日々の抄

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  恐怖の限りだった

2011年3月13日(日)

 想像できない揺れが突然あった。東北地方太平洋沖地震と名付けられたマグニチュード9.0(3/13に8.8から変更された)で千年に一度という日本では明治以降最大規模であった。
 大きな揺れに慌てずサクラインコの鳥かごを持って2階に待避。阪神大震災の地震で1階がぺちゃんこに潰された建物のあったことが思い出されてのこと。数分に亘り大きな横揺れがつづきミシミシと音を立て、到底立っていられない状態だった。今までに経験したことのない大きな揺れで、「このまま家が潰れる」と感じた。鳥は恐怖でビチビチと鳴き続け羽ばたきをやめようとしなかった。この揺れが続けば、天井が落下、壁が剥がれて骨組みが破壊、建家倒壊に至り下敷きになり・・・・ということになるかもしれないという思いが短時間に頭をよぎった。だが、幸いにしてやがて静かになった。
 その後何度も繰り返す余震のたびに2階に駆け上がることを繰り返した。少し経って外に出て周囲を見渡しても瓦屋根が落下していたり、塀が倒壊していることはなく一安心。

 だが、その後テレビの報道を見てびっくり。震源が点の状態でなく、線の状態になっており、それも500キロにも亘っていて、岩手、宮城、茨城などが震源地になっていた。マグニチュード6,7の余震が何度も続き、津波のため陸前高田市などは町全体が瓦礫の山になり町が消失してしまった。200〜300人が溺死した地域もあることを目の当たりにし恐怖を感じた。
 再認識したことがいくつかある。津波は周期的波でなく、水の塊が移動する波、つまり先端がパルス波になっていてそれに水位が数メートルを超えて水が連なっているのである。車も家も家財道具も船もみな塊になって流されている中に人もいた。到底人知の及ばない巨大なエネルギーを見せつけられる気がした。宮城県南三陸町では未だ約1万人の行方が不明になっており、被害の全容が判明するにはかなりの時間を要することは間違いない。もうひとつの再認識は,非常時に携帯電話は使い物にならないことである。何人かに安否確認したが,送ったメールが12時間後届いたことが後で分かった。

 さらに恐怖と疑いを持ったのは、福島第1原子力発電所1号機のメルトダウン(炉心溶融)事故である。事故の直後操業を停止し安全な状態になるはずが、冷却水を送るはずのディーゼル発電機が動作しなくなったという。炉心のメルトダウンは日本では初の事故である。炉心の温度は上昇し原子炉を保護する容器内の圧力が上昇。このままでは原子炉の爆発、大量の放射性物質の飛散、大規模の被爆被害の拡大になりかねなかった。最も危険な状態のときは、年間許容被爆量をたったの1時間で放出していた。その量は1ミリシーベルトである。時間が経過するほど原発周辺住民の避難が10キロから20キロ範囲に広がっていき、最悪の場面を想像した。だが、格納容器内に海水と硼酸(核反応制御剤)を満たす作業がなされている。その後第1,2号機より規模の大きい第3号機でも熱暴走が起こりつつあることが報じられている(2/13朝現在)。
 放出された放射線量は人体に影響はないとしていたが、1号炉が爆発当時、3.5キロ離れた位置にいて救助を待っていた内の3人が検査の結果,除染(放射線汚染物質除去)の処置が必要である被爆(最大10万カウント)をしていたことが判明。同じ場所にいた90人も同様に被爆している可能性は十分あり、爆発当時放出された放射線量が果たして安全であったという判断が妥当なのか疑問がある。今まで何度にも亘って原発ではデータ捏造がなされてきたことを考えると俄には信じがたいことである。今回の地震が想定外だったなどという事は理由にならない。原子炉の暴走は絶対あってはならない事である。安全にも安全を重ね避けるべきこと、冷却するための装置はいかなる場合も何重にも動作を保証させなければならない。それができないなら原発は廃止するべきである。スリーマイル島の原子炉暴走、チェルノブイリ原発の凄惨な事故は他山の石になってないのだろうか。スリーマイル島事故で核燃料の除去に11年もの時間を要している。
 原発事故で大きな犠牲は避けられたが、作業に当たったひとびとに被爆者はなかったのか、大いに気になることである。作業に当たったひとびとは必死になって職務に専念したことと思うが、安全に対するシステムに問題があるのではないか。

「天災は忘れた頃にやってくる」の言葉が思い起こされ、生きることが脆弱に思わされる大地震である。


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