日々の抄

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  みっともない。いいかげんにしろ

2005年6月20日(月)

 今月に入って二子山部屋関連の報道が連日のように報道され、週刊誌も花田兄弟のどちらかに肩入れした報道に力を入れているようだ。
「他人の不幸は蜜の味」を地でいくような、おもしろ半分の報道が連日続いている様子を見ると、日本は平和な国だと感じること実感である。

 名大関貴ノ花の死去の直後から喪主を誰がするか、から兄弟の思いもよらぬ不仲が明らかになってきた。次男の光司が、喪主を務める兄を「長男の花田勝がどうしてもやらせてほしい…云々」と呼んだことから、肉親ならではの深刻な相克が見えてきた。貴ノ花の葬儀は花田家と相撲協会主催の2回行われることが当初から決まっていたのだから、花田家の葬儀が、「部屋の総意ではわたしだった」と弟が主張するのはおかしな話しではないか。兄が相撲から離れたからといっても花田の家から出たわけではない。

 微妙な立場にいたのが故人の元妻であった。「息子2人が横綱になったときは、’世界一の親’といわれたけれど、世界一の苦しみを味わいました」
と言ったが、何が苦しみだったのか。この言葉はミーハー族を少なからず刺激したに違いない。仲のよい兄弟の標本とまで見られていた兄弟に何があったかに興味を持つことは当然なのだろうが、その後の報道に驚かされた。

 兄弟仲がよかったというのはマスコミが作った虚像なのだという。決定的なきっかけが1995年の兄弟での優勝決定戦であり、この一番が八百長相撲だったともとられかねない発言には驚かされた。日本中を湧かせた一戦が、兄弟対戦だから力が入らなかったのだ、などということを今さら聞きたくない。大相撲に対する信頼や期待を裏切るようなことを、自分の意見を主張するために発言することは不愉快そのものである。そもそも、遺産相続が原因らしい弟光司(大人げない発言を続けている人物に対して親方などとは書きたくない)の発言だけが一方的に伝えられるのはおかしい。何も発言しないことは罪である、自分の発言に対して反論をなぜしないのかなどと、公共の電波をはじめとするマスコミを通して兄に伝えようとすることは誠に異常であり淋しいとしか言いようがない。花田家の内輪のもめ事を連日興味本位で伝えるマスコミも考えものである。

 兄勝は沈黙を続けている中で次のようなコメントを出している。「・・・さて、連日、私ども兄弟、そして花田家に関する報道が続いております。私自身、非常に当惑しているとともに、父が築き上げた名誉のみならず大関・貴ノ花ファンだった多くの方々の思い出を傷つけてしまうことになりかねない状況に、申し訳ない気持ちで一杯です。ひとえに、花田家を守らなければならない立場にある、私の不徳の致すところと理解しております。・・・一連の報道に関しては、花田家におけるプライベートな事柄であり、こうしたことで世間を騒がせることは、父も望んでいないに違いありません。そのため、私としては、今後もこの件に関するコメントは、控えさせていただくつもりでおります。」

 まったくその通りである。花田家のプライベートな事柄であるはずの年寄株証書が見あたらないとか、嫁さんの悪口を言われたとか、遺骨の管理をどちらがするかとか、勝の女遊びがすぎるなどということがなぜ弟や家政婦から伝えられなければならないのか。

 内輪話を公にし、身内の恥をさらすようなことを一方的に発言しているのは花田家の恥を曝すだけである。話し合うことがあるなら直接兄弟で話せばいいだけのことで、マスコミを通して弟光司が一方的に話しているのは異常としか言いようがない。話し合いができなければ、相続に関しては法廷で争うしかない。弟光司の発言が続けば続くほど、大相撲に対するしらけた気持ちが強くなるだけだ。あんな世間知らずが「親方」なのなら大相撲など大したものではないと思うのは私だけだろうか。日本人には49日まで喪に服すという習慣がある。服喪中は身を慎んでいなけらばならないはずだが。人格の伴わない親方は一般社会では通用しない。

 大相撲の世界の話であるはずが、兄弟で話し合いの相撲をとっていないというみっともない話である。

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