日々の抄

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 暴力では解決しない

2013年1月20日(日)

 大阪市立桜宮高校バスケ部主将の自殺はあまりにいたましい事件である。まじめに練習に取り組み,キャップテンとして懸命に努力していた様子が伝わってきているだけに,なぜ自ら命を絶たなければならない状況に追い込まれたのかを思うと,怒りを感じないわけにいかない。

  顧問は部での成果をいろいろ挙げていてその道での評価があるそうだが,公立高校でありながら普通科の同一校に18年間も勤務するという通常考えられない状況があったようだ。部の指導での流儀として「しかられ役」の生徒を作り,「練習に熱心に取り組まされたりやる気を起こさせるため」と称して執拗な「体罰」という名の「恒常的暴力」を加えていた。それが教員として熱心に部活指導することと大きな思い違いをしていた。

 体育会系の指導に「体罰は当たり前」という誤った考え方が通用している。桜宮高で自殺に追い込まれた生徒は自殺前日に40回を越える暴力を受けていたという。これが学校外で行われたら明らかな警察沙汰で部顧問は傷害罪で逮捕されるだろう。校内のそれも部活内ならなぜそれが半ば公認されてきたのか。またなぜその必要悪を認める保護者がいるのか。試合に勝ち,外部からそれなりの評価をされることがどれほどの価値があるというのか。

 教員と生徒という上下関係が明らかな場合に行われる「体罰,シゴキ」という名の卑劣な暴力は許されることではない。肉体的暴力のみならず,言葉での暴力も許しがたい行為であり,暴力によって得られたスポーツの成果にどれほどの価値があるのか。暴力を受けることが怖い状態では,選手が自発的に能力を向上させようと考えることなく,ただ「体罰を受けないように」と考えるなら,そこにスポーツを楽しむこと,自発的に事故向上を図ろうとする人間的行為は存在しないだろう。

 以前,自宅近くの小学校でリトルリーグ野球の練習を見たことがあった。コーチは熱心に指導しているつもりなのだろうが,そこに見ていられない光景があった。投手がなかなかストライクを投げられないと「馬鹿やろう,どこ見て投げてるんだ」と怒鳴りつけ,ボールを捕り損ねた野手には「やる気があるんか,バカヤロめ,うまく捕れないんならやめちまえ」などという罵詈雑言がずっと続いた。
 投手がストライクを投げられないときに,「腕をまっすぐ伸ばし,頭の上から投げてごらん」,ボールをうまく捕れない野手には,「ボールから目を離しているとうまく捕れないよ。いまボールから目を離してなかったか?」などと問いかければ,野球子供は自分なりに漠然とでなく意図的に技術を磨こうと努めようとするのではないか。コーチに怒鳴り散らされ続ければ,やがてやる気が失せて野球の楽しさなど感じずに野球嫌いになるかも知れない。ただ怒鳴られ続けているならそのことが人格を傷つけいることをコーチは知るべきである。

 しかるべき見識と技術をもっているスポーツ指導者は,どうしたらうまくなれるかを選手に考えさせる「技術と言葉」を持っている。「体罰」に訴える指導者は「必要な言葉」で指導できない未熟者であり,「体罰」は暴力であれ,言葉であれ,圧倒的優位に立つ者への「弱い者いじめ」である。

 桜宮高のバスケ部で同じようなことはなかったのか。顧問が生徒を毎日のようにそれも数十回も殴りつけることが教育であるはずがない。熱心な顧問であるはずがない。そんなことが部を強くするために必要などと考えている教員,保護者は,殴られる生徒の人格をこれでもかこれでもかと傷つけいていることに気づくべきである。自分の子供が耐えられないほどの部の顧問から暴力を受けているなら,競技に強くなるために必要な行為などと考えることはあるまい。

 暴力行為を「体罰による指導」と読み替えて神経が麻痺していることは改めるべきである。野球の桑田真澄は自分が小中学校で受け続けていた体罰の経験を踏まえ,「体罰は自立を妨げ成長の芽を摘む」「殴ってうまくなるなら誰もがプロ選手になれる。私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長した」そして,『体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥る。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれない。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせない。』と語っている。まったく同感である。


 橋下大阪市長は今回の事件について,同高体育系2科(体育科,スポーツ健康科学科)の募集中止を求めている。また市教委が2科の募集中止を拒否した場合、対抗措置として「予算執行権をきちんと行使する」と述べ、市立高の今年度の入試関連予算の残り約130万円を支出しない可能性に言及。あわせて,桜宮高の全教員約70人の異動を求め,「最低限、体育会系のクラブ活動顧問の入れ替えが必要。春に顧問が残っているようなら、体育教師分の人件費を出さない」と述べている。この市長の要求は,「言うことを聞かなければ金を出さないぞ」という学校現場への権力による「いじめ」にしか過ぎない。

 生徒を死に追い込んだこと,以前にもあった体罰を校長が隠蔽したことの原因追求,責任の明確化,今後同様の体罰が起こらないことへの具体策は早急になされるべきである。だが,高校入試まで一月をきっているいま,体育系2科を目指して努力してきた生徒にまったく罪はない。事件の関係者の処分は当然のことだが,同校全職員全員の移動などということは,「権力の介入」にしかない非現実的な荒唐無稽な要求である。たぶん橋本流の,できそうにない要求を突きつけて,本来狙っている結果に導こうとする流儀で,本心は関係者の処分,転勤と教育委員会への圧力に見える。市長に受験生の将来に支障を与える権限はない。


 部員を死に追いやった顧問は部顧問を辞めたり転勤するのでなく,教員を辞めることを勧める。それだけのことをしているのである。そこまで必要でないと思う人は,死んだ生徒の親の気持ちを考えてみるといい。

 ルイ・アラゴンの言葉に「学ぶとは胸に誠実を刻むこと。教えるとは,ともに未来を仰ぐこと」とある。生徒の人格を認め,ともに考え,悩み,よかれと思う将来の方向に導く一連のたゆまぬ作業が教育なのではないか。暴力はそうしたことをすべて否定する行為である。


 
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