日々の抄

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 敗戦記念の月に思う

2013年8月26日(月)

 ことしも広島,長崎の被爆記念日,終(敗)戦記念日の前後にたくさんのドキュメンタリー番組を観た。戦中生まれの自分にとっての例年行っている,望まずして命を失った人びとへの鎮魂の気持ちからである。タイトルと概要を以下に紹介しておく。

「復興〜長崎原爆」
   原爆投下後,国の支援のない中,市内のすべての町内会長が発起人になった市民による「大長崎建設」から始まる復興の記録。国の支援を待っていては,いつになったら生活再建ができるか分からない中,市民の懸命な尽力によって街の復興が進められていった。

「戦いが聴こえた〜ラジオが伝えた太平洋戦争」
   太平洋戦争をラジオで聞いたという太宰治の小説「12月8日」からはじまるラジオが戦争と如何なる関わりをもっていたかを伝える。昭和17年12月「大東亜戦争放送しるべ」で,「放送の全機能を挙げて大東亜戦争完遂に邁進す」としてラジオが戦争に全面的に利用されてきた。ラジオは出征兵士の消息,そして戦地に向かう直前の若き戦士の遺書にあたる勇ましくも悲壮な最後の言葉,戦場の実況録音,戦意高揚のため「天皇陛下の御ために死ねと教えた父母の…」 などの軍歌などを伝え続けた。
   戦果を伝えていた「勝利の記録」は昭和18年10月に終了。もはや伝えるべき戦果が終戦の2年前になくなっていたのだった。それ以降音楽は「軍艦マーチ」から「海ゆかば」に変わっていった。この歌は玉砕ないし撤退を表していた。昭和19年11月B29による初の東京空襲開始。それ以降,ラジオは敵機からの空襲を知るための情報源,飢餓に耐えるため農作物の作り方を伝えるような必需品となっていった。終戦近くになり,東京ローズなどによる謀略放送が流された。以降大本営の発表は国民を欺く偽りに満ちた放送が行われた。そしてラジオによる玉音放送で戦争は終わった。

「零戦から搭乗員達が見つめた太平洋戦争」
   「下士官は消耗品だった」と元兵士は語る。零戦の設計,昭和12年の中国での初運行,昭和16年12 月8日の真珠湾攻撃への参戦。最新鋭といわれ零戦も技術力,国力に富んだグラマンF4Fの敵でなく4500名もの若者が死に追いやられた。
   終戦後,あれほど特攻隊を賛美していた人びとが,特攻隊で命を落とし軍神とされ立てられていた記念碑の前で,「特攻などやらなければ戦争はもっと早く終わったのにけしからん」と非難する市民の豹変は,おそろしい流れに身を任せる者の愚かさを知らされる。また特攻隊員として帰還してきたひとに対する世間の冷たさはいったいなんだったのか。今更ながら,「 ・・・・・とみんな言っている」 という ことを憚らない一般大衆の愚かさを知らされた気がする。国民は無慈悲で手前勝手な日和見である。

「満州へ花嫁を送れ女子拓務訓練所」
   満州開拓団の花嫁学校と呼ばれた長野桔梗ヶ原女子拓務訓練所,御牧ケ原修練農場の歴史。当時100万人を満州に移住させる計画があった。ここから満州に嫁いだ後,男たちは招集され,残された婦女子はソ連軍の攻撃を受け逃げ惑った。彼らも国策による犠牲者だった。

「終わりなき被爆との戦い〜被爆者と医師の68年」
   米国は原爆投下一月後「もう原爆投下による死者はいない」としていた。だが,原爆投下から68年後の今,被爆が原因と考えられるMDS(骨髄異形症候群)が急増症しているという。今まで被爆により,被爆直後の急性障害,白血病,がんが発症してきた。放射線により仕掛けられた時限爆弾のような遺伝子への傷害が明らかになってきている。長崎原爆病院長は「核兵器は最悪の疫病であり,この苦しみを世界からなくすには核兵器の廃絶しない」と訴えている。被爆から25年経過した時,被爆者が減少し終息したと考えられていた。だが,68年後の今再び予測に反しMDSが多発しはじめている。
   MDSは一般には10万人にひとりだが,被爆者は15.9人で爆心地に近い被爆者ほど罹災率が高いことが分かった。MDSは被爆と因果関係が認知された。MDSは放射線が染色体へ異常をもたらす結果生じると判明した。23ある染色体の中で9番目と22番目の染色体が交換されることによることが分かり,この染色体の異常を見つけることにより治療が可能になってきている。また,Runx1という遺伝子が放射線によって傷つけられ68年経過してMDSを発症させていることが最近分かってきている。存命の被爆者は自らの中にある原子爆弾と闘い,医師は彼らに終わることなく寄り添っている。

報道特集「生きろ」
   最後の沖縄戦で県民に「生きろ」と叫び続け10万人を助けた沖縄県知事島田叡,沖縄警察部長新井退造の戦時でのヒューマンドラマ。軍部は米軍からの攻撃があったら最後は自決せよと迫り,沖縄の南部へと移動する中,軍は島民の命より,軍の名誉を重んじたが,知事らはひとりでも多くの島民の命を守ろうと奔走した。知事のその後の消息は分かってない。

「知られざる脱出劇〜北朝鮮・引き揚げの真実」
   昭和20年当時の満州朝鮮半島には400万人近くの日本の民間人がいた。終戦から1年4ヶ月になっても北朝鮮に残された20万人を越える日本人の本土への帰還は叶わなかった。脱出できずに亡くなった日本人は3万5千人。その多くの遺骨は北朝鮮の山や畑に埋められたままである。
   なぜ自力での脱出が必要だったのか。ソ連軍は北朝鮮に軍政を敷いていたにも拘わらず,日本人引き揚げの費用を米国に負担させようと企てていた。内陸からの移動輸送費,食料の負担がソ連,米国間で折り合いが付かずに日本人の帰還が遅れ,餓死者が増えていったのだったという。20万ものひとが命がけで飢えと病と闘いながらまた,ソ連兵の銃撃を恐れながら38度線を越えた。
   昭和21年12月にソ連が引き揚げ船を用意して帰還したのはたったの8000人だけだった。戦勝国が無抵抗の引き揚げ者を早期に帰還させていたなら,ソ連と米国が金の出し惜しみをしなければ,あれほどの無駄な犠牲者を出すことがなかったことは明白である。

「従軍作家たちの戦争」
   75年前芥川賞の授賞式が行われたのは中国杭州だった。日中戦争の戦場だった。陸軍伍長玉井勝則,作家火野葦平が受賞者だった。火野の受賞対象作は「糞尿譚」だった。授賞式には小林秀雄が参列している。火野の「土と兵隊」,「麥と兵隊」,「花と兵隊」は300万部もの大ヒットだった。陸軍は戦中作家たちをプロパガンダ(対敵宣伝)に当たらせた。火野はフィリピンに従軍した。他に菊池寛,井伏鱒二,林芙美子,吉屋信子,久米正雄,吉川英治,丹羽文雄,山岡荘八,石川達三,深田久弥,尾崎士郎,石坂洋次郎,佐藤春夫をはじめとする100名の作家が従軍した。
   1937年,7万の日本軍が中国に上陸した。軍部が作家に注目したのは兵士の目で戦線を報道することであった。
   第1回芥川賞受賞者である石川達三による小説「生きている兵隊」には日本軍が中国で残虐な行為を行っていることを記し懲役刑を受けた。その後「ペン部隊」として多くの作家が中国に送られた。 昭和16年以降大東亜共栄圏構築のため更に多くの作家が戦地に送り込まれた。
   「日本文学報国会」が昭和17年結成され作家たちは戦争への協力を強いられた。敗戦後,文学者たちは公職を追放された。火野は自らの小説に中国人殺害の生々しい記録を書き足して自害した。文学者は自ら好まずしても戦意高揚の文章を書くこと迫られ,国民はそれを喝采し,敗戦後は文学者を戦争を鼓舞したとして社会的に葬ったのである。ここでも国民は無慈悲で手前勝手な日和見である。

「長い旅路から日本兵になったアメリカ人」
   米国において日系人は大学を出ても時節柄就職することが困難で,子女を日本で教育を受けされる風潮が強かった。そうした米国籍を持つ日系人は日本人として米国と戦うことを強いられた。終戦後敵国人として戦ったとして裁判にかけられ,中には米国に対する国家反逆罪として死刑判決を受けた人もいた。
   1950年今度は米兵として朝鮮戦争に徴用された。太平洋戦争で兄が戦艦大和で戦死,弟が広島の原爆投下で爆死した人がいる。彼は理由の如何を問わず一般人を標的にした原爆投下は許せないと言う。日系人は日本にあって米国人,米国にあって日本人として見られていた苦しみがあった。日本にいた日系人は日本兵として,米国にいた日系人は米国人として戦わされた。兄弟で異国人として戦った場合もあった。蔽之館と称する学校で日系人を教育することが行われた。米国はこれをスパイ養成学校とした。在籍者の米国国籍を剥奪した。
   米国から帰国した日系人が広島に最も多く帰国。そして原爆投下の犠牲になった。

「緒方貞子 戦争が終わらない この世界で」
   難民国連弁務官緒方貞子の人生。曾祖父は犬養毅,外交官だった父。41歳で国連弁務官へ。中東をはじめ国内紛争により衣食住を奪われた避難民をいかにして助けるか。すべてを検討していたら何もできない。どう判断したらいいかは「勘」によることが必要という。
   終戦後聖心女子大学一期生として大学生活を送った時に出会った学長マザーブリットとの出合いがその後の生き方に大きな影響を受けた。「結婚を考えるヒマがあれば,頭を使うことを考えなさい。勉強しなさい」と諭された。「どこにいても灯火を灯す人になりなさい」と励まされた。戦後ジョージタウン大学に学び,「なぜ日本は戦争をしたのか」と自問した。博士論文「満州事変と政策の形成過程」を著した。現在の政治が満州事変の研究から学ぶべきものがあるという。それは,自分だけいいようなことは許されない。今でも,自分にとってだけいいような押しつけるようなことをやっている。これが望まれていることだと,内向きなのに妙に自信を持っている押しつけが行われている。内向きは無知につながっているという。
   ルワンダ難民キャンプの治安維持に国際社会が協力できないとしたとき,難民を受け入れているザイール軍に治安を依頼をするという初めての試みをした。現地に命を救われた「サダコオガタ」の名を持つ少女が少なからずいるという。
   緒方さんが若者に望むことは,「多様性への対応尊重」。自分と異なるものへの理解が求められるという。異人を偉人と思わないといけないという。そして73歳で10年に亘る任務を終えた。

「届かぬ訴え〜空襲被害者たちの戦後」
   太平洋戦争で,国内で150都市で空襲で30万人が命を失った。東京,大阪,横浜,名古屋をはじめ多くの空襲により戦災障害者が作られた。国がはじめた戦争でありながら,戦地に出向いた国民には傷痍軍人として保障を受けていながら一般市民は望まずして戦災に遭って傷害を抱えて生活に窮しているにも拘わらず何ら保障を受けられずにいる。国家賠償を請求しても国は保障せずにいる。この不条理さは何なのか。

などである。

   多くのドキュメントを観ての感想はいつもと同じである。つまり,戦争がはじまれば,それを止めることは限りなく困難であり,勇ましい誤ったナショナリズムが臺頭すれば一般市民は戦に巻き込まれ,命の保証は得られないということ。戦時中にマスコミは何を伝えていたのか,なぜ戦争を止める動きをしなかったかと長い間疑問だったが,戦時下で反戦と思われる報道をすれば,新聞の購読数が限りなく減少していったことが原因だったことが分かった。つまり,国民が戦争を肯定し,それに反する人びとを「非国民」と罵り,新聞の不買運動に走ったということである。「一億総懺悔」などという不愉快な言葉があるが,強ち誤った表現ではないようだ。
   「お国のため」という美名の下,自らも,また愛しく思っていた家族も戦地に送り,英霊という美名の下,石ころしか入ってない白木の箱を受け取る結果につながっていったのだ。
   一旦戦争になれば,お国が国民を守ってくれるなどと考えることは誤りである。インパール作戦で,飢えと灼熱地獄,疫病と闘う兵士は帝国陸軍に見捨てられた。満州で臣民を守ってくれると信じていた関東軍は,開拓民を徴用し,残った家族を見捨てて逃げ去ったのだ。沖縄でも然りである。

   国防という名の美名の下に,戦がはじまる動きになれば,容易にそれを止めることはできない。戦がはじまれば,国が,あるいは同盟国とされる米国が日本国民を守ってくれると思うのは誤りである。戦争を知らない国会議員が,「英霊を祀ってどこが悪いのだ」と豪語して靖国にを参っている。日本国民を不幸に導き多くの犠牲をはらわせた元凶のA級戦犯が祀られていることが諸外国の非難の的になっていることに気づかない愚かな政治家を,国民は選良として政治の場に祭り上げていることを忘れてはいけない。

   最近の国内は,憲法9条改正へ着々と突き進んでいるように思える。戦後68年間,日本は他国民の命を戦争で奪ってこなかったし奪われてこなかった。国防軍が他国民と戦火を交えることがあった暁には,日本国民が,あるいは日本国土が他国民から攻撃され,犠牲者が出ることに考えを及ばせるべきである。

   緒方貞子さんの「自分と異なるものへの理解が求められる」という考えが国際紛争をなくす根源なのだろうと思った。人の命が限りなく軽んじられる戦争の実相は,考えて理解することでなく,映像や,経験者・被災者の実体験に触れることが大事なのだと改めて思った。
   戦争記録は観ることが辛くても,自分の身に浸み入るまで観なければならない。自分はこれからも毎年この月に戦争記録を見続けていくつもりである。
 
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