日々の抄

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 誰でもよかったのか

2008年08月02日(土)

 「誰でもよかった」として連鎖反応的に殺傷事件が起こっている。今年になってからその数はただならぬものがある。そのいくつかを書き出してみると以下の通りである。

 1月5日 東京戸越銀座で高2の16歳が刃物で切りつけ通り魔。5人に切りつける。「誰でもいいから皆殺しにしたかった」という。「少年は小学校高学年のころから他人の感情や意図を理解できず、他人を殺害するか、自分を抹殺するかとの考えを抱いた。今後も自分や他人を傷つける恐れが高い。計画的な側面があり心神喪失ではなかった」として医療少年院送致になっている。
 3月23日 茨城荒川沖駅で24歳男が刃物で一人殺害7人負傷。「誰でもよかった。複数殺せば死刑になれると思った」という。犯人は72歳の男性を殺害した疑いで指名手配されており、事件後、携帯電話で「早く捕まえてごらん」と警察を挑発していたが、交番に出向き逮捕された。警察の不手際が伝えられた事件であった。
 3月25日 自宅から150キロ離れた岡山駅のホームで18歳男が男性を突き落とし一人殺害。「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」という。
 4月22日 鹿児島で19歳の自衛官がタクシー運転手を刺殺。「金品が目的ではなく、単に人を殺したかった。死刑になりたかった。相手は誰でもよかった」という。
 6月8日 東京秋葉原で25歳男がトラックと刃物で7人殺害10人負傷。「世の中が嫌になった。誰でもよかった。親は他人」という。殺傷能力の高いダガーナイフを使用。「彼女がいれば、仕事を辞めることも(中略)携帯依存になることもなかった。希望がある奴にはわかるまい」と語り、派遣社員を解雇されると誤解したことが凶行の一因になった。ネットに「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」「やりたいこと…殺人 夢…ワイドショー独占」「小さいころから『いい子』を演じさせられてたし、騙すのには慣れてる。悪いね、店員さん」「中止はしない、したくない」などと凶行に至る一部始終を書き込み、あたかも誰かに止めて欲しいとも思える部分もある。
 6月22日 大阪駅で38歳女が刃物で3人に切りつけ負傷させた。「イライラしたから切りつけた」「電車の扉に左腕を挟まれたので、同じ左腕を傷つけようと思った」などと供述している。
 7月15日 青梅市のスーパーで22歳男が女性をバタフライナイフで刺し負傷させた。「普段から社長に仕事で文句を言われ、(犯行を起こして)恥をかかせてやろうと思った」という。女性とは面識がなく、「誰でもいいから殺そうと思った」という。
 7月16日 愛知岡崎市で中2の14歳が、東名高速バスハイジャックし一人殺害一人負傷。「親に叱られ、嫌がらせでやった」「ただ走りたかった」という。バスには男を含め計12人が乗っていたが、けが人はいなかった。
 7月16日 東海村の河川敷で、32歳男が散歩中の父娘に刃物で刺して重傷をおわす。「殺すつもりはなかった」「仕事がなくてムシャクシャしていた」
 7月22日 八王子市駅ビルの書店で33歳男が、アルバイトの大学生ら女性2人を殺傷。一人殺害一人負傷。「仕事の関係で人間関係も含め2,3日前からムシャクシャしていた。親が話しを聞いてくれないので、大きな事件を起こせば名前が出るようになると思った。うちには自分の居場所がない」という。
 7月25日 甲府市の路上で37歳男が女性をペティナイフで背後から刺し軽傷をおわす。女性と面識がなく、「上司に怒られてむしゃくしゃしていた。だれでもよかった」という。
 7月27日 名寄市内の公園で22歳男が散歩中の男性に刃物で背中を刺し全治10日のケガをおわす。「腹が立って人を刺した。だれでもいいから刺そうと思った」という。
 7月28日 平塚駅で34歳女が男性7人に刃物で切りつけ負傷させた。「前日に家族とトラブルになり、父親を刺そうとしたが家族に止められた」「死にたい気持ちがあり死ぬなら道連れにしようと思った」「むしゃくしゃして、電車に乗って土地勘のある平塚に来た」「サウナに入ったら頭が痛くなり、人を殺して自分も死のうと思った」という。
 この他に、7月19日に埼玉の父刺殺事件、7月29日には愛知県知立市の中学校で、同校教諭が担任だった卒業生の18歳男に刃物で胸などを刺された事件も起こっている。

 これらの事件は連鎖反応的である。非正規就労者が全就労者の三分の一という、今までにない経済的な不安定さ、年金、医療、福祉など数え切れないほど先の見えない不安定な社会的状況もその一因になっていることは否めない。「仕事がなくてムシャクシャしていた」などはその典型だろう。また、家庭内の会話のなさ、コミュニケーション不足、家族に対する不信もある。
 だが、貧しいながらもまっとうに生きている人はいくらでもいる。事件を起こした人物の多くは自己のフラストレーションのはけ口を誤っていると言わなければなるまい。派遣社員がいつ解雇されるか分からぬ不安を持つのは当然だろう。労働者を消耗品のように使い、一部の大企業と一部の階層の人びとだけが豊かでいられることへの不満の矛先を「自分より弱い者、見ず知らずの人」に向けることは許されざる事である。上司に不快感をもっているなら赤の他人でなく上司に不満をぶつける勇気を持つべきである。それもできず、何が起こっているか分からない状態で無抵抗な人を殺傷する行為は卑怯である。

 「象徴的貧困」(仏・哲学者Bernard Stieglerによる)に陥った多くの国民が、政治に淡い期待をもち、マスコミを利用していつの間にか、役人の湯水のように浪費が糾弾されないまま、「財源がなければ消費税の増税やむなし」などと口車に乗せられかけている現状は、正に為政者の思うつぼである。拝金主義、利益優先が蔓延り、市場原理主義・極端な規制緩和によってどれほどの零細な商店が街から消えたことか。そんな元凶を作った政治家への待望論が取り上げられるほど日本人は愚かだったのか。
 30年ほど前の社会だったら、学生運動、労働運動が激しく起こり、政治、権力に矛先を向け、真剣に社会を住みやすくしようと思い、行動してきただろう。多くの若者を中止とした人びとが真剣に国の将来を考えていた。だが、今はどうだろうか。そんな勇気も英知も持ち合わせず、ただ誰かがどうにかしてくれるだろうと思っているに等しい。

 思い通りにならないから「人を殺し死刑になりたかった。誰でもよかった」などと考えて、見知らぬ不特定多数を殺傷に至る短絡さは、「生きること」の根本が理解できずに成長し、不都合という陰を引きずって凶行に走ったとしか言いようがない。自分の不幸の矛先は目の前にいる人を殺傷して解決できることでないことは自明である。だが、凶行は起こっている。
 その原因のひとつは「事件を起こせば、自分の存在を世の中に知らしめることができる」などという、誤った自己顕示につながっている場合も少なくない。自分の起こしたことで、被害者とその家族はもとより、自らの家族、友人、郷土にどれほどの迷惑をかけ傷つけるか、知るべしである。だが、そんなことが判断できる状況なら事件にはつながるまい。自らを社会的に破壊しなければ解消できない心の闇は、あまりにも深すぎる。そこに至る前に、自らの心を制動する強い気持ちが幼い頃からの訓練を必要としていることに多くの人びとが気づかなければなるまい。いずれにせよ、事件を起こした人物の考えは甘ったれたものである。職場の上司への、親への腹いせのために刃物を他人に向け、関係する人物の気持ちを自分に向けようなどという、子どもがダダを捏ねていることに似ている。従来は殺傷事件のマスコミ等の報道が事件再発の歯止めの役割を果たしていたが、現在はまったく違う。事件の再発を防止したければ事件についての報道は最小限にするべきである。マスコミ関係者は、事件報道を見ながら「犯罪の手口」を学習している人物がいることを知るべきである。事細かに報道する必要はない。また、当分の間、殺傷場面をTVのドラマから外すべきである。殺人ドラマを見ながら無意識的にそうしたことが、事件を引き起こす潜在的引き金になっているのではないか。

 秋葉原の事件後、舛添厚生労働相は派遣労働制度について「大きく政策を転換しないといけない時期にきている。働き方の柔軟性があっていいという意見もあるが、なんでも競争社会でやるのがいいのかどうか。安心して希望を持って働ける社会にかじを切る必要がある」との言葉は同感である。幼時から何事も競わされ、勝ち組と、負け組に分類する社会の単純さと傲慢は、多様性を認めたがらないシステムがもう破綻していることに気づくべきである。白と黒の他に灰色があっていい。1があって0があり、その間に小数点のつく数字が無数あることを認めることが大事なのではないか。多くの小数点のつく人びとが世の中を背負っていることに思いをいたすべきである。

 このまま時計がまわっていくと、今までには考えられない事態が待っているような気がしてならない。弱き者、倒れかけている者、病んでいる者に人びとが手を差しのべるような、当たり前の世の中にすることが急務である。弱肉強食の世の中なら動物の世界と何も変わらない。「相手を思いやる」。そう思う人が増えれば世の中が少しづつ変わっていくと思うのだが。事件を起こした人物はいずれも、「自分の存在を認めて貰いたい」と思っていたのではないか。
 今の社会全般の閉塞感を解消しない限り、不条理な殺傷事件が再発するに違いない。

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