日々の抄

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 普段と変わらない自分でいることが支え

2009年3月27日(金)

 サムライジャパンがWBCで2連覇した。前回は2006年。米国と対戦し意図的とも言える米国人審判による誤審、王貞治ジャパンが日本中に勇気と喜びを与えて久しい。原監督の心労は、いかばかりかと思う。勝って当たり前という心的圧力をはねのけて連覇できたことは、再び日本中に喜びを与えてくれた。

 優勝が決まった瞬間、多くの人が涙を流して喜んでいる姿を目にした。日本中で決勝戦を仕事や学業をサボタージュしてまで観戦し、シーソーゲームの試合の成り行きに一喜一憂した。延長戦になり、あれほど不調だったイチローが決勝打を打って勝利に貢献した、ドラマなきドラマがあまりにも劇的だったことが、あたかも自分が試合に参加しているかの如き錯覚にさえ覚えさせてくれた。その喜びの余韻が何日も続いている。イチローが最後の決勝打を打てなかったら結果はどうなったか分からない。決勝戦までいきつくまで、若者の力と、試合を通じての成長が大きな勝因だったことは忘れてはなるまい。

  勝因はいくつもあるのだろう。原監督が選手の優れている点を認め、決して頭ごなしに、どやしつけるような接し方をしてこなかったことが、選手の「責任感とやる気」を引き出したことにつながっているのだろう。技術的な面のみならず、選手が「サムライ」の心をを意識していたという。試合開始時に茶髪の姿がいつしか全員が黒髪に変わっていたことがその象徴かもしれない。だが、侍はサムライのようにクチャクチャガムは噛むまい。

  いつもは、プロ野球などあまり見ない私も、WBCに惹きつけられた。必勝を願ったのは、第2ラウンド2回戦の対韓国戦からであった。この試合で勝利した韓国は、試合後ピッチャーマウンドに韓国国旗である通称太極旗を立てた。だが、その後対韓国戦で日本は一度も負けることはなかった。韓国では竹島領有、歴史問題などでいまだ「反日」感情は消えてない。そうしたことが、日本に試合で勝ったから旗を立てることにつながっているなら悲しいことである。スポーツでは、歴史問題は関係なしにしてほしいものだ。ただ、そうした意思表示をしなければならない現状があることもわすれまじである。日本選手も何人もが、「日本のために戦った」と語っていた。誰しも自国の応援をするのは自然な感情である。学校でクラス対抗戦があるときに、自分のクラスに声援を送るのも自然な感情である。それが、国なのかクラスなのかの違いだけなのではないか。

 文科省の役人や、右傾化し、「愛国心をしっかり教育せよ」、と説く政治家は、今回のWBCでの日本国民が熱心に応援し、勝利を祝い、「ニッポン優勝バンザイ」と歓喜したことを考えるべきである。こうして自国に声援を「自然な気持ちで」送る心情こそ、「愛国心」なのではないか。どこぞの国のように、自国を応援し、対戦相手にヤジを飛ばことを義務づけている国とは違う。つまり、今回のWBCのように、日本を自然に応援し、日本人でよかったと思うような場面が沢山作れるといいのではないか。今のニッポンにそうしたことがどれほどあるのか。

 今回のWBCで日本国中が「サムライジャパン」を熱心に応援したのは、先行きの見えぬ政治、経済状況の中、将来への展望の見えない状況下に、「感動したいこと」を望んでいたためではないか。自分が試合に出たのでもないのに、選手になった気にさせ、満足感を与えてくれる。それがスポーツのいいところなのだろう。次回のWBCは4年後の2013年。イチローをヒーローとして期待していれば3連覇は難しいかもしれない。

 不調だったイチローが「普段と変わらない自分でいることが僕の支え。そうでないと、このタフな状況で自分を支えきれない」と語っている。含蓄がある言葉である。また、楽天の野村監督の「米国のうぬぼれを懲らしめることができただけでも、価値があったのでは」は痛快である。

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