日々の抄

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 終戦記念の週に思う

2011年8月17日(水)
 ことしも終戦記念の日の前後に戦争記録のドキュメンタリーを30作品ほど近く観た。この時期,戦火に散った人々を思い起こすため自分に果たした毎年の義務と思っている。
 「なでしこ隊・・・」「原爆投下 活かされなかった極秘情報」「ヒロシマの黒い太陽」「ヒバクシャからの手紙」「なぜあの戦争は始まったのか」「硫黄島からの手紙」「1819枚のいのち」「二度と原爆を使ってはいけない〜ナガサキを見た占領軍司令官〜」「太平洋戦争・65年目の真実どうしても伝えておきたい一枚の写真」「市民たちの戦争封印された大震災」「犬の消えた日」「最後の絆〜沖縄 引き裂かれた兄弟」「青い目の少年兵」「昭和天皇と日本降伏 玉音放送」「母べえ」「砂漠の中の日本庭園」
「日本人はなぜ戦争へと向かったか(1)〜(4)」「さかのぼり日本史 昭和 とめられなかった戦争」「証言記録兵士たちの戦争・・・」
などであった。

 これらの中で衝撃的だったのは「原爆投下 活かされなかった極秘情報」であった。その概要は,原爆投下が,ヒロシマでは3時間前にナガサキでは5時間前に参謀本部が情報を察知していたにも拘わらず退避命令を出さなかったというものである。
 陸軍特殊情報部はV600番台のテニアン島からのモールス信号を原爆投下の2ヶ月前から察知していた。原爆投下によって20万人がその年に亡くなっている。ヒロシマナガサキに原爆投下した米軍秘密部隊第509混成軍団がはじめに聞かされていたのは「新しい爆弾が開発されそれが戦争を終結させるということ」だったという。原子爆弾の存在を知った東条英機元帥は原子爆弾の製造を命じた。ウラン鉱石を福島県石川町で採掘した。だが,戦況芳しからぬ情勢のため昭和20年開発を断念。その実態は資材不足などであったが軍部は米国も同様に開発せざるものとしていた。
   8月6日午前3時テニアン島旧ノースフィールド飛行場から原爆投下の飛行機が飛び立った。陸軍特殊情報部はV600台のコールサインを傍受し日本に向かっていることを察知。米機は硫黄島の基地に対し無線電話で「我ら目標に進行中」と出していたという。その信号を出していたのが原爆投下機エノラゲイであった。3時間前に参謀本部は広島に向かってくる特殊任務航空機の存在を知りながら現地に知らせなかった。空襲警報さえ出されてなかったのである。原爆投下後も原爆投下を認めようとしなかった。
   8月9日も広島原爆と同じ電波を使った飛行機が飛来して来ていることを長崎原爆投下5時間前に参謀本部は察知していた。原爆投下機「ボックスカー」は小倉に向かったが気象条件から進路を長崎に変更。高度1万メートルまで上昇でき米軍機を撃墜できる「紫電改」に対して出撃命令は出されなかった。当時参謀本部では再び原爆投下はないなどという根拠のない議論がなされており,11時2分長崎に原爆が投下された。
   原爆投下5時間前に避難指示が出ていたら,どれほどのひとの命が救われたことか。すべては参謀本部の誤った判断によることが判明したのであった。当時,参謀本部が情報をつかんでいたことを隠蔽するため関係書類の焼却が命じられていたというから罪はあまりにも重い。軍部首脳が多数の日本国民の命を奪ったのである。

  もうひとつは「ヒロシマの黒い太陽」であった。これは原爆製造,投下,その後の核実験についてであった。1945年7月16日ニューメキシコ州アラモゴルドで初の原子爆弾の実験が行われた。原爆製造の指導者オッペンハイマーはこれを「トリニティー=三位一体」と呼んでいた。「高性能爆弾,火薬格納庫の弾薬が爆発し,被害は軽微だった」として核実験を国民に知らせなかった。そして1月後の8月にヒロシマ,ナガサキに原爆が投下された。
 ヒロシマに出向いたファレル准将は「ヒロシマでは原爆投下で死ぬべきは皆死んだ。9月はじめには残留放射能で苦しんでいるものはいない」と偽りの情報を流している。残留放射能のあることを恐れた米政府は,日本国内で検閲を開始し1年後も「原子爆弾投下」と「放射能」の文字がヒロシマの新聞から消され,その後およそ10年間は被爆者に関する情報が日本国内で隠蔽された。当時の数万点にもおよぶ本,ポスターなどがメリーランド大学に保存されている。
  原爆に関する情報操作について。ウォーレン医師による報告では「原爆は僅かな放射能を残しただけで影響はきわめて小さい」と断言。マンハッタン計画医療班報告書では「核爆発に伴う放射線は爆発後数秒続き,すべてはじめの1分間で終わった。残留放射能と爆心地の瓦礫の放射能はいかなる犠牲者も生まなかった」としている。米国民は原爆が自国で製造されたことすら知らされてなかったという。非人道的兵器を使用した事による国内外からの米政府に対する非難を恐れての偽りのプロパガンダが続けられていた。米国民に対し「核爆弾は汚染を引き起こさないきれいな爆弾でジュネーブ条約に抵触する化学兵器ではない」としていた。
   マンハッタン計画トップのグローブス将軍の「日本で本土決戦となれば犠牲者数は膨大だったろう。原子爆弾は日本人の意思をくじき戦争を終わらせた。戦闘が続いたら数万の米兵の犠牲は確実だ」という論が現在も米国内で神話的に信じられている。グローブスは残留放射能について,爆発の瞬間を除き被害はないと断言。時間が経てば治せるとも語っている。66年経過して今も原爆症で苦しむ被爆者にどのような言い訳ができるのか。
 米国内で原爆投下について疑義が投げかけられてくと,マンハッタン計画に終始拘わってきた唯一の政府関係者スティムソンは「原子爆弾は米国が戦争を終わらせるための最後の手段だった。マンハッタン計画で100万人の米兵の犠牲を回避し,その上日本人の犠牲者も少なくできた。原爆は必要で他の手段はなかった」という論文を出し,その後反論は出されなかったという。

   この論が原爆投下66年も経過した現在も信じられていることはどういうことなのか。戦争を終結するために,原爆投下により現在までに約45万人もの罪なき婦女子も含んだ一般日本国民を殺戮したことを正当化しているのは,自国の行った罪の重さを感じているからこその強がりにしか考えられない。原爆投下の非を認めれば退役軍人をはじめとする人々が政治的支持しなくなることを恐れてのことなのか。米国は原爆投下の正当性を学校で教えており,それを鵜呑みにしている者が多い。韓国,中国も日本が大戦で自国に行った行為を教育している。日本国政府が謝罪をしても非難は止まない。では,日本ではどうなのか。戦争に対する正当な知識,軍部および当時の国民,マスコミが行ってきたことの総括はなされているのだろうか。日本が行ってきた戦争に対する総括と反省を持たなければ諸外国と自信を持って接していくことはできまい。

  戦争に関する映像,記録を観るのはかなり辛いものがある。だが,現在の平和に感謝しながら,大戦で意に反して失われた命の鎮魂に思いをいたす時が必要だと思う。私も生まれる時期がもっと早かったら,一兵卒として南方の戦地の露と消えていたかもしれないと思うと他人事とは思えない。
   ことしの一連のドキュメントを観た感想は「時の政府,指導者は国民は欺くべし,国民の命など虫けら程度のもの」としか思ってないことをしみじみ感じた。真面目にお国のために命を投げ出し戦火に散った善良な国民があまりにも哀れである。A級戦犯とされる,戦争を指導し沢山の命を死に追いやった人びとの遺族に「遺族恩給」が今も支給されているにも拘わらず,空襲で命を奪われた市民にそれが与えられない大いなる矛盾を感じないわけにいかない。

  平和であるために必要なことは「ひとに,自分も家族も殺されたくなければ,他人を殺さない」。ただそれだけである。

 
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