日々の抄

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 危険な驕りがある

2012年3月22日(木)

  今週で小中高は一年間の授業を終え、子供たちは次の学年への期待と不安、教員にとっては何かと気ぜわしい日々を送る季節である。
  先日の報道によると、高卒で就労した者の2/3が就職できないか中途で職を失っているという。大学等でそれは半数という。多くの卒業生が将来への希望と不安を抱えながら今月初めに高校の卒業式を迎えた。この時期になると毎年のように卒業式での「国歌斉唱」に関するトラブルが伝えられる。幸いにして群馬県ではそうしたことは伝えられてないが、大阪で行われた卒業式で信じられないことが起こっている。

  大阪府立和泉高校の卒業式の国歌斉唱の際、教職員が本当に歌っているかどうかを、校長が教頭らに指示して教員の口の動きを監視させていたという。口が動いていなかった教員のうち、1人が歌わなかったと認め、府教委が処分を検討しているという。これに対し大阪市長は「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛している。その一方、府教委委員長は「もっと悠々たる度量でご検討を」としている。
  ことし制定された「大阪府君が代条例」なるものにより「条例では国歌斉唱の際に教職員は起立により斉唱を行うことが定められている」「式場内のすべての教職員は国歌斉唱に当たっては起立して斉唱すること」との職務命令が出されていたという。

  卒業式という卒業生にとって記念すべき行事において、国歌斉唱を妨害する行為は認められるべきでないが、起立し斉唱することを「条例」で定めることに少なからず抵抗を感じないわけにいかない。ましてや、斉唱のときに、歌っているか否かを確認するため、起立している同僚の口元を確認していることを考えると背筋の冷たくなる思いがする。当然のことながら口元の動きを確認している人物は、自ら国歌を斉唱してなかったのではないか。卒業式という厳粛であるべき行事で教員の目は卒業生に向けられているべきではないのか。卒業式が、口元が動いているかどうかという管理の場になっていることは悲しむべきことである。人生の門出の場で、卒業生が自分たちを見ずに同僚職員の口元を点検している管理職をどんな気持ちで見ていたか考えていたのか。口元を観察していた人物は条例に忠実な管理職かもしれないが立派な教育者といえまい。彼らは模範的な権力の僕である。

  一方で同日行われた他の府立高(芦間高校)の卒業式で来賓の西田府議が祝辞で、国歌斉唱時に不起立の教員がいたことから「皆さんごめんなさい。社会の常識、ルールを教えるのも学校なのにルールを守れない教員がいることをおわびします。本当にごめんなさい」と発言。10日開かれた同校PTA会議で「卒業式の場で言うべきことではない」「感動的な卒業式だったのに、生徒がかわいそうだ」との意見が相次ぎ同府議に謝罪と生徒への祝辞をインターネットのブログに掲載するように求めた。
  これに対し同府議はブログ上で「本当にごめんなさい。そして、卒業おめでとう」と書き込み、取材に対し「目の前で不起立の教員がいて、自分の力のなさを感じ、反省の上での発言だった」と話しているという。
  同府議は「大阪維新の会」所属だそうだが、「自分の力のなさを感じ反省」のくだりは選挙で多数派になった集団の驕りを感じる。この言い回しを聞いて、かつて園遊会で、ひとりの都教育委員をしている将棋打ちが「日本国民に君が代を歌わせることが私の仕事です」と語ったことを天皇に「強制でないことが望ましい」と窘められたことを思い起こさせる。府議になればなんでも自分の思うようになるような思い違いがあるのではないか。「大阪維新の会」の市議が市の職員に対し「内容を言わずに呼びつけ、支持者を連れてきて我々をいきなり詰問する」「特に若い議員、社会人としてのマナーから再教育すべきだ」との顰蹙をかっていることも大いなる思い違いのように感じられる。

  橋下市長も職員150人分の仕事用電子メールの調査を「法的に問題はない。事前に通知していたら消去されてしまう」として事前通知せずに行っているが、同市長は大阪府知事だった2008年12月、府民から情報公開請求のあった知事メールの内、9月以前のものを削除し、12月26日に「めんどくさいから、メールを消しちゃいました」と語り、1月5日の会見でも「公人といったって生身の人間ですし、やっぱり情報公開請求といったって濫用もあると思うんですね」とメール削除を正当化している。
  また国歌斉唱で不起立した教員に対し「ルールを守れない公務員は辞めてしまえばいい」と市長が喚いていることは正気の沙汰ではない。別の表現方法の持ち合わせはないのか。

  いずれも多勢の威を借る思い違いにしか見えない。権力に溺れ何でも思い通りになるような思い違いは、目先の行為で喝采を博しても長続きするものではない。教育を権力の思い通りにしようと企てたことが、かつて日本を悲劇に導いたことを忘れるわけにいかない。今の大阪の怖いもの知らずの勢い、独裁色は危険なものを感じる。現役の政党が機能してないから、刺激的な政治を好もうとすることが自らの不幸に結びつかないことを願うのみである。「驕れるもの久しからずや」は歴史の教えるところである。
 
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