日々の抄

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 原発事故原因が日本文化なのか

2012年7月12日(木)
 
   福島原発の国会事故調査委員会の報告書が発表された。それによると,
「・・・大小さまざまな原子力発電所の事故があったが,多くの場合,対応は不透明であり組織的な隠ぺいも行われた。日本政府は、電力会社10 社の頂点にある東京電力とともに、原子力は安全であり、日本では事故など起こらないとして原子力を推進してきた」とし,想定できたはずの事故が起こった理由の根本的な原因は、『日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった「規制の虜」が生まれた。そこには、ほぼ 50年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみがあった。経済成長に伴い、「自信 」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちにとって、前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され、世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた。・・・「想定外」「確認していない」などというばかりで危機管理能力を問われ、日本のみならず、世界に大きな影響を与えるような被害の拡大を招いた。この事故が「人災」であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如 があった』としている。

  事故後の対応について,「政府は一方的に線量の数字を基準として出すのみで、どの程度が長期論的な健康という観点からして大丈夫なのか、人によって影響はどう違うのか、今後、どのように自己管理をしていかなければならないのかといった判断をするために、住民が必要とする情報を示していない。政府は住民全体一律ではなく、乳幼児から若年層、妊婦、放射線感受性の強い人など、住民個々人が自分の行動判断に役立つレベルまで理解を深めてもらう努力をしていない」「いまだに被災者住民の避難生活は続き、必要な除染、あるいは復興の道 筋も見えていない。その理由は,政府、規制当局の住民の健康と安全を守る意思の欠如と健康を守る対策の遅れ、被害を受けた住民の生活基盤回復の対応の遅れ、さらには受け手の視点を考えない情報公表にある」としている。
 
  また,「事故原因を個々人の資質、能力の問題に帰結させるのではなく、規制される側とする側の"逆転関係"を形成した真因である "組織的、制度的問題"がこのような"人災"を引き起こしたと考える。この根本原因の解決なくして、単に人を入れ替え、あるいは組織の名称を変えるだけでは、再発防止は不可能である。東電は、エネルギー政策や原子力規制に強い影響力を行使しながらも自らは矢面に立たず、役所に責任を転嫁する経営を続けてきた。そのため、東電のガバナンスは、自律性と責任感が希薄で、官僚的であったが、その一方で原子力技術に関する情報の 格差を武器に、電事連等を介して規制を骨抜きにする試みを続けてきた。その背景には、東電のリスクマネジメントのゆがみを指摘することができる。東電 は、シビアアクシデントによって、周辺住民の健康等に被害を与えること自体をリスクとして捉えるのではなく、シビアアクシデント対策を立てるに当たって、既設炉を 停止したり、訴訟上不利になったりすることを経営上のリスクとして捉えていた。 東電は、現場の技術者の意向よりも官邸の意向を優先したり、退避に関する相談に 際しても、官邸の意向を探るかのような曖昧な態度に終始したりした。その意味で、 東電は、官邸の過剰介入や全面撤退との誤解を責めることが許される立場にはなく、 むしろそうした混乱を招いた張本人であった」としている。
  要は,福島原発事故は人災事故であり,東電は安全対策を先送りした企業擁護を続け,人命を守ろうとする責任感が欠如していた。また,規制管理するべき行政が東電のいいなりになり,規制される側とされる側の逆転が原因としている。

  内容のほとんどは頷けるものだが,委員長による「はじめに」の内容が邦文版と英文版で異なっているのは如何なることなのか。理解に苦しむ。何かの意図があるのか。
  英文では「・・・What must be admitted -- very painfully -- is that this was a disaster "Made in Japan." Its fundamental causes are to be found in the ingrained conventions of Japanese culture: ・・・」などとして,根本的な事故原因は「日本文化の根深い慣習で見つけられるべき・・・」とし,邦文では前述の『 』で囲まれた部分である『日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった「規制の虜」が生まれた。そこには、ほぼ 50 年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみがあった。経済成長に伴い、「自信 」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちにとって、前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され、世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた。・・・「想定外」「確認していない」などというばかりで危機管理能力を問われ、日本のみならず、世界に大きな影響を与えるような被害の拡大を招いた。この事故が「人災」であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった。』とした「人災」が原因としている。

  英語版にあるように,事故原因が日本人の文化によるものなら,事故原因を作った人物ないし組織を追求することは無意味に見えてくる。そうした文化を創った「日本」が原因なのか。国民総責任論とも聞こえる。とんでもないことである。「無責任,民官癒着,責任感欠如,おごり、慢心」は日本の文化とは相容れないものである。

  事故調がいかに立派な報告書を作ろうが,東電という殿様稼業の企業およびこれに天下りをして,規制どころか,深い専門的知見を持ち合わせてない役人が東電をコントロールできようがない。自己責任を明確に認めることなく責任転嫁を続け,企業内の資産の処理も見える形で進めることなく,電力料金を値上げした挙げ句,節電にお願いしますなどとよく言えるものである。こうした人命より利益温存を優先する企業体質および組織を変えない限り,福島原発と同様の「人災事故」がいつ起こっても不思議ではない。

  事故調査報告書は国会に投げかけられた。これに国会がどのように応えていくか注視していかなければならない。現状の国会に見られる権力闘争,選挙対策ばかり見せられている状況でどれほど動けるのか。何十万人もの国民の財産,生命も守れないお粗末な国に落ちぶれている気がしてならない。
 
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