日々の抄

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 ことしこそ 

2009年1月2日(金)

  米国発の世界恐慌が日本にも大きな社会不安を呈している。赤字にもなってない大企業がある日突然解雇を言い渡した。契約期間内であっても解雇を言い渡す非情さが、収入を失うのみならず、住むところを失うことで一人の人間の生活がどうなるのかを会社経営者は考えているのだろうか。働く人間を単なる「働く;機械」と考えているそうした経営者は人間として低俗で、到底尊敬に値できるものではない。
 今の日本は最低限の生活が保障されているとはいえない。そうした、再雇用の当てもなく越年する人たちにあちこちで支援の手が差し出されている。地方自治体が早急に住宅施設を提供する支援が伝えられたが、バラマキの金を支給するのでなく、国民が最低限の生活を保障するために血税が使われるべきことは見えているが、選挙対策のつもりなのだろうか、一向に国の支援が伝えられてこない。
  一方で、年末には東京日比谷公園で「年越し派遣村」が作られた。派遣労働を解雇され、住むところを失った250名を超える人々が集まった。ボランティアが300名も参加した。炊き出しを受けたという群馬県から仕事に来て解雇された40歳代の人は「今日ほど人の情けを感じたことはなかった。この恩返しは何らかの形でしたい。来年もこの村があれば参加したい」と涙ながらに語っていた。ボランティアの中には高校生もいた。仕事のみならず住むところも奪うという血も涙もない扱いをしている経営者は、こうした善意の市民による行為をどう見ているのだろうか。こうした非正規労働者が多くの職種で公認されることになった原因は小泉改革の規制緩和にある。「労働の尊厳」など微塵も感じされない、理不尽な経営者、非正規労働者の制度を認める社会に限りない憤りを感じないわけにいかない。

  行政発の社会不安は一向に改善の方向が見えてないものが多い。「全員の年金をお支払いします」と時の首相が明言したにもかかわらず、その後さらに悪質な行政による年金改ざんが白日の下に曝された。会社経営者と図って年金支給額の減額を策し、手書きの記録を意図的に破棄したと聞き、国民の生活を守るべき行政の悪意を感じた。立派な犯罪行為でありながら「犯罪の構成要件が何か」などと、この期に及んで責任を回避しようとする無責任さは糾弾に値する。
  仕事を失う人がこれからも数万人単位で増えようとしている状況で、いまだ膨大な予算を道路に費やそうとする族議員のエゴ、数百億円をかけて議員宿舎を建てようなどと考えることを支持するわけにいかない。後期高齢医療制度はその後どのように改善されようとしているのか。

 働く者が、これほど生活の不安を駆り立てられ、蹂躙されているのは、かつて社会党などを中心として働く者を擁護し、結集してきたことを反故にしてきたことにあるのではないか。正規社員は、非正規社員を擁護すると自分たちの立場が悪くなると身勝手な考えがあったのではないか。明日はわが身と考える想像力の欠如が、いずれは自らも職や住居を失うことにつながると考えるべきだろう。多くの人が、自らを「プチブル」と思い違いしたツケが目の前に突きつけられているのではないか。

 「誰でもいい」とする理不尽な殺傷事件が多発していることは、しっかりした生活基盤を持ち、穏やかな気持ちでいられない社会状況と無関係ではない。20年前にベルリンの壁が崩壊してから、社会主義は人々を幸福にしない、自由主義が唯一の善であるかのように喧伝されてきたが、米国発の大恐慌はこうした考えが正しくなかったことを証明しているのではないか。グローバル化の現代は国を問わず、「何が人を幸福にするか」の再検証を促しているように思えてならない。拝金主義、一国覇権主義などが多くの場合、人身を蝕み人を不幸にしている。

 先の大戦で、すべてを失った人々が、「英雄よ来たれ」と願ったように、今まで信じてきたもの、信じてきた事をもう一度検証し、新たな価値観の構築が望まれる時期に来ているように思う。

 ことしこそ、「まことに生きるものに光あれ」の1年であってほしい。

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