日々の抄

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 終戦記念日に思う

2009年8月18日(火)

 15日の終戦の日を中心に、今年も「戦争の記録」の報道、ドキュメンタリーを可能の限り視聴した。自分の記憶の中には、戦争はあってはならぬこと、人道的に悲惨な国家的侵略行為という想いはあっても、その実態があまりに凄惨であり、戦後64年といえど多くの人に傷跡が拭い去れぬ記憶として今も残っていることを考えると、避けて通りたいと思っていた。だが、今年は可能な限りの記録を視聴した。私の大伯父、伯父は軍属として皆、国に命を奉じた。叔父は傷痍軍人として終生、戦地での記憶を語ろうとしなかった。

 「ヒロシマ・少女たちの日記帳」から始まり、「ノーモア・ヒバクシャ核兵器のない世界を目指して」、「星条旗のもとに生きたヒバクシャたち」、「あの日・僕らの夢が消えた〜長崎原爆特集」、「被爆者からの手紙」、「証言記録・市民たちの戦争」、「セミパラチンスク・18年後の現実・カザフスタン核実験場跡」、「最後の赤紙配達人」、「悲劇の神風・人間魚雷」、「フィリピン・シブヤン海“戦艦武蔵の最期」、「認罪 中国撫順戦犯管理所の6年」、「楽園の島は地獄になった・テニアン島」、「海軍反省会」、「国戦線・大陸縦断・悲劇の反転作戦」、「中国雲南・玉砕・来なかった援軍・福岡県第56師団」、「インパール作戦・補給なき戦いに散った若者たち・京都・陸軍第15師団」、「ビルマ濁流に散った敵中突破作戦」、「集団自決”戦後64年の証言・沖縄・渡嘉敷島」、「重爆撃機・攻撃ハ特攻トス・陸軍飛行第62戦隊」、「人間魚雷・悲劇の作戦・回天特別攻撃隊」、「戦場の少年兵たち・沖縄県・鉄血勤皇隊」、「禁じられた避難・青森市」、「硫黄島・玉砕戦・生還者61年目の証言」、「戦争とラジオ」など、視聴には膨大な時間を要した。

 戦地での悲惨な経験者の言葉は重い。自らの経験を長年口外できなかったものの、次世代に同じ思いをさせないためにも、今語り継がなければならないとの思いが強かったという。これらドキュメントを視聴した感想をいくつか記してみたい。
 そのひとつは、セミパラチンスクでのソ連による核実験、フランスの太平洋上の核実験が住民の命を何とも思ってなかった結果であるように、時の権力者は国威発揚、国力増強のために国民の命を軽んじていたこと。それに共通するのは、人間魚雷、回天特別攻撃など若者の命が赤紙一枚でいくらでも補給できると考えていたことである。
 もうひとつは、満州国に多くの人びとを半強制的に送り込みながら、敗戦色が濃くなって来るや、関東軍は満毛開拓団を放置して真っ先に撤退した。そのことによってどれほどの悲劇が残されたのか。同じ事は、インパール、ビルマでも司令部が前線の兵士を置き去りにしている。硫黄島で兵力を補給することなく、撤退を指令することもなく、犬死にを強制してきた。軍指令は自らの命を守っても前線の兵士を守る努力をしなかった。

 多くの場合、「自決」を余儀なくされたのは『恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』の「戦陣訓」であった。「捕虜の人道的待遇」に「捕虜は常に人道的に待遇しなければならない」というジュネーブ条約を知っていさえいれば、失わずに済んだ命がどれほどあったのだろうかを思うと、日本軍参謀の罪は余りに大きい。その「戦陣訓」を唱えた東条英機が虜囚になり、敵国の裁きを受けたのはどういうことなのか。国民を守るはずの「国」が国民を守ろうとしなかったことは忘れてはならないことである。

 一度戦争に国が向かうと容易に戻れないことを多くの人が痛みを伴って学んだはずである。戦地から帰還できても、悲惨な経験を誰にも語ることなく他界した人も少なくない。だが、人は歴史に学ばなければならない。勇ましさに目くらましを喰った結果がどれほど悲劇的なものだったかを、多くのドキュメントタリーから知ることができる。いかに詭弁を弄しても日本が中国をはじめ諸外国に進駐してきたことは侵略そのものである。それを「自虐的歴史観」と称し、日本軍の蛮行を正当化しかねない教科書があちこちで採択されはじめていることは時代に逆行しているとしか言いようがない。戦争を知らない国会議員が、核兵器の論議を封ずるな、自衛力を増強せよ、などと声高に語っているが、彼らは歴史に学ぶ謙遜さをもつといい。

 あまりに多くの悲惨なドキュメントを見たためか、暫くの間は気の重い日が続いている。衆院選挙が公示された。経済対策をはじめとする論議の多い中、憲法9条に対する論議が殆どないことを憂慮している。


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