の時間」が授業の一環なら,休日に教員が職務に就くことを公認するということなのか。週5日制になって教員の勤務時間が減ったわけではない。土曜日の分を他の日に割り振っているだけで,以前より教員が忙殺されている一因になっている。教員がゆとりのないところで,豊かな教育は望みにくい。事務作業が多いからといって,事務職を増員すれば済む問題ではない。教員でなければできない各種の報告書は他に任せるわけにいかない。

 英国で実施しているような少人数児童,多数教員制の授業ができれば,少なくとも義務教育で見るべき成果が出てくるだろう。20万人の教員の増員をしている英国に比べ,日本は人件費削減のため,教員の増員はほとんど望めべくもない。2008年度の政府予算案で教員1000人の定数増が認められているが,行改推進法では,公立学校の教職員も、児童・生徒の減少を上回る割合で人数を減らすことになっている。公立小中校の児童・生徒は、2007年度の1034万人から2011年度には1010万人に減る見通しである。「骨太の方針2006」では,5年間で1万人程度の削減を求めていることとの関係はどうなるのか。その一方,財政再建の為に教員給与を2.8%するという。

 いくらお上が大きな旗を振って見せても,施設設備の改善,人的増強を図らない限り,「それぞれの子どもにあった授業」はできにくいのではないか。新学習指導要領が実施され,授業時間が増加したからといって,PISAで成績が爆発的にいい結果がでると思うのは甘い。アンドレア・シュライヒャー氏が語るところの,「教育システムがうまく機能している国が行っていること」がどれひとつとして実践されてないからである。教育は大きな声で号令をかければ,すぐにいい結果が出るほど単純なものではない。答申でも述べられているように,子ども達を取り囲む社会環境,家庭環境を解決しない限り,成果が得られない要素が多いからでもある。また,現場の判断,自主性が認められる範囲を広げなければ,企図的意欲的な現場にはなりにくい。

  教育成果が上がるか否かの根本問題は,「教育が国を支える基本である」とどれほど考えるかの熱意だろう。その熱意があり,教育の意義を考えれば,財政的,人的に厚遇することを惜しまないことだ。金と手間をかけずに国際的にいい成果を上げようと思うのは思い違いである。諸外国が教育に熱意を込めているほど日本は熱意を本当にもっているのか疑わしい。かつて列島改造の時代,教員の資質を向上するために教員の5%を毎年海外留学させようとする計画があった。当時の首相が志半ばにして職を辞することがなければ,教育界は少なからず現在と違う形になっていたかもしれない。人件費が高いから給与を減らそうなどとケチなことを考えている国に,目を見張る教育界の未来は開けないだろう。

(注)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/news/20080117.pdf
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