日々の抄

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 非難すればいいのか

2014年5月7日(水)
 
 五月の連休も終わり、入学してひと月が経過した新入生にとって、新しい環境に少しづつ慣れ、友達もできつつあるのだろうか。

 いま、あの生徒はどうしているだろうかと思いを巡らせている高校生がいる。
 先月、埼玉県の高校の入学式で、不在だったとして非難された新入生の担任の子供である。

 自分の子供が入学式だった教員は埼玉県内で4人いたそうだが、はじめに取り上げられ「入学式に担任がいないのはけしからん」と非難の対象にされた女性教員の場合、校長に事前に事情を伝え、了解を得て入学式ではその旨を伝えるためのコメント文を保護者に配ったという。

 ところが、入学式に招かれた県議の「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」とフェイスブックにコメントが地元紙に掲載され、知られるようになった。また、TVで頻繁に顔を見せる教育評論家さんは「思いとどまらなかった教諭も、説得できなかった校長も責任は重い」と書き込んだが、こうした批判的な立場から発言したブログや県議のフェイスブックはともに「炎上」したという。

 県教育長は県議会文教委員会の議員らに経緯を文教委の終了後、記者を委員会室から退出させて説明したが、複数の県議が教育局や校長を強く批判したという。説明会出席者によると、県議からは「担任なのに出席しないのはとんでもない。最初から担任を外すべきだった」「校長はダメなものはダメとなぜ言えないのか」などの発言が相次いだ。説明会は、文教委員長の判断で非公開の場で行われた。「報道陣がいたら県議が構えてしまう。好きに言わせたいと思った」との説明があったが、県議の一人は「公人としての発言は公開が原則」との見方を示したうえで、「記者を外に出したのは不適切だった」と話した。まるで権力を笠に着た密室での陰湿ないじめではないか。

 教育長は14日の定例会見で「入学式は重要な学校行事。基本的に教諭は入学式に出席すべき。生徒や保護者を不安にさせてしまった。不安にならないようなフォローをし、(今後は)信頼関係を築いていくことが大事だ」と述べた。また、教育長は「きちんと(女性教諭は)メッセージを発しており、もう少し校長が丁寧に説明していれば理解が深まったかもしれない」とおもんぱかった。
 
 4月14日午後5時現在で、教育局には寄せられた86件の電話や電子メールのうち、教諭の欠席に理解を示すものが45件(52%)を占め、校長・教育長への批判は32件(37%)、教諭の行為を批判するものは9件(10%)だったという。
 
 
 結果からいえば、自分の子供の入学式とバッティングすることが事前に分かっていたのだから、担任を別の人に変わってもらっていれば済んだこと。今回は自分の子供の入学式が理由の有給休暇だったが、発熱などの病気が理由ならどうだったのか。公務員たる教員は、健康を害するとも出勤すべしということなのか。
 
 担任が欠席したことで新入生が動揺し傷ついたというなら、自分の入学式参加のため世間から非難され落ち込んでいる親を見て、自分も肩身の狭い思いをしている当の生徒の気持ちはどうなのだろうか。自分が新入生の担任として入学式にでるべきところを、自分の子供の入学式に出席するために欠勤することには相当の理由があったはず。いい加減な気持ちで年休をとったとは思えない。校長もその理由を聞き、納得して許可したに違いない。まさかこんな騒ぎになるとは思ってなかったのかもしれない。
 
 入学式に担任が不在だから、担任の自覚がない、教師の倫理観が欠如している、信頼関係が失われる、簡単に職場を放棄する態度には憤りを感じる、権利ばかり言う教員はいらない、などとの非難の声があるが、果たしてそうした非難は当たっているのだろうか。
 新入生の担任として入学式に出るべきことは当然知ってのこと。出席できなかった理由を承知した上で「簡単に職場を放棄する」「権利ばかり言う教員」と言っているのか。顔が見えないことをいいことに、無責任ないいたい放題はいかがなものか。

 担任と生徒との信頼関係は入学式だけで決まらないことなど誰でも分かること。わが子の入学式で担任がどういう人なのか、を知りたい気持ちはよく分かる。ある女子高校生が次のようなことをネットに書き込んでいる。
 『自分の担任は入学式に不在だったが副担任の先生が、担任の欠席理由を保護者に話し、学校からの連絡と挨拶をした。翌日、担任の先生はきのう入学式にこられなかった自分の子供の入学式参加の理由を話し、ごめんねと言った。ある生徒は、「先生の子供も自分たちと同じ年なんだね」と語り、教室の中から「先生おめでとう」という声とともに拍手が起こったという。』
 おとなは、「教員は滅私奉公であるべし」と考えていても子供の方が、いろいろなことにはそれなりの理由があることを柔軟に受け止めているようだ。
 

 密室で教育長や校長に罵詈雑言を浴びせたであろう県議は、鬼の首でも取った気持ちだろうが、そんなことをする権限がどこにあるのか。見識を疑う。権力の教育現場への介入は許しがたい。個人を非難している暇があったら、子供たちの命を危うくしている、県内の「耐震性のない棟と診断未実施の棟の計」が小中641、高校91もあることへの対策を考えたらどうか。

 また、「県教委では、欠席した教諭らの処分は検討していない」などと報じている新聞がある。入学式に年次休暇をとった担任が、処分されるような違法行為をしたとでもいうのか。報じた記者の気がしれない。
 
 何事もそれなりの理由があってのこと。もう少し多くの人が鷹揚に構え、他人に対し寛容な気持ちになれないのか。今のままでは、ますます、ぎすぎすした人間関係になるに違いない。日常的に非難の対象を学校、教員に向けておきながら、今さら「教職は聖職」などという言葉を聞くと白々しい気持ちになる。
 多少のしくじりは寛容に受け止め、教員が安心した気持ちで子供たちのことに時間をかけようと思える余裕と意欲を湧き立たせる環境作りが必要なのではないか。
 
 冒頭に書いた、非難の対象になった女性教員に言っておきたい。「こんなことで世間を狭くすることはありません。自分の子供を思う気持ちを大切にしてください。自分の子供を大切にできなければ、担任をしているクラスの子供も大切にできないはずです。クラスの子供を思い切り鍛え、今しかできない担任業を大切にし楽しんでください」。
 
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