日々の抄

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  命の綱は断たれたが

2005年4月3日(日)

 15年にわたって植物状態にあり、政治と司法を巻き込んで注目されていたテリー・シャイボさん(41)が 3月31日、米フロリダ州のホスピスで亡くなった。18日に栄養と水分の補給が停止され、衰弱死したとみられる。テリーさんが90年、心臓発作のため植物状態に陥り、「妻は人工的な延命を望んでいなかった」として、命綱である栄養補給の停止を求める夫マイケルさんと、延命の継続を望む両親が7年間にフロリダ州の法廷で争ってきたという。テリーさんの栄養補給管は18日、州裁判所の決定で抜かれた。連邦議会が制定した新法(21日成立)に基づく両親の申し立てを連邦裁判所が却下して栄養補給の再開は認められなかった。

 今回の報道で疑問に思うのは、夫と称する人物は再婚し、すでに子供をもうけていると聞いた。再婚していながら、「妻は人工的な・・・」と言うことが、認められるのか。この報道が正しいなら納得できない。再婚し籍を離れていれば、両親の判断が反映されて然るべきだ。米国では日本のように戸籍がないと聞いたことがあるので、そのへんが日本と違うのだろうか。

 いずれにせよ、植物状態にあるといえど、彼女の両親が延命を望むなら栄養補給管が抜かれることに大いなる疑問を持たざるを得ない。私の子供がそのような事態に至ったなら、許されざる行為と義憤に耐えられないだろう。今回の根本問題は、人間が生きるか否かが、司法によって決められていいものか、という素朴な疑問が湧き上がってくるのは私だけだろうか。しばらく前に、同じ米国の長い間植物状態にあった女性が、母親の手厚い看護のもと、それも返事がないまま毎日のように話しかけていたところ、ある日突然反応を示し、今ははっきりと意思表示をできるようになったと聞いたことがある。彼女は大学生の時に交通事故によって突然意識を持てなくなって20有余年が経過し、目覚めたのである。専門家は奇跡であるといい、また毎日母親が話しかけることによって脳に(海馬だったか)快い連続的な刺激が与えられ続けた結果、目覚めにつながったのではないかと述べている。

 このようなことを知ると(仮に少ない症例といえど)、長年にわたって看護し続けた家族の労苦が筆舌に尽くしがたいことだろうことは容易に理解できるとしても、「この人は死んでも仕方ない人なんです」などと他人に決められたくない。本人が「植物状態になったら延命を望まぬ」ことが客観的に認められれば、考えなければならないとしても、家族としてはなんとかして意識を取り戻して欲しいと思うのは当然のことだろう。

 自分の命は自分だけのものではないはずだ。

 1976年(昭和51年)、アメリカ・ニュージャージー州最高裁が「人命尊重の大原則より死を選ぶ個人の権利が優先されるべきである。今後、治療をつづけても回復の見込みがまったくない、との結論が出た場合には人工呼吸器をとめてよい」として、「死ぬ権利」を認める判決を下している。「カレン裁判」と呼ばれもので、1975年4月に植物人間状態になったカレン・クラインさん(21歳)の両親が娘の安楽死を求めて告訴していたものである。カレンの人工呼吸装置が外されたのは、判決の2ヶ月後のことだったが、人工呼吸器が外されたところ、自力で呼吸を続けはじめたが、後に肺炎による呼吸困難で死去した。

 広辞苑によると、尊厳死は、「一個の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは迎えさせること。近代医学の延命技術などが、死に臨む人の人間性を無視しがちであることへの反省として認識されるようになった」とあり、安楽死は、「助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、苦痛の少ない方法で人為的に死なせること」としており、尊厳死と安楽死は同義ではない。オランダ、オーストラリアの準州などに安楽死法がある。

 私は両親を末期のガンで失った。意識が薄れていようと両親には生きていて欲しかった。親はこの世にいてくれる、ただそれだけでよかった。それが自分の支えであった。

 意識がなくなったら、もう人間ではないのか。


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