日々の抄

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 語り継ぐ戦争記録展

2011年10月30日(日)

  今月の初めに行われた太田市遺族会主催の「語り継ぐ戦争の記録展U」を遅ればせながら記録しておきたい。昨年に引き続き第2回目の開催である。太田市は戦時中は中島知久平創業の「中島飛行機」を擁し,軍需物資が生産されていた。主催者による記念展会のメッセージは以下である。
「私たちにとって何よりも大切な家族
 そのしあわせを奪う戦争を
たとえどんな理由があっても
 二度とふたたび
繰り返したくありません
 人は、自分が体験していないことは
理解しにくいものです
しかし
武力に頼る戦争の悲しさだけは
 あなたの英知で
理解して欲しいのです
 この展示会は戦争で
大切な家族をなくした私たちから
 平和な時代の若者におくる
メッセージです」

  左の写真は,1945年2月テニアン島から飛び立った米軍B29戦闘機が太田市への空爆時に接触事故で墜落した機首。米兵23名の遺体を現邑楽町の寺に埋葬。戦後写真画像に残された尾翼番号から搭乗員の氏名が判明し,後にアーリントン墓地に埋葬され,米軍は太田市に謝意を表し交流が続いたという。
  今回の展示会で最も印象的だったのは特攻機の製造が太田の中島飛行機工場で行われ,訓練も群馬の地で行われた後,戦地に出撃したことを初めて知ったことである。下の写真はそれが記述されたパネルである。
太田市最後の空襲被害 同左
捕虜になった米兵が粗食の時代に捕虜に食料を与えてくれた日本人のいたことを伝えている 戦地からの便り
戦時中の小学校の様子 零戦機の風防
零戦機の機体の一部 戦地からの葉書
手榴弾,軍靴 軍服。これを着て200万余の命が絶たれた
 
武運長久と書かれた日の丸旗  千人針 
 第二次世界大戦の国別死亡者数  赤紙
 

  展示されていた,戦地に赴き明日をも知れぬ命の若者が,幼子を残した若き父親が内地の家族を思って軍事秘密から赴任地が記されず送った手紙,いつか帰れることを願いつつそれが叶わないことを思わないわけにいかない母親の悲しさ切なさを思い綴った達筆な追悼文を涙なしに読むことができなかった。武力で他国を征服することの誤りをいつまでも忘れてはなるまい。
  会場には地元の小学生が校外活動として熱心に学習していた。鉄兜を被せて貰い,「○○二等兵,敬礼」と言われ緊張した表情だったが,その敬礼の先に何が待っているかを現実問題として学ぶことができるだろうか。

 太田市では,戦争体験者の記憶が失われる前に資料を展示できる施設を計画していると聞いた。このような展示会は貴重な体験を共有する点で多くの人が接することができるといい。前橋でも「山水会」が「戦争を語り継ぐ会」を開催している(*1)。県下の戦争の資料,記録,数少なくなってきた戦争を語れる人の記憶と想いを常設できる「群馬県平和記念館」ができることを切望している。

(*1) 第64回例会が2011年11月19日(土)13:30から前橋中央公民館(元気プラザ21)で開催される。
      テーマは「私の戦争体験」

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