日々の抄

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 信じられる言葉を聞きたい

2011年4月10日(日)

東日本震災が起こってからほぼ1月が経過する。
  この一カ月、事態が詳細に判明するに従ってあまりにも甚大な被害に言葉を失い、連日報道される惨状は見るに忍びないものばかりだった。何日も食べ物を口にすることができず、やっとあんパン一つを手にすることができ涙する被災者の姿を、大切な家族、友人を失い悲嘆に暮れている姿を涙なしに見ることができなかった。何度もそうした様子を見ていると恰も自分がそこにいる気持ちになり、被災者でない自分の食欲が落ち、血圧が高いままになり、挙げ句に地震酔いの状態が続き変調を来していた。そんな状況で到底文章を書く気になれなかった。
 被災者にどれほどの恐怖があったろう、どれほどの苦しみがあったろう、どれほどの悲しみがあったろうか。地震による家屋崩壊、土地の陥没・隆起・断層、火災・・・・想像を絶する津波被害で死者行方不明者が3万人におよびそうな歴史的な地震である。すべてが元に戻れるまでにどれほどの時間が必要なのか。すでに失われた命と思い出の品を含んだ財産は元にもどることはない。

地震発生以来のいくつかについて書いておきたい。
第一。政治の働きについて。
  政府は未曾有の震災にうろたえ、先を見据えた対処は行えず、事態の進行に応じた対応に躍起になっている印象が残るのは致し方ないことなのか。全国からの救援物資が氷点下の地で空腹を抱えている被災者になぜいち早く行き届かないのか。どこがどう状況を把握し、機能しているのか全く見えない。見えるのは官房長官が当たり障りのない、「直ちに人体に有害でない」という無難にして不安をかき立てる記者会見の姿だけである。
  同時に、民主党が自民党に被災者救済のために大連立を申し出たというが、なぜ大連立などということが必要なのか分からない。主義主張が異なる政党が連立を組むことは所詮無理である。歴史的な大震災という事態が目の前にあるときに与党も野党もない。自民党は協力するべきは協力するといい、ある有力な自民党議員はもう十分協力しているから云々と発言しているが、自民党が何をどう協力したのか全く見えない。首相が震災直後ヘリコプターで現地に入ったことをなぜ論っているのか理解できない。そんな愚にもつかぬ論争をしているところを停電にせず、人口呼吸器が停電のために命の危険を感じさせているところを停電にしている不条理さは信じがたい。自民党総裁を震災対策担当大臣にしなければ復興に関する政治ができないほど民主党は人材不足なのか。

第二。福島原発事故について
 福島原発の核飛散で多くの日本人の生命財産を危険な状態に曝していることは今も変わってない。歴史的には何度も大津波が東日本太平洋岸を襲っていることを承知していながらなぜこのような事故が起こったのか。政府、原子力委員会、東電は「想定外だった」ということで責任を回避したいのだろうが、こと原発に関しては「想定外」はあってはならない。「想定外だったから仕方ない」と聞こえるが、「想定」に問題があった事への反省がなされるべきである。原子力安全委員会班目委員長はかつて、「どこかで割り切らないと(原発の)設計はできない」としていた。6日の衆院経済産業委員会で、原子力安全・保安院の院長は昨年5月の同委で、電源喪失は「あり得ないだろうというぐらいまでの安全設計はしている」と発言していたことを訂正し、「当時の認識について甘さがあったことは深く反省をしている」と述べ、電源喪失を「想定外」としていた過去の認識について陳謝している。だが、謝って済む問題ではない。原発事故がもたらしたあまりにも甚大な被害をどう思っているのか。
 原発は何が起こっても核を周辺環境へ飛散させてはならない。同時に核物質の冷却システムが機能停止に陥らないことは必須のことであり、それが担保できないなら直ちに原発は廃止すべきである。今回のような事態が生じないだろうと思っていた関係者の思い違いと見識の低さがもたらした結果と思うべきである。
 モグラたたきのように次から次への危険きわまりない事態が発生し、その都度懸命な努力がなされているが、問題解決には想像を絶する時間を要する見込みらしい。現場で命の危険を感じながら努めている作業員には頭が下がる。炉心のメルトダウンなどあり得ない事故である。非常事態に冷静に対応できてないことがいくつもある。そのひとつは4号機が火災を起こした後、鎮火を確認することがなかったため再び火災が発生したこと、事故があった地下室の水が汚染されていたことを承知していたにも拘わらず現場に連絡せず3人が被爆したこと、さらに驚くべき事は最前線で作業している職員に線量計を持たせずにいたこと。線量計が不足しているからということがその理由らしいが、事が露見してから他県の原発から調達しても全員が所持して作業している否か伝えられてない。最も被爆の危険度の高い最前線の職員に線量計を持たせてなかったことは、人命より「カネ」を大事にしているとしか思えない。作業員の命は線量計の値段より低いと経営者は思っているのか。その現場で奮闘する作業員はコンクリート床を寝る場所にし、一日に非常食を2食しか摂れない状態と伝えられていたがその後改善したのだろうか。

  原発事故の退避区域について、政府は当初の3キロから10キロ、20キロと範囲を広げたことは当然のことだが、原発を中心とした同心円が妥当かどうかには疑問がある。風の強さ、地形、風向によって放射性物質の飛散が同心円でないことは当然のこと。大いに問題のあるのは米国の対応である。米国政府は原発から半径80キロ圏内に居住する米国人に避難勧告を出した。「50マイル(80キロ)圏内」は、オバマ大統領が演説で「科学的評価に基づく」と述べ、米原子力規制委員会(NRC)は「慎重かつ妥当なもの」と繰り返していたが、実は仮想の事故シナリオによるもので放射線量などの実測データに基づくものではないことが判明している。虚偽の根拠に基づき、あたかも日本政府の判断が誤っているかのように喧伝したことには大いに問題が残る。根拠のない米国の対応には抗議すべきであり、米国の対応は信用できない。

第三。風評被害について
 多くの国が東日本大震災被害者に対して救援の手を差し伸べている。中には、月収800円という国で数百万円もの義援金を貧者の一灯とし送ってくれたことには頭が下がる思いでいっぱいになった。その気持ちが嬉しい。日常的な交流の大切さを教えられる。
  一方で福島原発事故について、とんでもない誤解、デマが飛んでいる。フランスでは日本が洪水に見舞われ核に汚染されているとして、山梨県立美術館での絵画展への出品を拒否。また横浜美術館で予定していた「プーシキン美術館展」が、「プーシキン美術館とロシア連邦文化省から、震災や原発事故などに鑑み、現時点では日本へ作品を貸し出せない」との判断により中止。三井記念美術館で予定していた「北斎展」も同様に中止されている。
  バンコクの寿司店では売り上げが激減。寿司にガイガーカウンターをかざして販売しているという。米オハイオ州のタブロイド紙には、キノコ雲が三つ並んだ漫画が掲載され、「ヒロシマ」「ナガサキ」の隣に「フクシマ」のキノコ雲が描かれた。英タブロイド紙は、事故の対応中に「作業員5人が死亡した」とし、これが各国のメディアに次々に転電された。
  フィリピンでは原発への影響で放射能被害が同国に及ぶと警告する偽メールが出回り、「アジア各国は必要な警戒措置を取るべきだ」と警告。住民らに屋内へ退避し、甲状腺のある首の部分にヨード系の市販消毒剤「ベタジン」を塗るよう指示。さらに、放射性物質が雨に含まれている恐れもあるとして、「たとえ小雨でも傘やレインコートが必要」と呼び掛けていた。中国では「被曝防止に食塩が有効」というデマで流れ、スーパーに人が殺到するなどの混乱があった。中国の観光局から日本への観光の自粛を要請され、韓国では降雨のため幼稚園、小中学校の計126校が臨時休校になったという。韓国では日本人が災害で苦しんでいるのに日本に観光して笑っていられないという感情も一方ではあるという。国内では、「外国人の窃盗団がいる」「電気が10年来ない」などというデマが飛び、震災を騙るサギ行為が横行している。

第四。責任者の顔が見えないことについて
 福島原発事故について、最高責任者である東電社長が国民に向かって陳謝した姿を見たことがない。また、国民に対しこれからどのように原発を考えているかを伝えてない。保障問題についても然りである。事故発生以来いくらもしないうちに入院しているが、健康上の問題では致し方ないものの、「逃げいてる」という印象を持っている国民は少なくあるまい。新聞の川柳に「計画入院」などと揶揄されても仕方あるまい。
 また、原発を管轄する原子力安全委員長が直接国民に語りかけ、行政としての見解を述べていていないのはどういうことなのか。空気、土、水という人間が生きている上で必須の条件が危機に曝されている。農家、漁業関係者をはじめとし、今後の生活のめどが立てられない状況を作った責任は、東電とともにあまりにも重いものがあることを意思表示すべきである。

第五。新たに分かったことについて
 大震災によりガソリンをはじめ多くの物資が欠乏した。東北地方がいかに日本の産業に貢献していたかが改めて分かった。農林水産漁業のみならず、電力、製紙、IC産業、自動車産業しかりである。震災のあった2週間後までガソリンスタンドまでの長蛇の列、平日にも拘わらずホームセンターで非常用物資を買い込み、数十人もが灯油販売の列に並んでいた異常さがあった。
 大規模な計画停電で、今までいかに考えなしに電気を浪費していたかを再認識した。大規模停電を避けるために寒くても一枚着るものを増やして我慢し、無駄な電力をカットする努力をすることを考えさせられた。原発は必要といいながら、あちこちで節電をすれば原発が停止していても大規模停電になることはなかった。計画停電で分かったことは、変電所の系統網が町名単位でなく訳の分からない複雑さがあること。東京23区は計画停電の対象にせず不公平だと思っていたら、荒川、北区だけは例外で荒川区が100キロも離れた私の居住している地域と同じ停電グループに入っていることは意外だった。その23区内にあるドーム球場で煌々と明かりをつけてプロ野球のナイターをやるなどもってのほかと思っていたら、「23区は例外だろう」などと嘯いて早期開幕を主張する野球オーナーの思い上がりも再認識であった。福島原発が作る電気が首都圏に供給されていることを再認識すべきであり、23区だけが特別扱いされる理由がないことも考えるべきである。また,電力使用量を減ずるために電気料金を値上げせよなどと語る愚かな大臣がいることも分かった。

 原発事故で多くの人がマイクロシーベルトやベックレルなどという単位が身近になってきたのではないか。放射線の強さを示す単位にRAD(ラド)なるものがある。これは一匹のネズミを殺傷するための線量である。原子核反応や放射性崩壊は授業で講義するが、核燃料棒が核分裂を続けることによる発熱で約三年間も連続して冷却しなければならないことは知らなかった。また、自分の居住している地域の放射線量がどれほどかも再認識した。全国の県庁所在地で比べると前橋は青森、盛岡に並んで最も平常時の放射線量が少ないことも分かった。それに比べ最も放射線量が多い地域では当地の数倍にも及んでいることも分かった。
 水道水の放射線による汚染の報道で、当地域の水源は三カ所あること、水道料金が水源によって2倍もの違いがあることも分かった。

第六。信頼できることについて
 8日夜半には大きな余震があり、大地が大きく揺れ東北の地での津波の恐怖がよぎった。地震直後、テレビ局内の地震被害の様子が動画で映し出されていたが、棚を固定するでなくバタバタと機器が倒れている様子を見ていると、「地震にしっかり備えをしましょう」などと呼びかけているテレビ局は自分のことはどうなっているのか聞いてみたい気がした。また、節電を訴えていながら、ある番組でノースリーブで出演している女性の姿を見た。それほど暖房を強くしてテレビ局内はホカホカになっているのか。夏場に長袖で厚着している出演者を見ることもあるが、テレビ局は自ら実行してから節電を訴えるといい。安全な局内で、衣食住足りて「被災者に救援の手を」などと騙っているお気楽なコメンテーターの言葉は軽いだけである。

 目の前の困っている人を見過ごせずなんとか手を貸したいと思うのが日本人だろう。全国の多くのボランティアが被災地に出向きたくても諸般の都合で受け入れがたい事情があるという。氷点下の寒さの中で震えている人に、洗濯して清潔な衣類を送ろうと思っても、「新品に限る」らしい。辻本清美氏はボランティア担当相に就いていると聞いたが最近は姿が見えない。何をやっているのか。
 「がんばれ日本」と声高に語りながら、茨城県産や群馬県産の、放射線量飛散に関係してない農産物を「危険だから」といって買わない人が少なからずいる。何が「がんばれ」なのか。群馬県の放射線飛来が怖いからといって大阪に子ども連れで避難している人がいるという。大阪の方が放射線量が多いこと知ってのことなのか。いちど規制値を超えた農産物に安全宣言が後に出され、再出荷が可能になるシステムがなかったという。関係者の必死の働きかけでそれがやっと可能になったことは意外である。

 3月31日福島産の牛肉に規制値を超えた放射線が出たと報じられたが、翌日にはそれが誤りであった(汚染されていた容器を使ったらしい)などという、農家の苦悩を知らない厚働省のデータ、3月27日2号機で通常の原子炉内の水の濃度の約1000万倍に相当する極めて高い濃度が検出されたと報じたが夜になり、東電は「誤りがあった」としている。これではいくら「安全です」といっても俄には信じがたい。
 今求められているのは何が安全なのか、危険なのかを分かりやすく政府が責任を持って専門知識に基づいて伝えることではないか。「すぐに心配ない」といわれて安心する人は多くあるまい。安心と安全は別物である。どれほど先にどれほどの心配があるのかを正確に伝えることではないか。現在は東電や原子力委員会の会見内容より、わかりやすく解説してくれるNHKの解説委員の説明の方が信頼できる気がする。

 地震発生の一週間後の陸前高田市住民の
「私ら泣いたりしてねーの。元気を分け合って生きていくのす」「一番大切な命は助かった。何でも無理ってことはねえと思うよ。だって俺らは人間なんだもの」
の印象的な言葉には心打たれるものがあった。

なお、本サイトで原子力発電について、「命に関わる偽装だ」2007年02月02日(金)、「チェルノブイリ忘れまじ」2007年03月17日(土)、「エネルギー源は再考のときが来た」2007年04月08日(日) を論じてきた。「チェルノブイリ忘れまじ」で最終行に記した「他国からの核攻撃より自国内の核を心配した方が現実的かもしれない」が現実問題になり慄然たる思いでいる。

犠牲になられた大勢の方々のご冥福をお祈りします。合掌

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