日々の抄

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 気持ちの悪いカタカナ語がある

2013年7月6日(土)

 NHKの放送番組で外国語が乱用され,内容を理解できずに精神的苦痛を受けたとしてNHKに慰謝料を求める訴えが出された。訴状によると,NHKで報道、娯楽番組を問わず,「リスク」「トラブル」「ケア」また「BSコンシェルジュ」などが用いられ,日本語で容易に表現できる場合でも使われているとし,公共性が強いNHKが日本語を軽視するような姿勢に強い疑問があるとしている。

   司法に判断を仰ぐことの必要性の可否はともかく,最近耳にするあまりのカタカナ語乱用に対する不快さは同感である。日常的にほとんど聞き慣れないカタカタ語に次のようなものが使われているそうだ。
インキュノベーション(卯化転じて起業家支援),コンピラシー(ある仕事で好評を受けている人の行動特徴),コモディティー(商品転じてメーカー間均一現象),インスタレーション(設定,装置),ダイバシティー(多様性,多様人材活用)など。他にサスティナブル,コンソーシアム,オルタネイティブ,デジタルデバイドなどは専門用語そのもののようだ。

   辛うじて聞き覚えがあり意味が分かるものは,アジェンダ(協議事項,行動指針=ある政治家が多用している),リテラシー(識字率,読み書き能力),マイルストーン(里程標,重要な節目となる工程・行事など),コンベンション(集会,協定),アセスメント(評価,査定),エスニック(民族的),他にインセンティブ(報奨金,刺激となること),アーカイブ(公文書,記録文書)などがある。

   聞いていて不愉快なカタカナ語がある。リスペクト(Respect=尊敬),レジェンド(Legend=伝説)である。日常用語として「尊敬している」,「それは伝説的だ」と言えば済む会話を,「リスペクトしている」,「レジェンドのひと」などと言う会話は,浮ついた軽薄なものとしか聞こえない。これらの言葉は有名人が使い始めるとそれを猿まねして使っているに過ぎない。ここでいう有名人とは単にマスコミを通して名前を知られている人物のことで,タレントと称する人物が元凶である。そもそもタレント(Talent)は古代ギリシャ,ヘブライの貨幣の単位に起因し,才能,才能ある人を表す言葉のはずだが,現実は何の能力もなくても,只だらだらとテレビに出て無知さ加減や自らの身体的欠陥を臆面もなく見せている人々のことを指す意味に変容しているらしい。

  小生が教職に就く前にいた民間企業で1960年代後半日本列島改造まっしぐらの時代にも次のような会話があった。「先ほどの専務とのコンファレンスのアナリシスで例のプロジェクトがペンディングになった。イミディアトリィに関係セクションにペーパーをイッシュしておいてくれ。予定していたレーバーも同様に・・・」などというものだったが,「会議で仕事が保留になったから早急に関係部署に書類送付と労働力手配取り消しの連絡を頼む」と言えばいいだけのこと。当時はいくらでも仕事があり,働くだけ豊かになれる時代で,先進的に仕事をやっているという気概のあることをカタカナ語を使って感じたいと思ってのことだったに違いないが,そこでのカタカナ語は高校以上大学教養課程以下の程度で,社会問題化始めたばかりの「公害」をポリューション(Pollution)と呼ぶことはなかった。「できるだけ早く頼むよ」を「アズスーンアズポシブル=As soon as possible」と言うときは大概照れ笑いが伴った。これらは設計図面と書類をすべて英語で表していた一企業内での会話に過ぎない。

  カタカナ語が必ずしも不都合とは言えないまでも,カタカナ語を使って意味を曖昧にしているのは薄っぺらで軽薄な感を拭えない。専門用語でどうしても日本語に訳せない言葉があるなら致し方ないとするだけである。ひとつの例を挙げれば,セレンディピティー(Serendipity)という言葉がある。これは「滅多に探せないものを見つけ出す才能,求めずして思わぬ発見をする能力」などの意味を表し,日本語に無理になおせば「見つけ上手」だが,元の意味が十分伝わらない。この言葉は自分が20歳代に聞いた言葉だったが,その後日本人ノーベル賞受賞者例えば下村 脩,田中 耕一各氏などが「失敗した実験結果から新しい真理を発見した」ことを知って,これがセレンディピティーなのだと納得したものだった。

   カタカナ語を使うことがスマートで洒落たことと思い違いしたり,発言内容を曖昧にしているなら避けるべき事ではないか。まさかカタカナ語を使うことが劣等感の裏返しということはないだろうが,意味明瞭な日本語があるなら軽薄で薄っぺらなカタカナ語は避けるべきではないか。そうでなくとも昨今の日本語がおかしな事になっていることに気付いているひとも少なくあるまい。そのいくつかを上げておきたい。
「私ってお酒が飲めないじゃないですか」という,「〜じゃないですか」言葉。相手が酒を飲めるかどうかなど知ったことではない。
 「私ってお酒が飲めないっていうか下戸なんですけど」という,「〜ていうか」言葉。はじめから私は下戸なんですとなぜ言わないのだ。
「私的にはお酒が好きでないみたいな,下戸なんです」という,「〜みたい」,「〜的」言葉。言いたいことを濁す曖昧表現の典型で一番聞きたくない言葉である。
「グラスに酒を入れてあげる」という,「〜してあげる」言葉。あたかも物に意志があるが如く語る不思議な言葉。擬人化しているわけではなさそう。
「結婚させて頂きます」という,卑屈にも聞こえる「させていただく」言葉。何でも「させていただきます」を付けると丁寧語になると思い違いしているのか。なぜ「結婚します」と自分の意志表示をしないのか。

   いずれも最近耳にするいろいろな会話を聞くとここに挙げた物言いに何度も出合い不愉快な気分になっている。言葉は「言霊」と言われるように,人の気持ちを表すもの。言葉を大事にしないことは自分の物事やひとに対する気持を大事にしないことに通じるのではないか。

   きれいな日本語を話すひとに会うと,ただそれだけで気持ちがよくなり好感を持てるのは当然のことなのだろうか。
 
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