日々の抄

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  審査過程は公開されるべし

2008年03月29日(土)

 文科省が25日,来春から使用される高校向け教科書を審査する2007年度の検定結果を公表した。学習指導要領が改訂される前の事実上最後の改訂だが,「脱ゆとり」を先取りしたものもあるが,いくつかの問題点を含んでいる。

1.不確かな出典を認めていること
 Web上の百科事典で,誰でも情報を書き換えたり,項目を追加できるという特徴を持ち,サイト側が示す「免責事項」には「情報に関し合法性,正確性、安全性等いかなる保証もされません」とあるウィキペディア(Wikipedia)を,英語教科書の長文に「死刑制度の世界地図」という図をつけ「2007年,ウィキペディア」を出典としたことを認めている。図では,死刑制度のある国や廃止した国などが色分けされている。ウィキペディアは,厚労省内のパソコンから,年金問題を追及している議員への批判的な記述など100件余(2005年以降)の書き込みがあったり,宮内庁職員が業務中に皇室に関する記載を削除していたこと,国交省OBが常勤役員を独占している団体でウィキペディアを丸写し,たった3部の報告書を約9200万円で作成したことなどが発覚している。引用された地図は,各国の死刑について「廃止」「特段の事情が無い限り廃止」「運用上廃止」「法定刑として存在」と4段階で色分けされているが「リストは不完全」などと書かれている。ファイル履歴によると2005年以降,36回修正されている。
 その後の報道によると,当該出版社は,ウィキペディアの「信憑性に疑問」があることから,「現場の先生が図を見たとき,信憑性が問題になる可能性がある。やめるかどうかは,文科省の意見とは別に,出版社の良識で判断する」としている。一方でウィキペディアの成り立ちや利用のされ方を紹介している他の出版社の教科書もある。

2.教科間で異なる内容が記述されている
 生物は1冊当たりの平均で313か所と検定修正が多かった。その中で「ヒトのゲノムの塩基配列は平成13年にはおおよそ解読された」という記述について,平成15年にゲノム解読の完了宣言が出されていることを理由に意見がつき修正された。また,これまで見つかった最古の人類と見られる化石の年代について「約400万年前」としていたが,平成14年におよそ700万年前の化石が見つかっていることを指摘され,記述は修正された。いずれの記述も前回平成14年の検定では申請どおり合格している。文科省は「ヒトの遺伝子や進化などの分野では,最先端の研究で学説が塗り替えられることが多く,検定意見が多くなった」と説明しているが,この教科書は来年4月から使用される。最先端の研究は現在授業を受けている生徒に反映されているのだろうか。
 この生物で修正された「人類の誕生が700万年」が,英語では「人類の誕生は約400万年前」のまま検定を通過している。文科省によると,「英語は資料そのものを学ぶのではない。求める正確さのレベルが違う」と説明している。新しい事実が判明しているなら,教科が違うとはいえ求める正確さのレベルを下げたままにしておく理由が見あたらない。単に,教科間の疎通がなされてなかった結果でしかないと思える。

3.固有名詞に対する判断が一定か疑わしい
 「特定の企業や商品の宣伝になる」という理由で修正がなされた。梶井基次郎の短編小説「檸檬」を掲載した「現代文2」の巻末に,「えたいの知れない不吉な塊」を感じた主人公が,最後にレモンを置いていく場所で「ハイカラとクラシックが同居する時代の雰囲気がよく分かる」として「丸善京都支店」の明治末ごろの写真を載せた。店名がアルファベットで書かれおり,注意して文字を読み取らないと「宣伝になる」などとは思えない写真である。この写真を見て「丸善」の売り上げが伸びるなどと思う人がいるだろうか。それを「特定の営利企業の宣伝になるおそれがある」として「看板部分を削除する」修正がなされている。一方で,本文に「丸善」が7回登場しているが,「本文中の企業名を削除すると不自然で,許容している」そうである。
 また,英語では海外でブームとなっている日本製のパズル「数独」を複数の出版社が「Sudoku」として紹介したが,「特定の商品の宣伝になる」とされ,「number puzzle」や頭文字が小文字の「Sudoku」と修正している。「数独」を商標登録している会社によると,欧米で「Sudoku」は「一般名詞として流通している」として,登録が認められなかったという。「日本の言葉が世界に広がっている典型例としてインパクトがある」と出版社が考えたことを,承知の上での修正だったのか。和製英語で知られる「オセロ(ゲーム)」はどの教科書にものっていないのだろうか。
 英語で教材の登場人物が最も好きな映画を選ぶ問題で,六つの選択肢すべてがディズニー映画となっていたために「宣伝になるおそれがある」と意見として,三つをスタジオジブリ作品に差し替えという。スタジオジブリの「宣伝」にならないのだろうか。
 美術Vでは,シャツのブランド名「パタゴニア」,携帯電話「N701i」などの写真のロゴに同じように「特定商品の宣伝になる」と意見がつき「ぼかし」がかけられている。文学作品に出てくる特定の企業などの名はその作品にとって必要不可欠であるから,修正することができないのは当然である。「特定の企業」の宣伝になることが問題なら,民営化した「JR」の名の入った鉄道駅名,画像も問題になるのだろうか。「特定の企業」のどの範囲が「宣伝」になるかの扱いについて一定性がないように思える。

4.知見の一貫性についての問題
 教科・科目ごとに事細かな検定がなされているが,生物で「抗原に対する過剰な免疫反応」というアレルギーの説明に「過敏が正しい」という指摘を受けた教科書がある。2006年度は「免疫の過剰反応」と書いて合格した教科書もあり,今回申請した2点には,前年は問題とならなかった計58カ所にも新たに意見が付いている。文科省は「最新の知見,研究で塗り替えられることが多いという特性が原因」と説明するが,検定の一貫性に疑問をもつ関係者の声が上がっている。

5.芸術作品の内容に対する修正がなされている
 美術Vで写真家・浜谷浩氏の肖像写真に「心身の健康に必要な配慮を欠いている」として,手に持ったたばこを消す修正がなされた。また,「ガブリエル・デストレ姉妹」の絵画をコラージュ(collage)した横尾忠則さんのポスターに「健全な情操の育成に必要な配慮を欠いている」と意見がつき,差し替えられた。ポスターは1965年、故・土方巽氏らが主催した「暗黒舞踏派提携記念公演」用に作製され,ルーブル美術館所蔵の「ガブリエル・デストレとその姉妹」などをモチーフとした作品。文科省は左上に「私の娘展示即賣會場」の文字があることなどを理由に「健全な情操の育成に必要な配慮を欠いている」としている。この文字は,教科書に合わせて縮小すると,ごま粒ほどの小さな文字である。「人身売買を思わせる」というの意見をつけているが,横尾氏はこれに対し,「この程度の比喩も受け入れず,重箱の隅のまた隅をつつくような検定は異常。日本の知性,文化のレベルを示すようで寂しい」「高校生だろうが誰だろうがこの文を読んで比喩と思わない人がいるだろうか」としている。まさに「木を見て森を見ず」なのだろうか。

6.教科書会社もしっかりするべし
 教科書会社側が、文科省への申請前にチェックをしているのかを疑うような単純ミスも多い。今回の検定で,英語のリーディングの教科書計15点が指摘を受けたスペルミスは32か所(例えばrunning が runnning),発音の表記ミスは72か所に上り,検定意見全体の447か所の4分の1近くを占めている。現代文でノーベル賞授賞式が行われるスェーデンがスイス,数学Vで「無限数列」が「無限教列」などと信じがたい誤植である。
 教科書検定は文科省に内容の校正をしてもらう性格のものではない。検定の是非を語る前に,教科書会社は自信をもった教科書を申請するべきである。ミスをチェックすることができないほどの手不足で作られような教科書は信頼に値しない。

7.問題集擬きでもいいものか
 英語のリーディングで,進学校向け教科書で単語数が約2200語から約2500語に増やしたもの,大学の理系学部志望者が履修する「数学3」でも,難易度を上げ,学習指導要領の範囲外の部分を2ページから14ページに増やし「京都大など指導要領の範囲外の問題を出題する大学もあり,学校現場から強い要望があった」という学校現場の声に応えた結果,巻末に大学入試用の演習問題を25問新設したものも検定を通過している。
 学習指導要領の範囲外の大学入試問題出題を無制限に容認する事態があれば,入試に出るから,教科書に書いてあるからという悪循環の結果,単なる知識偏重で試験のための試験に必要な知識の切り売りが通用するようになり,本来の高校での授業に悪影響を与えかねない。文科省は小中高には権威を示すが,大学入試問題についても指導力を発揮して貰いたいものである。

 今回の検定で教科書を作成する側のお粗末さも指摘されているが,検定のやりすぎと思える内容もあった。教科書検定は,全国で同じ水準の教育が受けられるようにする目的で始まり,学習指導要領に沿っているか,児童・生徒の発達段階に適しているか,客観性、公正性、中立性は保たれているか,内容は正確かなどについて行なわれているという。
 だが,指導範囲,内容の正確さは厳密でなければならないのは当然としても,教科書を使う「現場」が単に「受け身」であってはならない。いろいろな特徴を持った教科書が提示され,それを取捨選択し,現場でどう内容を活かすかが問題である。国の検定を受けているから内容が保証されていると思わないことが肝心だ。最近はなんでもかんでも「親切」がもてはやされているが,入試問題を沢山盛り込めば「いい教科書」などと思い違いしないことだ。基本をしっかり盛り込んでくれていさえすれば,教員が授業で内容を補完し創意工夫していけばいい授業はできるはずだ。親切すぎる教科書は考えものである。

 教科書が「客観性、公正性、中立性」をもつことが求められ,時の権力によって変更されていい性格のものではない。そのため,教科書審査の「透明性」を担保するためにも,審査過程は公開されて然るべきである。審議過程が一切公表されてない現状が適切なやり方とは思えない。いろいろな情報が公開されている中で,教科書審査過程だけが「隠密裡」に行われているのはおかしい。文科省が検定を行わずとも,不適正な教科書が「教育現場」で淘汰されることが一番望ましいことと思うのだが。そのためにも「本物を見る眼」と「豊かな学識」を持てるよう励みたいものでである。

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