日々の抄

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 天の目はないのか

2009年12月18日(金)

 米国のオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞した。ノーベル平和賞はアンリ・デュナン,シュバイツァー,キング牧師,マザー・テレサなどを例外とすれば,多分に政治的な要素を持っていることは知られているが,オバマ氏の受賞演説を聞いて,多大な失望感を感じないわけにいかない。
 彼は核廃絶,環境問題改善へのメッセージを世界に送ったとしても,それは「演説」に過ぎないだけで,何ら実行の伴うものではない。核廃絶を訴えても,核兵器保有量が最大で,未臨界核実験をやめることなく,環境問題を訴えても地球温暖化に最も寄与しているのは米国であることは変わらない。彼の未来への期待値としての平和賞だったはずだ。 『シュバイツァー博士、キング牧師、マーシャル米国務長官、マンデラ南アフリカ大統領ら、過去に受賞した歴史上の巨人たちに比べ、私の実績は小さい。』など語る必要のない知れたことで,比べることが誤りである。

 失望させられた以下の演説内容は容認しがたい。
 『世界には「悪」が存在する。非暴力運動でヒトラーの軍隊を止めることはできなかった。アルカイダの指導者たちに武装解除するよう、説得することはできない。時に武力が必要だと認めることは、歴史を認識することだ』
 『私は戦争を解決する決定的な答えを持ち合わせていない。正義の戦争という概念と正義の平和の実現について新たな手法を考えなければならない。我々が生きている間に暴力的な紛争を根絶できないという厳しい現実を認めなければならない。武力行使が時として必要であるばかりか、倫理的にも正当化されることがこれからもある。』
 『キング牧師は、平和賞の式典で次のようなことを述べた。「暴力は恒久的平和をもたらさない。いかなる社会問題も解決しない。より複雑な問題を新たに作り出すだけだ」。・・・・彼らの規範だけに導かれるわけにはいかない。現実の世界と向き合わなければいけない。』
 『戦争という手段は実際、平和を維持するために役割を果たしている

 所詮,世界の警察を自負する米国大統領の演説内容は,いかに美辞麗句を並べてみても,米国の正義は正しく認められるべきもの,「正義の戦争はある。力で事態を解決する」という従来の米国の流儀は何ら変わらないということである。「戦争という手段は実際、平和を維持するために役割を果たしている」としている「平和維持」は,米国に都合のいい平和維持なのではないか。紛争地域で,なんら罪なき民を殺害していることを考えれば,米国はベトナム戦争で何を学んだのか。イラクで何を学んだのか。罪なき何十万人もの日本国民を核兵器で殺戮した事から何を学んだのか。「倫理的に正当化される武力行使」などという「倫理的」とは何か。彼は教会で祈りを捧げているはずである。神は武力行使=殺人を肯定されるのだろうか。もし正義の武力行使があるなら,数限りある宗教それぞれに正義の武力行使があり,紛争,戦争はなくなることを期待することは無駄である。

 この世で最も不幸なことは,不正,不義,殺戮を行ったことを直ちに罰する「絶対者」が存在しないことである。もし,そうした絶対者が存在すれば,戦争に費やしている愚かで膨大な浪費が不要になる。また,他人を疑うことなく,心安らかな生活が国の境なくできることになる。

 宗教,民族によらず,「他人を殺める事勿れ」が成り立たなければ不幸がなくなることはあるまい。いかなる国にあろうとも,いかなる場面でも,不正義を律する「天の目」はかならずありうると信じたい。


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