日々の抄

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 終戦の週に感じたこと

2012年8月19日(日)

   ことしも終戦の日の週までに戦争体験を中心としたドキュメントをたくさん観た。いつもの年のように,望まずして命を落とした兵士200万人,内地の小国民100万人の無念さを感じ,忠魂の気持を確認するための,自分に対するノルマである。ことしも広島,長崎被曝の平和記念式に時間を合わせて黙祷した。ことしは原爆投下を命じたトルーマン大統領の孫が参列したという。自分が所謂戦中派に属することによる,終戦つまりは敗戦記念の日に,それまでに命を落とした人たちのエピタフ確認の思いを込めている。ことし観た映像は以下のようなものだったが,毎年同じものが再生され,何回も観たものもあった。安らかな気持ちで観られるものはなく,辛いものだった。

「黒い雨−活かされなかった被爆者の調査」,「1944-1945絶望の一年」,「フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦-第23師団」,「15歳の志願兵」(ドラマ),「日本人になろうとした少年たち 台湾先住民 高砂族の20世紀」,「日本人になろうとした少年たち 台湾先住民 高砂族の20世紀」,「巨大戦艦大和−乗員達が見つめた生と死」,「マニラ市街戦−死者12万人焦土への1ヶ月」,兵士たちの戦争「さまよい続けた兵士たち〜グアム島終わりなき戦場」,兵士たちの戦争「満州国軍−五族協和の旗の下に」,兵士たちの戦争「特攻の目的は戦果にあらず−第二〇一海軍航空隊」,「終戦 なぜ早く決められなかったのか」などである。

  ことしも感じたことは,一度戦時体制に走ると多くの犠牲者が出るまで,また国の息が止まる状態にまで達しないと戦いは止められないということだ。勇ましい「国防」という名のナショナリズムが,場合によっては国を滅ぼすこと,家族の命を尊ぶ気持が,「非国民」「非常時」という名の下に無視・蔑視され排斥されてきたこと,命を国に捧げるという美名の下,実はその国は名の知れない末端の弱き国民を死に追いやりながら,その国ないし軍隊が南方の兵士を見捨てて死に追いやったことが何度も確認されている。

  いくつかのドキュメントの中で90歳を過ぎた元兵士が,地獄のような戦場の様子を,もう自分の命の少なくなったことから語らないわけにいかなくなったことが痛ましい。その中で「戦争というものは,末端の田舎出の息子を戦場に送り,偉い人は家にいられるものなのだ」と回顧している言葉は重い。台湾の少数民族が日本軍の植民地化で皇国教育を受けさせられて日本軍兵士として戦うも,「蛮民,蛮族」と蔑視され,終戦後は中国国民党政権に追われたという悲劇を観た。「一視同仁」など紛い物だったのである。彼らの中に,苦労してきたが「日本人こいしい」と若き頃を回想する人もいる。人生のほとんど続いてきたその複雑な心情は推し量るにあまりに深いものがある。

  日本国民のみならず多くの人命を死に追いやった本当の元凶に対する追求は果たして行われているのか。望まずして戦地に送り込まれて,国民総懺悔などと言われる筋合いはない。沢山の国民の命を死に追いやり家族の悲しみを何重にもしてきた軍属が,「あの人は陸軍中将で偉かった」などと呼ばれていることを聞いたことがあるが,裏を返せば多くを死に追いやった張本人であることは忘れまい。戦争を主導した家族の末裔が恩給を貰っていながら,国内の空襲で財産,命を落としながら何の保障を受けていない人が多数いることは大きな矛盾である。

  また原爆投下による所謂「黒い雨」による被災者の認定が,当時の気象技師の調査などに基づいたことを根拠にした地域の住人にしかなされてない問題は,実際に「自分に黒い雨が体にべっとりついた」と証言しても,それを「科学的に証明せよ」などとできもしない役人言葉で見捨てていること,首相も「科学的、合理的根拠なくしては困難だ」などとしている気がしれない。被爆者の平均余命を考えれば,首相の言葉はあまりにも非情であり,他人事である。黒い雨の被害認定地域を広げるとなぜ,誰が困るのか知りたい。戦後67年。戦火で大きな犠牲を余儀なくされ,命を長らえてきて「平和な国」に居住していても残り少ない命さえ守れない,守ろうとしない薄情な政府に怒りを感じないわけに行かない。

  勇ましい言葉にのせられ戦いがはじまれば容易に止められず,犠牲になるのは市井に生活する凡人であることを考えれば,閉塞感に満ちた昨今のこと,力強そうな言葉にのせられて新勢力に淡い期待を寄せることの危うさを考えなければなるまい。それが終戦の週に感じたことである。
 
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