日々の抄

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 所在不明で済むのか

2010年8月6日(金)

育児放棄から,わが子が部屋から出られないように細工して食べ物を与えずに餓死させたなどという,考えられないことが伝えられ,「世も末だ」と想わせる凄惨な事件が絶えないが,先月末からの,「高齢者所在不明」は更に深刻な現代日本の断面を見せつけられ暗澹たる気持ちにさせられている。

ことの発端は,7月26日に足立区の職員らが111歳の誕生日を祝って記念品を贈るために自宅を訪問した事から始まる。81歳の娘が「父は誰とも会いたくないと言っている」と話し、記念品も辞退していたが,53歳の孫が「祖父は『ミイラになりたい』『即身成仏したい』と言って30年前に自室に閉じこもったままだ」と説明。直後に警察が自宅でミイラ化した男性の遺体を発見した。死亡した本人に振り込まれていた妻の遺族年金計約950万円のうち、約610万円が引き出されており,刑事事件に発展している。家族は本人が死亡した後,死臭を嗅いでいながら30年もの間同じ屋根の下に生活していたという異常さは常軌を逸している。

死者が出た場合,親族,同居人などが死亡を知ってから7日以内に,死亡した場所,本籍地,届出人所在地の役所に死亡診断書または死亡検案書を提出しなければならない。期間が長期,理由が悪質の場合,死体遺棄罪に問われることもあるという。

この事件を発端にして都内で113歳の女性の所在が確認できないことも発覚。家族は「母と最後に会ったのは86,87年ごろで、死んでいるか生きているかも分からない」と話している。同居しているはずの娘は,母親分の税金や各種保険の支払いをしていたという。娘は年金を受給して居らず,医療保険も5年間は使用されず,,高齢者のお祝品も受領しなかったという。
 その後,全国で100歳以上の高齢者の所在の確認が行われはじめ,所在不明数は5日には57人(NHK調べ),52人(読売新聞調べ)と伝えられているが,更に増えることが予想される。

高齢者の所在不明事件は3つの要素を考えなければならない。
第1は,高齢者である家族が死亡ないし不明になっても,役所に届けることなく年金などを不正受給するという詐欺行為である。同様の行為は過去にも多数発覚しており,親族が死亡届を提出しない場合は「生存」扱いとなり、年金の支給が続いてしまうことに問題がある。また所在を確認しないまま祝い金などを渡してきた役所は怠慢である。個人情報云々をいう場合はそれらを渡す必要はない。
 第2は,親の所在が数十年に亘って不明でもそのまま放置していられる,今までには考えられない家族関係が多数あることである。自分の親が高齢になればなるほど,親の健康を気遣って,やがて消えゆく親を労り,育ててくれた恩に報いたいと思うことは人として当然の行為と思うが,現実は違う。その理由を,単に
「核家族化の結果」「親子関係の希薄化」などということで説明していいものなのか。
 第3は,所在不明の人は,高齢者だけではないだろうこと。それ以下の年齢の人びとの中で所在不明の人がいても不思議ではない。所在不明の高齢者の何十倍もの不明者を放置していいのか。

 所在不明とされる高齢者は戦前,戦中,戦後の艱難辛苦を越え,日本の発展に貢献し,いま正に社会や家族から厚遇され,心安らかに最期を迎えられるべき立場にあるのではないか。一方,所在不明を放置している人は70歳代を越えるている。戦後教育がこの世の荒廃を来したなどと論じる者もいるが,そうしたことは当てはまらない。単に経済的困窮が親の所在さえ気にならずに放置してしまう原因なのか。

今の日本は人間として大事なものを失いつつあるように感じられてならない。国会で行われている論議が,政党の縄張り争いや個人の過去の発言の言質を捉えるような内容では,こうした傾向が更に進むかもしれない気がする。人の心を大切にできる社会を考えるには,「自らがここにいられる」ことのありがたさと理由をもう一度考え直すしかないのではないか。自分の親がどこにいるか分からない,などということは到底考えつかないことである。いずれにせよ,今回の一件で近隣諸国からとやかく言われる筋合いはない。

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