日々の抄

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  自説を曲げることも勇気

2005年10月7日(金)

 小泉首相の靖国神社参拝をめぐり、先週から今週にかけて東京、大阪、高松の3高裁が相次いで判断を示した。判決内容を比べてみると以下の通りだ。

東京高裁
 千葉県内の牧師や僧侶、教師ら39人が国と首相を相手に、(首相として初めて行った01年8月13日の参拝について)1人あたり10万円の慰謝料を求めた訴訟の控訴審判決。一審・千葉地裁判決は、神社への往復に公用車を用い、秘書官やSPを同行した点を重視して「職務行為に当たる」と認め、私的参拝とする国側の主張を退けていた。公式参拝と認める一方賠償責任については、「公務員個人は賠償責任を負わない」などとして請求を棄却したため、原告側が控訴していた。
  高裁では、参拝について「私的な宗教上の行為か、または個人的な立場で行った儀礼上の行為」と位置づけたうえで、「首相の職務行為として行われたとは認めがたい」とし、私的参拝だったとの判断を示した。「神社への往復に限れば職務に関連した行為といえるとしても、参拝した一連の行為が全体として職務として行われたとまではいえない」と述べ、「私的」と認めた根拠については「職務として参拝する趣旨と受け取られることを避けるため、8月15日を断念して13日に参拝することとした」「献花代3万円は私費だった」などを挙げた。
 参拝日をずらし、献花代が私費だから「私的」ということか。公用車を用い、秘書官やSPが同行しているだけで「公的」参拝ではないか。警察署長がパトカーを警官に運転させて神社に行ったら、消防署長が所員に運転させて消防自動車でお宮参りに行ったら、公私混同と言われるのでないか。首相がその職にある限り、「私的」参拝といくら言い張っても「公的」参拝である。どうしても「私的」参拝としたければ、誰にも知られずタクシーで出かけマスコミに報道されない場合に、首相が個人として参拝してきたと言えるのではないか。報道されなければ意味がないと考えるのは、公約したことを世間に知らしめなければならないからである。これこそ参拝が「公的」であった証拠である。

高松高裁
  小泉首相の靖国神社参拝は憲法が禁じた国による宗教的活動に当たるとして、四国の宗教者や戦没者の遺族ら73人と二つの宗教法人が国、小泉首相、靖国神社を相手取り、1人1万円の損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決。「首相の参拝は原告の信教の自由を直接侵害するものではなく、法的保護に値する利益の侵害があったとは認められない」として、請求を退けた一審・松山地裁判決を支持、原告側の控訴を棄却した。憲法判断には踏み込まず、公的か私的かという参拝の性格にも触れなかった。4回の参拝のうち、01年8月13日、02年4月21日、03年1月14日の3回分について審理したが、「首相の参拝は、原告に強制力を及ぼしたり不利益を課したりするものではない」として、損害賠償請求の理由がないとした。一部の原告が求めていた違憲確認も「損害賠償請求に理由がない以上、憲法解釈をする必要はない」とし、すべての請求を退けた一審判決を支持した。

大阪高裁
 01年から03年にかけて3度にわたる小泉首相の靖国神社参拝で精神的苦痛を受けたとして、台湾人116人を含む計188人が、国と小泉首相、靖国神社に1人あたり1万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、「憲法20条3項に違反する行為」とした。
 「本件控訴を棄却する」 の主文は、首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、その祭祀に賛同するよう求めたりしたとは認められないと指摘し、原告らの権利や利益は侵害されていないと判断し、損害賠償請求は一審に続いて退けた。
  しかし、参拝は首相が職務として行われたとしたうえで、「国内外の強い批判にもかかわらず、参拝を継続しており、国が靖国神社を特別に支援している印象を与え、特定宗教を助長している」として、憲法の禁じる宗教的活動にあたると認めた。一方で、信教の自由(*3)などの権利が侵害されたとは言えないとして、原告らの控訴を棄却した。
 判決は、参拝が「公用車を使用し首相秘書官を伴っていた。公約の実行としてなされた。小泉首相が私的参拝と明言せず、公的立場を否定していなかったこと」などから、「内閣総理大臣の職務と認めるのが相当」と判断した。3度にわたる参拝で、「国と靖国神社の間にのみ意識的に特別にかかわり合いを持ち、一般人に国が靖国神社を特別に支援している印象を与えた」とし、「特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」として、憲法20条3項の禁止する宗教的活動にあたると結論づけた。
 この裁判の原告団に属する台湾の現住民族の一人は「私たち台湾の原住民族が、人殺しをした人と一緒にまつられることは納得できない。・・・どんな権利があって遺族の意思に反して死者の霊をまつるのか。遺族の祖霊をまつる権利を否定するもので、そんな靖国神社への首相の参拝は私たちを愚弄する」と語っている。

 この3つの高裁判決をまとめると、
 東京高裁の判決は、『参拝が「私的」だから憲法20条第3項(*1)に反することはないので請求棄却し、参拝についての憲法判断はしなかった』が、「職務行為として行われたとすれば、憲法違反の可能性もある」としている。
 高松高裁の判決は『首相が靖国参拝しても原告に何ら損害を与えてない(*2)のだから、請求を退け、敢えて首相の靖国参拝について憲法論議する必要はない』というものだ。
 大阪高裁の判決は『参拝が公務であったと認める。参拝は憲法違反である。しかし原告らの権利や利益は侵害されていないので損害賠償は否決する』というものであった。
  これらのキーワードは、「首相の靖国参拝の公私」の判断と「首相参拝から受けた原告の損害の有無」である。公的参拝なら憲法20条第3項に抵触。原告に損害がないから原告敗訴になり、参拝の憲法判断を要しないとしたのが高松高裁。参拝が公的だから憲法違反であると判断したのが大阪高裁。私的参拝だから憲法判断を要しないとしたのが東京高裁。ということになる。

 首相の靖国参拝に対する判断は司法界でも一つではないようだ。地裁を含め憲法判断を避ける場合が多いとの印象を受けるが、憲法判断に踏み込んだ今回の大阪高裁、04年4月7日の福岡地裁では違憲の結果が出ている。今後をしっかり見守っていきたい。

  大阪高裁判決について首相は9月30日、衆院予算委員会で「私の靖国参拝が憲法違反だとは思っていない。総理大臣の職務として参拝しているのではない」と反論した。日本国には三権分立があり、子供達も知っていることだが、首相にはそれが分かっていないようだ。自分の意に染まないからといって、司法の判断に対して、国会の場で首相が異論を唱えるような発言をすべきではない。越権行為である。権力による介入と言われかねない事態である。国会での多数派の長なのだからという奢りがあったとすれば猛省を促したい。司法は少数派の見方をしてくれることもあるから存在価値がある。何事も多数派が支配するのは民主主義に反することである。権力にゴマをするような人間だけがいるような国になっていいのか。

 首相が戦禍の犠牲になった人々を悼む気持ちを靖国で表したいなら、その座を辞してから人知れずゆっくり参拝すればいい。肝心なのは政教分離である。国家神道という国教制度が作られ、神社崇拝の強制や他宗教の弾圧などを進めてきた中で、靖国神社はその中心的存在であり、戦争遂行の精神的支柱でもあった。その後一宗教法人になった靖国神社に、処刑されたA級戦犯が1978年に祀られてから大きな問題を抱え、近隣諸国がこれに反発していることに気づかねばなるまい。戦死者の追悼がA級戦犯を合祀することで問題を複雑にしてしまっているのは不幸なことだ。A級戦犯の子孫が、首相に8月15日の靖国参拝を望み、靖国からの分祀に応じないと聞く。いったい多くの日本人を戦争という不幸に導いたのは誰だったのか。日本国民全員だったというのは間違っている。戦後のドイツと日本の大きな違いは、戦争の原因を国として明らかにしてきたかどうかではないか。今のままでは近隣諸国との外交問題は解決する見込みはないと言っても過言ではあるまい。

 国内的には司法の判断が大きく別れている中、対外的には近隣諸国との外交問解決のため、首相は潔く靖国参拝を控えるのが英断というものである。
「個人的信条より国家利益を考えてやめるべきだ」との先輩の意見に耳を傾けてはどうか。

(*1) 憲法20条第3項
  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない
(*2) 国家賠償法1条1項
 国または公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意または過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国または公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
(*3) 憲法20条1項
 信教の自由は、何人に対してもこれを保護する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。

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