日々の抄

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 広島原爆の日に思う

2011年8月8日(月)

  ことしも広島原爆の日がやってきた。被爆66回目であるこの1年間に死亡が確認された被爆者5785人を含めた死没者は27万5230人になる。原爆死没者名簿100冊が慰霊碑に奉納された。
  ことしの平和宣言は福島原発事故に触れないわけにいかなかった。前半は市民から公募した思いを盛り込むという新しい試みを取り入れたが,状況描写が叙情的とすら感じられた。以前のように原爆を投下した米国や核保有している国に対する鋭い抗議は見られなかった。首相の「脱原発」の入った挨拶は国会での答弁のように聞こえた。平和記念式典は政治を越えた人類に果たされた課題に対して誓い合うべき場ではないのか。

 ことしの平和記念式典で一番印象的だったのは小学生2名による「平和への誓い」であった。その中にある言葉が,平和を考える根本問題を投げかけているように感じられた。その中に,「どうして人間は、たくさんの命を犠牲にして戦争をするのでしょうか。戦争を始めるのは人間です。人間の力で起こさないようにできるはずです。」とあった。戦争は,民族主義,為政者の暴走などが大きな要因なのだろう。多くの善良な市民が犠牲となる戦争に対するこうした素朴な疑問が大事にされなければなるまい。それらに正当な答えを得てないからこそ現在も戦争が絶えないのだろう。

  私は以前から戦争と宗教が無関係でないことに疑問を持っている。広島長崎に原爆を投下した米国民の8割近くがキリスト教徒で,2007年の調査では米国民の86%が「神を信じる」と答えたという。聖書に人を殺めることを正当化することは書かれてはいまい。むしろ「人を殺めるなかれ(マタイ5-21)」と教えているのではないか。そんな疑問に答えるような新聞記事があった。

  「米空軍、核ミサイル発射担当将校にキリスト教で聖戦」(朝日2011年8月4日)のタイトルでその内容は,「広島への原爆投下は,当時の米兵死者数の多さなどを挙げて正当化。米空軍が,有事の核ミサイル発射を担う将校向けの訓練の一環として,キリスト教の「聖戦」論を20年以上にわたり講義してきた。講義はカリフォルニア州にあるバンデンバーグ空軍基地で,ミサイル発射を担当する空軍の将校は全員、この基地で核について訓練を受ける。憂慮した複数の軍人から通報され事態が発覚した。訓練初期にある倫理の講義を担当する従軍牧師が用いた資料が、「核の倫理」という項目で、旧約・新約聖書の記述を多数引用していていた。」というものであった。
  聖書のいったいどこに核兵器を使うことを肯定する記述があるのか。そもそも「聖戦」という言葉を聞くとイスラム教の過激な一派がその名を用いて自爆テロを行っていることを思い出さないわけにいかない。人の命を尊ぶと思っている宗教の名において,殺戮を肯定することはどう説明できるか。今も米国民の多くが戦争を早期に終結するため,広島長崎に原爆を投下したことは正当であると信じている。大量の核兵器をいまだ大量に保有している国の大統領が「核のない世界」を標榜することに違和感を覚えずにいられない。

 「宗教と戦争」についての疑問にひとつの答えがある。「宗教と殺人、矛盾の原因は」(2008年11月13日朝日)と題した佐々木閑氏の論である。それによると,
『まっとうな宗教なら、「人を殺せば幸せになれる」とは言わない。「自分が嫌なことは、他人も嫌がるに違いない」という同類への配慮があって初めて、人の心は和むのであって、・・・宗教の目的が、「穏やかな日々の実現」になるなら、そこには必ず「同類を殺すな」という教えが入ってくる。だから宗教は、流血とは一切無縁なはずなのだ。』
 『誰もが知る通り、多くの宗教の過去は血塗られている。宗教のせいで殺された人の数は想像もつかない。これはあまりに大きな矛盾ではないか。なぜ宗教が殺人と結びつくのか。その一番の理由は、「同類を殺すな」という場合の「同類」の意味の取り違えである。それを「同じ考えを持つ者」と限定してしまうと、「自分たちの考えに従わない者は同類ではない。敵だ。敵なら殺しても構わない」という理屈になる。殺さないまでも、「敵なら苦しめてよい」と、憎しみが正当化される。・・・「同類」の意味をどう設定するかで・・・その宗教の「同類意識の幅の広さ」を見ればよいのである。』
 『仏教の歴史にも、血の染みはついている。だが釈迦にまで遡れば、そこに暴力の影はない。釈迦の仏教は、「人には、仏の教えで助かる者もいれば、そっぽを向いて別の道を行く者もいる。せめて、こちらを向いてくれる者だけでも助けよう」と考える。自分たちの考えを認めない者を「教えの敵」とは見なさない。「こちらへ来てくれないのは残念だ」と失望するだけだ。すべての生き物は「同類」なのである。』

 戦争が行われてきた原因の行き着くところは,誰を同類と考えるかの「自明の理」の違いのようである。「人を殺めてはいけない」ということすら人類共通の自明な考えでないのである。むしろ神を信じていると言いながら大量殺戮をするなどという悍ましいことが行われてきたのだ。聖戦の名の下で過激テロを行っていたり,神に祈った後に劣化ウラン弾の発射を命じている人々に「ひと」としての正当性は感じられない。思想信条が異なっても,すべての人類を,同じ時を生きる同類として受容できるか否か。それが戦争を,核兵器を過去のものにできるかどうかの根本問題なのだろうと思う。
  人類すべての不幸は,不正,不義,殺戮が行われたら,ただちに罰を与える共通の神が存在しないことである。
 
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