日々の抄

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 「脳死は人の死」なのか

2009年7月20日(月)

 衆院本会議は6月18日、臓器移植法改正4法案を採決し、脳死を一般的な人の死と認め、臓器提供の年齢制限を撤廃し、小児の提供に道を開くA案に430人が投票し、賛成263人、反対167人で可決、参院本会議で7月13日に改正臓器移植法A案が賛成多数で可決された。この投票はほとんどの党が党議拘束をかけることなく、議員個人の判断で行われた。ほとんどの党の代表、総裁がA案に反対であったことは特徴的なことであった。
 A案は、「脳死は人の死」を前提に、本人の意思が不明な場合でも家族の承諾で0歳からの臓器提供を可能にするもので、「脳死の位置づけ」は「人の死」が前提で、家族に判定拒否権を認める。「臓器提供の条件」は「家族の同意(本人が巨費の場合を除く)」。「子どもからの臓器提供」は年齢制限なしとし、親族への臓器の優先提供とする、というものである。
 
 内閣府平成20年6月調査による「臓器移植に関する世論調査」によると、「脳死判定後の臓器提供(心臓や肝臓など)に対する本人意思」は、『仮に,自分が脳死と判定された場合,心臓や肝臓などの臓器提供をしたいと思うか聞いたところ,「提供したい」とする者の割合が43.5%(「提供したい」22.5%+「どちらかといえば提供したい」21.0%),「どちらともいえない」と答えた者の割合が28.4%,「提供したくない」とする者の割合が24.5%(「どちらかといえば提供したくない」7.3%+「提供したくない」17.1%)』であった。
 毎日新聞が9月に実施した臓器移植に関する世論調査で、臓器移植法改正論議の焦点となっている、脳死状態となった15歳未満の子どもからの臓器移植(摘出)について、親の承諾を条件に「賛成」と答えた人が57%に上った。00年2月の同じ調査では「賛成」が48%で、9年間で容認派が9ポイント増えた。一方、脳死を一般的な人の死と認めるかどうかに関しては、現行法通り「臓器提供の意思を示している人に限るべきだ」が52%で過半数を占め、「人の死と認めるべきだ」は28%にとどまっている。

 臓器提供によって助かるかもしれない命があることは確かだが、脳死移植はここ10年で81件にとどまっている。法律で「脳死は人の死」と定めた事により、提供者が新たに現れ助かる命はあっても、逆に、『1歳のとき、原因不明のけいれんをきっかけに自発呼吸が止まり、脳内の血流も確認できなくなった。旧厚生省研究班がまとめた小児脳死判定基準の5項目のうち、人工呼吸器を外して自発呼吸がないことを確かめる「無呼吸テスト」以外はすべて満たしたものの、それから8年、人工呼吸器をつけて自宅で過ごし、身長は伸び体重も増えている』というような場合、「あなたの子どもは人の死」なのだ、と思われている親の気持ちはどうなのだろうか。体に暖かみがあり、微かながら家族からの問いかけに反応していると思われるわが子の臓器を提供することができるのだろうか。

 「脳死が人の死」とする国民的同意を得ているとは思えない。かつて、米国で交通事故に遭って20有余年の植物状態の女性に家族が話しかけ続けた後に、意思表示するまでに回復した例もあった。
(拙HP 「命の綱は断たれたが」
 臓器提供によって助かる命がある一方で、脳死が本当の人の死なのか、という素朴な疑問を拭い去ることはできない。改正臓器移植法に反対する人に対し、「助かる命を放置する考えを持つ人物は、無責任である」などという発言をマスコミで聞いたことがあるが、暴論としか思えない。自らの家族が臓器提供の立場に立っていたらどうなのか。

 一方で、最近英国で著名な指揮者が、夫人が末期の癌で残り少ない命を思い、夫婦で安楽死したと報じられた。臓器移植法を議論するとともに、安楽死に対する国民的議論がなぜ起こらないのか不思議である。映画「おくりびと」が絶賛され、「日本人の死生観が的確に表現されている」との評価があったそうだが、日本人の死生観とは何なのか。死者を丁重に手向けることは言うにおよばないが、生きている人が大事にされてない現在の日本において、国民に共通する死生観はあるのか。生死の問題に関わる考え方や議論は、総論賛成、各論反対であるなら、共通認識など得られまい。

 「脳死が人の死」の審議の時間は、衆院で9時間、参院では13時間だけだったという。「人の死」の判定がこれほど短時間に決定されていいものなのか。衆院選挙を間近にして、保身しか考えてない議員に人の死の定義など決められたくない。この世に何かの意味を持って与えられた命の重みを、軽々に論じられほど自分の「命」は軽いものではない。「脳死が人の死」との考えが医学の進歩によって誤りであったとする日が来ることを私は信じている。最善の策は、臓器を移植することなく、優秀で再生のきく人工臓器が開発されることにある。その日の来ることが一日も早いことを願っている。

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