勝手な論理です |
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2008年03月24日(月) 日本鯨類研究所による南極海での調査捕鯨が,今期のクジラの捕獲目標900頭に対し,現在までの捕獲頭数が約6割である515頭にとどまっているという。反捕鯨団体の抗議行動のためである。環境保護団体「グリーンピース」による日本の調査捕鯨船への燃料補給の際妨害を1月に受けている。大型ゴムボートを割り込ませ危険な状態に至る妨害行為を行った。同団体が乗り組んだ船の旗国,オランダに対し「許しがたい違法行為」と抗議している。 「グリーンピース」から分かれて作られた,アメリカの環境保護団体「シーシェパード」は1月,「第2勇新丸」にワイヤをからませ,メンバー2人が不法乗船し,日本側が一時拘束。酪酸の入ったビンを投げつける妨害行為を行った。拘束されたメンバー2人のうち1人がオーストラリア人のため,外部相はオーストラリアに対し「国内法に基づく適切な対応」を要請。 3月にはシーシェパードの所属船「ステープ・アーウィン号」が,調査捕鯨船「日新丸」に対し,1時間にわたり船橋後方甲板に酪酸入りの薬瓶と白色粉末状のものが入った茶色の紙包みを投げ込む妨害活動を行った。日新丸は放水による接近防止措置を行うとともに警備のために日新丸に乗船している海上保安官が「ステープ・アーウィン号」に対して即時中止の警告を行った。投げ込まれた酪酸が保安官2人,乗組員2人の計4人にかかり,3人が軽傷をおっている。 調査捕鯨は1946年に締結された国際捕鯨取締条約で認められた正当な活動であり,日本は1951年に国際捕鯨委員会(IWC)に加盟。1982年に商業捕鯨の停止(モラトリアム,事実上の禁止)が可決された後,1987年から調査を始めている。これまでの捕獲調査で,南極海では鯨類資源が回復していることが判明。IWC科学委員会は1990年,「ミンククジラが76万頭以上存在し,年間二千頭捕獲しても百年間は悪影響はない」と試算している。IWCは現在の加盟国78カ国の内,持続的捕鯨を支持する国は36,反捕鯨国は42で,捕鯨再開も捕鯨全面禁止も,ともに加盟国の四分の三以上の賛成が必要なため問題の解決が困難な状態に陥っている。 捕鯨の賛否は各国の食文化,動物愛護などの違いによるだろう。だが,こうした暴力的抗議行動は糾弾されて然るべきであるが,「調査」と称する捕鯨のために数百頭の捕鯨が必要なのか疑問である。また日本の政府要人だった人物が「抗議船を撃沈せよ」などと勇ましいこと語るのは考えものである。 一方で,「鯨を救う」と英雄気取りの「シーシェパード」の寄港するオーストラリアで,かつて「グリンピース」の役員を務めていたギャレット環境相は3月12日、首都キャンベラ付近でのカンガルー駆除計画を「長期的な環境保全や野生動物保護の観点からやむを得ない」と容認。「首都周辺の生態系や住環境を維持するため,当初計画を大幅に縮小し590頭を駆除する方針」という。駆除はオーストラリア国防省が首都周辺にある射撃場など軍用地で実施し,カンガルーの苦痛をのぞくため麻酔銃で眠らせた後,薬物注射により絶命させるという。捕鯨はダメだが,「カンガルーが増えて被害が出ているから殺してしまえ」という考えは動物愛護の見地から考えても矛盾であり,「勝手すぎる論理」ではないか。同環境相が語る,「バランスが取られ,科学的に実行される計画は良い政策だ」などという詭弁は聞きたくない。オーストラリアの動物愛護団体などは「カンガルーを他の地域に移送するべきだ」と反発し,「人間の盾」などで実力阻止する構えという。オーストラリアでは,カンガルーを食した事のある人は半数以上おり,カンガルーの足で作られた「栓抜き」も土産物として販売されている。カンガルーを滅多に見ることのない日本人には俄に信じがたいことである。コアラとともに有袋類の「可愛らしい動物」と感じている人は多いだろう。 日本では犬猫が虐められると「残酷」と誰しも思うだろう。だが,その一方豚,牛などは抵抗なく食している。日本で鳩は「平和の使者」と考えて食すことはしないが,国によっては「おいしい食べ物」であるらしい。いずれも食文化の違いによるものだろうが,少なくとも「カンガルーを駆除する」ことを容認している人物は捕鯨が「残虐」だなどと語る資格はない。 以前,小学校で「命の授業」をしようと考え,クラスで牛を飼育したという報道を見たことがあった。子ども達は牛をかわいがり,熱心に面倒をみた。だが,月日が経つとその牛を飼いきれなくなり,市場に出さなければならなくなった。子ども達は別れを惜しみ,牛が乗せられたトラックをいつまでも見送っていた。その中の涙にくれていたひとりの男子児童に「別れがそんなに悲しいの」と問うと,「食べたかったのに」と語り,驚かされた。男子児童は飼っていた牛を食べ物としか見ていなかったのだろうか。 人間は生きていくために動植物から命を貰っている。そうしたものへの感謝の気持ちを忘れてはなるまい。「無用な殺生はしない」,「謙遜に生きる」ことがそうしたものへの「感謝」なのではないか。 |
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