日々の抄

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 パラリンピックを見たかった

2010年3月24日(水)

12日から開かれていたバンクーバー・パラリンピックは21日閉幕した。日本勢は金3、銀3、銅5の計11個のメダルを手にした。これは前回トリノ大会の9個を超える健闘だった。「パラリンピック」の名は障害者の競技会第2回大会であるパラリンピック東京大会で初めてその名が使用されたが、下半身の麻痺を意味するパラプレジア(Paraplegia)とオリンピック(Olympic)を組み合わせてパラリンピック(Paralympic)と称していた。1988年の第8回大会(ソウル開催)から、パラレル(Parallel=「平行の、同様の」の意)という語とオリンピックと組み合わせたものとして使われるようになったという。このことからパラリンピックは、「もうひとつのオリンピック」とも呼ばれるようになった。

だが、マスコミの扱いはどうだったろうか。新聞は連日の成果を伝えているものの、TVでは連日の結果を伝えものの、金メダルを2個獲得した新田選手の活躍、幼時期に家族の不注意で片手を失った後の努力の様子を伝える程度であった。健常者のオリンピックでの加熱した個人情報も含めた異常なほどの熱気は全くなかった。オリンピックで事細かに伝えたカーリングだったが、パラリンピックの75歳の選手の試合の様子を見たいと思っていたが叶えられなかった。パラリンピックは、オリンピックにまして、試合に出るまでの努力は壮絶なものがあるだろうし、感激を与えてくれるものである。しかし、その様子のほとんど伝えられず残念至極かつ、報道の扱いに腹立たしささえ覚えないわけにいかなかった。

各TV局はパラリンピックの「パラレル」の意味を解さず、差別視していることは明らかである。「差別のない社会を」などとテレビ局のやっているキャンペーンは白々しい限りである。金メダルを2個も獲得した選手の映像をなぜ一部分だけ、それも短時間しか放映しないのか。もし健常者のオリンピックで同様の活躍があれば、各局がこぞって褒めたたえ映像を繰り返し流すに違いない。

一方、オリンピックの場合、メダル受賞者への報奨金はJOCから金、銀、銅でそれぞれ300万円、200万円、100万円だが、パラリンピックの場合日本障害者スポーツ協会(財源は募金による)から100万円、70万円、50万円が支給されるというが、あまりの違いに驚かされる。国からの補助金は、オリンピックでは「スポーツ立国の実現」として文科省から25.9億円、パラリンピックは福祉・社会参加、リハビリの一環として厚労省から2.6億円という。障害者スポーツに国民的理解があるウクライナでは個人でパラリンピック選手に資金援助ができる仕組みができており、金メダルの報奨金は1000万円だという。

好んで障害者になる人はいない。障害を持ったことで絶望に打ちひしがれる状況下、スポーツによって生きがいを得えている人も少なくないだろう。そうしたなかから時間的、経済的、身体的な困難を克服して参加したパラリンピックで選手の活躍がなぜオリンピックと同様に扱われないのか。
 24時間を超える長時間番組を放映しているテレビ局に聞きたい。番組の中で、困難を乗り越えようとしている人たちを伝え、募金を集めていることと、パラリンピックの放映が殆どされないことに矛盾はないのか。石川遼の妹がゴルフデビューしたことを事細かに放映するほどの時間をなぜパラリンピックに時間が割けないのか。そんなテレビ局の気が知れない。

パラリンピック報道で障害者に対する偏見と差別を見た気がする。障害者への援助は「好意」によるのではなく「制度」でなされるべきではないか。

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