日々の抄

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 叱るのも仕事です

2009年4月3日(金)

 愛知県半田市の中学校で、男子一年生によるおぞましい事件が起こった。妊娠中の担任に対する恨みから、「先生を流産させる会」を11名で作ったという。11人のうち6人は名前だけの参加で、実際に加わったのは5人という。1人は発案者、1人は見張り役、3人が実行役だったという。行った行為は、担任の車にチョークの粉やのりなどを混ぜ合わせてふりまく、椅子の背もたれのねじを緩める、消臭や殺菌、食品添加物などに使われるミョウバンを理科の実験の際に教室に持ち帰り、担任の給食に混ぜたなどという。幸いにして担任に健康被害はなかったというが、これらは立派な傷害事件であり、「いたずら」の類とは言い難い。

  これらの生徒は、クラスに発達障害と不登校の生徒がいて、その生徒の周りに仲の良いクラスメートを配置する席替えを行ったことや部活動でトラブルを起こした生徒に、担任として注意したりしたことに不満を募らせたことが原因という。これらの生徒の嫌がらせぶりをみかねた他の生徒が違うクラスの生徒に打ち明けたことから別の教諭も知るところとなり発覚したというが、生徒の打ち明け話がなかったら、深刻な事態に発展した可能性も大きい。

 市教委は「生徒たちは単なるゲーム感覚でやったのかもしれないが、ひとつ間違えれば大変なことになっていた」、「妊娠中の女性教諭にしたことがいかに悪いことか。命の大切さや人の痛みが分かるよう、これからも生徒に指導していきたい」としているが、校長の「個々にはいい子たちで、最初は信じられず、仰々しいネーミングにも驚いた。ただ軽いのりからエスカレートしたようで、計画的とまでは言えない。命の重さについて、より指導を徹底していきたい」という発言には驚かされる。「いい子」が傷害事件につながる行為を複数で行うはずはない。校長の言う「いい子」とは、「学校に迷惑をかけない、手のかからない子ども」であり、そうした行為に至る気配を学校が感知できなかった弱みを認めない訳にいかないだろう。危険な行為が繰り返されているにも拘わらず、「計画的でない」となぜ言えるのか。事を穏便に済まそうとする「におい」が感じられる。校長の発言には、被害にあった担任に対してどう思っているのか、が伝えられてない。保護者を交えてこれらの生徒が担任に陳謝したというが、それだけで済む問題なのか疑問である。担任に健康被害がなかったとしても、担任に大きな心の傷が残ったであろう事を推し量ることをすべきである。

 生徒が、教員から叱られることは日常茶飯事である。問題は叱り方と、叱られる生徒が「なぜ叱られたか」を理解させているかである。もうひとつは、親にも叱られ馴れてない生徒が、自分が不満に思うことの、他人に危害を加えない形での問題解決能力を身につけていないことだろう。席替えがすべての生徒に満足行く形で行える保証はない。部活でトラブルがあれば、担任としてクラスの生徒に注意を喚起することは当然のことである。今の世の中で欠けていることは、自分にとってたとえ不利益で不満が残っても、悪いことは「誰に叱られても」悪い、と受容できないことだろう。それは大人も同じである。他人に言われたことが癪に障っても、「でも、自分が悪いのだから仕方ないか」と思える気持ちの大きさがなければ、世の中、トラブルだらけになるだろう。
 
 薬物を食物に投与したり、椅子のネジを外した結果、そのことが何を引き起こし、どのような結果が生じるかを「想像」できない発想の貧困さと幼さは、末恐ろしいものがある。自分の行っていること、行おうとしていることの責任を、「自分一人で背負わなければならない」と考えさせる努力が求められるだろう。今回のおぞましい行為が複数の生徒で引き起こされたが、複数であるがゆえに自分だけが悪いのではない、という責任転嫁につながることの恐ろしさも知らしめなければなるまい。大人が、自分の意見を言いわず、「みんながそう言っている」という発言していることの多いことも、子どもは見ならっているのかもしれない。
 自分の自転車が汚されたり、自分の給食に異物を入れられたり、椅子が壊されていたらどう思うか。そうしたことを想像させる努力が求められてる。「自分がされたくないことはしない」それが必要なのではないか。

 今回の事件で、小説「城之崎にて」の主人公が、「小川の石の上にいたイモリを、驚かそうと投げた石がそのいもりに当って死んでしまう」という内容を思い出した。

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